何気に見ていて・・
凄い作品に出会えました。衝撃の一言です。。。
等身大の少女(16歳)のままの成長の葛藤~最後は40前位の中年男との純愛。
(まぁ現代では、性に対して歪みまくっている男性や、大概の男を蔑視している母親世代に教育されている
女性ばかりなので先ず有り得ないシチュエーションでしょうけどw)
「ママの我儘」と最後の方に言っていたので、恐らく男にだらしがない母親だったのでしょうね。
だから父親の愛情に飢えているという事かな?
最後は、内縁の妻状態でフィナーレまで持っていっている所が、また衝撃でしたね。
現在でリメークしたら、さぞ女性団体やらに非難の嵐でしょうなwww
旅の重さ [DVD]
フォーマット | 色, 限定版 |
コントリビュータ | 岸田今日子, 斎藤耕一, 三國連太郎, 富山真沙子, 高橋洋子, 素九鬼子, 三谷昇 |
言語 | 日本語 |
稼働時間 | 1 時間 30 分 |
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商品の説明
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
『望郷』の斎藤耕一監督が描く人間ドラマ。男の出入りが激しい母親に嫌気が差した16歳の娘が、四国遍路の旅を通して自らを見つめ直していく姿を描く。“特集「魅惑のエロス・名作に輝く女優たち」”。
内容(「Oricon」データベースより)
素九鬼子原作の同名小説の映画化。母との生活に疲れ、自身を見つめ直すために四国へと旅に出た16歳の少女の体験を詩情豊かに描いた作品。出演は岸田今日子、高橋洋子、富山真沙子ほか。
登録情報
- アスペクト比 : 1.37:1
- 言語 : 日本語
- 梱包サイズ : 18.03 x 13.76 x 1.48 cm; 83.16 g
- EAN : 4988105059573
- 監督 : 斎藤耕一
- メディア形式 : 色, 限定版
- 時間 : 1 時間 30 分
- 発売日 : 2009/1/28
- 出演 : 岸田今日子, 高橋洋子, 富山真沙子, 三國連太郎, 三谷昇
- 販売元 : 松竹ホームビデオ
- ASIN : B001LNQ01I
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 306,667位DVD (の売れ筋ランキングを見るDVD)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
5つ星のうち3.9
星5つ中の3.9
146 件のグローバル評価
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年6月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
アマゾンのPrimw Videoでコロナスティの暇つぶしに、本当に何気なく見ていたら、途中で若かりし頃の秋吉久美子が出てきてびっくりした。見終わって確かめてみたら1972年製作とある。見終わるまで気づかなかったが主人公の女の子が高橋洋子と知ってもっと驚いた。二人ともこの作品でデビューしているらしい。デビューの経緯は知らないが、私にとっての女優としての高橋洋子は衝撃的だった。時代的には吉永小百合全盛だった時代でミーハーとしての私にとって、ただの存在感だけになってしまっていた吉永小百合は無味乾燥な砂漠のようなもので、飽きの来るものだったから、高橋洋子のみずみずしさはオアシスに辿り着いたような気がした。
1972年と云えばこの年の2月にあさま山荘事件が起き、中国の文化大革命が佳境を迎え、フランス学生運動とともに五月革命が終結した後、「カルチェ・ラタン」と云う私には聞きなれない不思議な言葉を残して去ってしまった時代。この映画の原作者は無名の人だったらしいが、私にとって時代の雰囲気ムンムンの内容テンコ盛りの作品である。
この作品に「自分探し」と云う言葉をあてがっている人もいるが、50年と云う時代軸を中心軸として人間の側から見るとそのように見誤りがちだが、間違いなく高度経済成長の中でさまよい続ける時代そのものが自分を探している踊りのようだ。今のように時代の先がもう決まってしまったら「自分探し」と云う言葉も意味がないでもないがもう50年前の映画だが時代背景を無視できるほどのできなので、私はつい最近制作されたものかのように勘違いして見終わってしまった。時代背景を知らなければ確かに自分を探しているかのようにも見えなくもないが、要するにこの映画は「寅さん」なのだ。「男はつらいよ」ではなく「女はつらいよ」と云うことになる。古(いにしえ)から、若い女の一人旅は「からだ」を提供すると云う暗黙の了解があった? 昔の戦争は領土拡張が建前だが、戦う一人びとりの一兵卒にとっては金品略奪・女の略奪と云う下心やオマケがないと戦争なんてやってられないのである。下々にとって戦(いくさ)とは時代そのものに過ぎないのだ。寅さんの戦いは道化だが、この映画の主人公はエロスとして戦った。プロローグでろうそくの灯が消えて農作業小屋から外へ出る時に着ている白い着物をただの上着としてのワンピースと思えば思えなくもないが、私は下着としての白と最初は思ってみていたが年代からして「シミーズ」であろうと思えた。子供のころ、私の母は東京のくそ暑い夏、家の中だけに限って時たま下着としてのシミーズのままウロチョロしていたことを思い出す。1972年と云うと日本の女性は上着の下はこのシミーズと決まっていたようだ。英語の「シュミーズ」が日本語的になまったものらしいが、今だとスリップとかさらにはキャミソールといういいかたに変わっているらしい。このシミーズには裾のふちにレース飾りで縁取りされているのが当たり前だったように思えるが、私が見聞きしたものは母のそれでしかなく、ある時期からこのレースの縁取りが、今の言い方だと年配者のファッション感覚で「ダサイ」物であり、若い人はこの縁取りのないシミーズを身につけたがると云う話を聞いたような気がする。(後で年配の女性に聞いた話しだが、校則でレースの縁取りのあるシミーズは淫らなものであり、着用してはならないというものもあったらしい) だからこの映画の製作された50年前の若者は高橋洋子が身に着けていたワンピースのようなシミーズになっているのかもしれない。映像開始から25分のところで主人公が最初に海と出会うところでシミーズ姿になって海に飛び込むシーンがあるがこの部分ではレースのついていないシミーズであることがわかる。それともう一つ、特徴的なのがこの主人公は最初から最後までブラジャーを付けていないこと。この作品は1972年だが日本の1960年代は女性の間でブラジャーをつけるべきかつけざるべきかの大問題が起きていた時代である。都市生活者としての若い人にはほぼブラジャーの普及は完了していたようだが年配者と未成熟な若年層にとってそれをどうするかが問題視されていた。ここに登場する主人公としての高校生は、しかも四国の片田舎の女子高生にとって問題意識さえ問題視されていないような時代背景として主人公の「ノーブラ」はノーブラとしてのノーブラではなく、日常生活としてのブラジャーの存在などを意識する必要のないその古典的な姿であった。
最初、見始めて主人公がブラジャーを付けていないのは最近の作品の傾向として見ていたのだが、それが時代そのものであったことを後で気づくことになる。表面的には学生運動や万博、経済成長、交通戦争、受験戦争などと云った現象の底で女どものひそかな戦いや子供たちのイジメ問題が人知れず進んでいたらしいのだ。
エロスとは日常と非日常のはざまのことを言うとするなら、まさにこれがエロスの真骨頂と云うべきなのかもしれない。今の若い人にとってはあずかり知らぬことである。ブラジャーによって日本の女どもの体は「物」そのものになってしまったのだ。体と云うものは本来その人そのものだったのだが、物であり道具であることによって「体」は自己自身から分離する。旧石器時代としての、最初に石ころを手にしたときその石はただの石ではなく手の延長としての自己の拡張であった。だからその石は道具ではなく自己自身であることによって、自己でないものとしての自然に立ち向かうことになるが、旧石器から新石器になることによって人間と石ころは分離し、その石ころは今の我々が考える「道具」になる。道具と、もともと自分自身であったはずの体とが分離し対峙することによって「身体」自身が道具化する。自分自身の欲望を満たすための道具になってしまった。
私は3回も見てしまった。また観ようと思う。しかし最後の夫婦になってしまうと云う終わり方は違うだろうと思った。寅さんはフウテン(放浪者)だが、それだと母親と同じになってしまう。女優としての高橋洋子はうまくそこを避けたようらしいが、主人公はおそらく高橋洋子がこの後好演することになる「サンダカン八番娼館」の主人公そのものの姿である。
1972年と云えばこの年の2月にあさま山荘事件が起き、中国の文化大革命が佳境を迎え、フランス学生運動とともに五月革命が終結した後、「カルチェ・ラタン」と云う私には聞きなれない不思議な言葉を残して去ってしまった時代。この映画の原作者は無名の人だったらしいが、私にとって時代の雰囲気ムンムンの内容テンコ盛りの作品である。
この作品に「自分探し」と云う言葉をあてがっている人もいるが、50年と云う時代軸を中心軸として人間の側から見るとそのように見誤りがちだが、間違いなく高度経済成長の中でさまよい続ける時代そのものが自分を探している踊りのようだ。今のように時代の先がもう決まってしまったら「自分探し」と云う言葉も意味がないでもないがもう50年前の映画だが時代背景を無視できるほどのできなので、私はつい最近制作されたものかのように勘違いして見終わってしまった。時代背景を知らなければ確かに自分を探しているかのようにも見えなくもないが、要するにこの映画は「寅さん」なのだ。「男はつらいよ」ではなく「女はつらいよ」と云うことになる。古(いにしえ)から、若い女の一人旅は「からだ」を提供すると云う暗黙の了解があった? 昔の戦争は領土拡張が建前だが、戦う一人びとりの一兵卒にとっては金品略奪・女の略奪と云う下心やオマケがないと戦争なんてやってられないのである。下々にとって戦(いくさ)とは時代そのものに過ぎないのだ。寅さんの戦いは道化だが、この映画の主人公はエロスとして戦った。プロローグでろうそくの灯が消えて農作業小屋から外へ出る時に着ている白い着物をただの上着としてのワンピースと思えば思えなくもないが、私は下着としての白と最初は思ってみていたが年代からして「シミーズ」であろうと思えた。子供のころ、私の母は東京のくそ暑い夏、家の中だけに限って時たま下着としてのシミーズのままウロチョロしていたことを思い出す。1972年と云うと日本の女性は上着の下はこのシミーズと決まっていたようだ。英語の「シュミーズ」が日本語的になまったものらしいが、今だとスリップとかさらにはキャミソールといういいかたに変わっているらしい。このシミーズには裾のふちにレース飾りで縁取りされているのが当たり前だったように思えるが、私が見聞きしたものは母のそれでしかなく、ある時期からこのレースの縁取りが、今の言い方だと年配者のファッション感覚で「ダサイ」物であり、若い人はこの縁取りのないシミーズを身につけたがると云う話を聞いたような気がする。(後で年配の女性に聞いた話しだが、校則でレースの縁取りのあるシミーズは淫らなものであり、着用してはならないというものもあったらしい) だからこの映画の製作された50年前の若者は高橋洋子が身に着けていたワンピースのようなシミーズになっているのかもしれない。映像開始から25分のところで主人公が最初に海と出会うところでシミーズ姿になって海に飛び込むシーンがあるがこの部分ではレースのついていないシミーズであることがわかる。それともう一つ、特徴的なのがこの主人公は最初から最後までブラジャーを付けていないこと。この作品は1972年だが日本の1960年代は女性の間でブラジャーをつけるべきかつけざるべきかの大問題が起きていた時代である。都市生活者としての若い人にはほぼブラジャーの普及は完了していたようだが年配者と未成熟な若年層にとってそれをどうするかが問題視されていた。ここに登場する主人公としての高校生は、しかも四国の片田舎の女子高生にとって問題意識さえ問題視されていないような時代背景として主人公の「ノーブラ」はノーブラとしてのノーブラではなく、日常生活としてのブラジャーの存在などを意識する必要のないその古典的な姿であった。
最初、見始めて主人公がブラジャーを付けていないのは最近の作品の傾向として見ていたのだが、それが時代そのものであったことを後で気づくことになる。表面的には学生運動や万博、経済成長、交通戦争、受験戦争などと云った現象の底で女どものひそかな戦いや子供たちのイジメ問題が人知れず進んでいたらしいのだ。
エロスとは日常と非日常のはざまのことを言うとするなら、まさにこれがエロスの真骨頂と云うべきなのかもしれない。今の若い人にとってはあずかり知らぬことである。ブラジャーによって日本の女どもの体は「物」そのものになってしまったのだ。体と云うものは本来その人そのものだったのだが、物であり道具であることによって「体」は自己自身から分離する。旧石器時代としての、最初に石ころを手にしたときその石はただの石ではなく手の延長としての自己の拡張であった。だからその石は道具ではなく自己自身であることによって、自己でないものとしての自然に立ち向かうことになるが、旧石器から新石器になることによって人間と石ころは分離し、その石ころは今の我々が考える「道具」になる。道具と、もともと自分自身であったはずの体とが分離し対峙することによって「身体」自身が道具化する。自分自身の欲望を満たすための道具になってしまった。
私は3回も見てしまった。また観ようと思う。しかし最後の夫婦になってしまうと云う終わり方は違うだろうと思った。寅さんはフウテン(放浪者)だが、それだと母親と同じになってしまう。女優としての高橋洋子はうまくそこを避けたようらしいが、主人公はおそらく高橋洋子がこの後好演することになる「サンダカン八番娼館」の主人公そのものの姿である。
2021年9月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
高校生の頃、NHKの銀河テレビ小説で見て、かなり年上の彼女に惚れてしまいました。
毎晩食い入るように見たものです。
この映画がしかもBDで見れるとは驚きで、「鴎よ…めぐり逢い」と合わせて買いました。
二十歳、若いなー。
どこかアグネスチャンに似ているし。
半世紀も前の作品にしては映像も音声もしっかりしています。
音割れが少ないのは大変心地よいです。
松竹さんがマスターを適切に保存してくれたからでしょうか。
でも令和に初めて見ると「娯楽映画」と見えてしまいます。
やっぱりNHKが出してくれないかな?
銀河…の「冬の祝婚歌」。
二十六歳の彼女を見たい。
原作はしっかりとした真面目な推理小説なんです。
毎晩食い入るように見たものです。
この映画がしかもBDで見れるとは驚きで、「鴎よ…めぐり逢い」と合わせて買いました。
二十歳、若いなー。
どこかアグネスチャンに似ているし。
半世紀も前の作品にしては映像も音声もしっかりしています。
音割れが少ないのは大変心地よいです。
松竹さんがマスターを適切に保存してくれたからでしょうか。
でも令和に初めて見ると「娯楽映画」と見えてしまいます。
やっぱりNHKが出してくれないかな?
銀河…の「冬の祝婚歌」。
二十六歳の彼女を見たい。
原作はしっかりとした真面目な推理小説なんです。
2021年9月3日に日本でレビュー済み
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何か映画全体のイメージが薄汚く、埃っぽい。
何でかと言うと、旅に出た当初、着ていた白く綺麗な服が段々汚れていって、気になる。洗濯して!
旅先での内容も、薄汚い展開に。タイトルの「旅の重さ」にしようとしているのか?
この時代の風潮なのか、メランコリックで明るくない?そういう美意識なのか?よくわからない。
せっかく高橋洋子のデビュー作なのに、なんか埃っぽい。
もっと綺麗に撮ってあげれば良かったのに…。
コンセプト:C(何これ?) アイデア・表現:B(暗い、凡庸) 主演・高橋洋子:AAA(可愛い)
何でかと言うと、旅に出た当初、着ていた白く綺麗な服が段々汚れていって、気になる。洗濯して!
旅先での内容も、薄汚い展開に。タイトルの「旅の重さ」にしようとしているのか?
この時代の風潮なのか、メランコリックで明るくない?そういう美意識なのか?よくわからない。
せっかく高橋洋子のデビュー作なのに、なんか埃っぽい。
もっと綺麗に撮ってあげれば良かったのに…。
コンセプト:C(何これ?) アイデア・表現:B(暗い、凡庸) 主演・高橋洋子:AAA(可愛い)
2016年11月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この映画のことは全く知識が無く、つまらなければ次を探せばいいくらいの気持ちで見始めましたが、引き込まれました。この時の高橋洋子さんが幾つなのかは知りませんが、生き生きとしていてとてもいい。演技している感がないのが好感持てます。特に感動させたり涙を誘ったりするわけでもなく、物語は淡々と進みますが、主人公の不安定な心情や成長していく過程が気持ちよく描かれていると思います。小説を一気に読み上げたような心地よさが残りました。