クローズ~ワーストの一連の「鈴蘭もの」はこの19巻目(新装版)で一応の終了。
地獄の鈴蘭における初代番長という偉業にて見事大団円。
不良少年物の金字塔として永遠に俺たちの胸の中に燃え続けるんだよ!ということですが、個人的には「月島花」の存在が好きでね。
性格とかじゃなくて、「ワースト」世界における一部読者から突っ込みを「喧嘩少年月島花」くんが代弁してくれるところがね。
月島花は酒も飲まなきゃ、タバコも吸わない、女の影もなければ人様に舐めた態度で接しない。
酒を飲んだり、タバコも吸えば、女のケツを追い、必要であれば躊躇なく街行く「そこのお兄ちゃん」を小突いてバイクなり、自転車を強制的に借りる(スネークヘッズ編での春道のスカジャン強制交換とか、あったな~)。
クローズから続くメインのキャラクター達にはそういった「不良として自由さ」が目についたけど、現実にいたらいくら作中で「男として最高な奴だ!」みたいな評価されても嫌じゃない、そういうヤツ。
読者の期待する「ヤバくてかっこいい不良少年像」は周りのキャラクターに任せて、月島花君は不良というより「喧嘩に忌避感のない良い奴」として「男を上げる」「周りの奴らに認めさせる」「力があれば!」みたいなクローズ世界の価値観に対して真正面から突っ込んでいく。
「クローズ~ワースト世界」に溶け込みながらも、その価値観を「十代少年の喧嘩メインの青春」へと引き戻したのは月島花という本質的には他のワースト世界の登場人物と違う価値観で生きる少年だからだと思う。
特にこの19巻で萬侍帝国との7対7の喧嘩における「俺たちは10代でヤクザじゃない!」の台詞は、それまで抗争だの戦争だの「ぶっ殺してやる!」などの単語が頻発し、外見がどう見ても30~40代のヤクザみたいな連中を一発で「10代」として再定義して、今までの血みどろを抗争・戦争といった生臭い者から「喧嘩小僧共の青春」へと昇華できたのは、やっぱり価値観の違う月島花というメタフィクションヒーローがいたおかげだと思う。
クローズではスネークヘッズという今でいうところの半ぐれ集団が登場し、萬侍帝国という一大組織があり、ワーストでこれ以上話を大きくするとそれこそヤクザ組織が紙面にあふれ、10代の少年たち(外見は30代ヤクザ)とヤクザとの抗争を展開しかねないといった殺伐さを、月島花という存在は漫画的な「喧嘩少年青春もの」へと引き戻した偉大な男である。
※ちなみに月島花の様なキャラクターがいないで突き進むとQPの世界へと進んでいくのでしょう。
なので、月島花以外の登場人物がヤクザ抗争真っ青な感情と顔面力で話をけん引しながら、要所要所でメタフィクションヒーローによって、軌道修正されていって大団円を迎えたのがワーストなのかな~と思います。
新装版WORST 19 (19) (少年チャンピオン・コミックスエクストラ) (日本語) コミック – 2020/3/6
髙橋ヒロシ
(著)
19巻中19巻: 新装版 WORST
-
本の長さ360ページ
-
言語日本語
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出版社秋田書店
-
発売日2020/3/6
-
ISBN-104253254691
-
ISBN-13978-4253254694
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クローズとワーストは両方とも最後のシリーズが卍帝国との揉め事である。クローズでは後継者問題で孤立化する事になった九頭神竜男が過去に揉めた小物ヤンキーに雇われるかたちで武田好誠ら新四天王をぶちのめし、美藤をやったのも彼だと解るので因縁が出来上がり、最後に春道とのタイマンがある。一方のワーストでは武装と卍が揉め、藤代の指示で武装の面々が身を隠してるうちにやってきた卍が鈴蘭や鳳仙とも揉めるかたちになり、戸亜留市対卍の全面戦争か、という方向に発展する。
これをみてもわかるようにワーストではクローズのときに比べて個人対個人よりも軍団抗争の色合いが濃い。鈴蘭対鳳仙でもクローズでは春道、マコトと美藤兄弟が「鈴蘭対鳳仙なんて無しだ」と言ってタイマンに帰結するのに対し、本作の序盤ではキングジョーがゼットンとのタイマンを放棄して「鈴蘭対鳳仙」にもっていく。なんでキングジョーがそんな事をしたのかというと、鳳仙が鈴蘭とマトモにやりあっても勝てないからである。中島の仲介を入れて5対5のタイマンにもっていったのは被害を最小にとどめるためでもあろうし、鈴蘭の3年たちをやってしまえばとりあえずそれなりの面目は保て、光政を参加させなかったのも「なにもしなかったから」という理由が語られるが、恐らくはこの先鳳仙を背負って立つ光政を此処で花に負けさせるわけにはいかなかったというのが、キングジョーだけでなく、月光の兄貴も含めた本心ではないか。
上に挙げた例を見ても解るが、どうもワーストになると不良たちの行動がダサい事が多い。行動原理が政治的打算みたいに見える。藤代の「地下に潜れ、その間に鈴蘭や鳳仙ともめさせて全面戦争に発展させよう」みたいな考えも、数名で銭屋との全面戦争もじさぬと啖呵切ってみせた六代目の頭、鉄生が草葉の陰で泣いてるぞ、といいたくなるが、そもそもワーストでは後期になると、少数精鋭が魅力だったはずの武装に、顔もないモブが多数所属するようになる(ある回の扉の見開き絵で名前とシルエットだけの構成員が複数いたが、出てこずじまいだった笑)。上の鈴蘭対鳳仙では加藤秀吉が「自分の喧嘩は敗戦の歴史、それは自分より強そうな相手と戦いたいから、勝てそうにない相手だからこそ燃える」と語るが、このような考えこそ高橋ヒロシがこのシリーズでやっていたことだが、その秀吉もブッチャーから「狂犬と呼ばれたあんたもゼロになるのは怖いか」と図星をつかれたように九里虎からは逃げたが、上の台詞の前でも以前に比べると冷めてしまったと語っていた。でもまだ彼は高校3年である。特に学があるわけでもなんらかの秀でた才能があるわけでもないし、大物ぶる年齢ではないように思われる。
プレワースト、の短編「セニドクロ…」でも岩城軍司がさも大物、と言う感じで出てくるが、漫画の軍団抗争化が進むに連れ、他のひとの指摘にあり、過去のレビューでも似たような意見がみられたが、不良たちのヤクザごっこ化がだいぶ進んでいると言える。
トップの世良が天地に負けた河田二高は幹部全員の署名入りで「2度と逆らわないと誓います、それを破った場合は此処に名前のある者の指を差し出します」みたいな誓約書まで書くので流石においおい…といいたくなるし、鉄生が死んだ時に元武装の面々がマフィア幹部連のような出で立ちで現れるのだが、学校にも行ってないっぽい彼ら、多くはただの10代のアルバイト少年なのでは?と笑ってしまいそうになる。
こういった抗争が深刻化すると美藤長男や陣内公平のように死者まで出るに至るので、不良の喧嘩が男の生きざまつってもそんなのが当たり前のようになるのは流石にどうなの、という話なので、ゼットンが問題提起を行う。
序盤で彼は鈴蘭卒業生の悲惨な末路を語るが、「偉大なヤンキーつっても所詮はなにも持ってないただの高校生、卒業してしまえば”偉大なヤンキー”なる看板もただひたすら空虚な代物でしかなくなる」という事だろう。だからそんな流れを止め、不良たちに未来を示す偉大な男が必要だ、と語り、それが誰も成し得なかった番長になると宣言した本作の主人公、月島花なのである。
花は否ヤンキーの少年であり喧嘩でも必ず「恨みっこなしな」とトラブルが後腐れるのを嫌い、最後の卍幹部連との抗争も、よりにもよってジャンケンで決着をつけようとする。花は最後に番長の役目を「火消し」と語るが、状況が悪化すると抗争に発展し人まで死ぬケースに発展する喧嘩を「ジャンケンのような子どもの遊び、あくまでも単なる腕試し程度のもの」にしようとするがこれが「火消し」ということなのだろう。その役割を担うにはやはりモラルから逸脱したヤンキーではならなかったのだと思われる。
これはクローズへのカウンター的な設定で、花と対局に位置するのが坊屋春道である。他の人の指摘にあるようにしばしばパワハラ紛いのマネをやらかしたりする春道の何処が最高の男やねんという突っ込みはごもっともであり、これを発展させると「更生して頑張ってるサラリーマン千田がなんであんなボロカスに描かれないといけないの、ポンやヒロミなんかアウトローぶっても所詮は高校の最終学歴ほしいから高校中退しないんでしょ、そんな連中に真面目に頑張ってる千田をけなす資格があるの?」と批判するのも可能である。
春道を「最高の男」と評したのは前述の問題提起を行ったゼットンである。彼は「九頭神竜男が高校不良界最強なら坊屋春道は最高の男、たかが最強で最高に勝てるわけねーだろ」と言う。理論的に出鱈目もいいところでしかない…のだが、たしかに読んでいると「最高だから最強に勝った」と思わせる。春道は強かったやつランキングで1位にしたリンダマンとほぼ五分の1敗1分けなので実力でも竜男に勝つ可能性は充分あるようにも思うが、勝因は「最高だから」にある、と思わせる。
ほかのひとが指摘するスカジャン強制交換のパワハラ行為では、そのあとに春道が「なんかあったら力になるから呼べよ」とか言って、交換させられたモブヤンキーが「わるいやつらじゃねーな」とパワハラを受けたのに春道に好感を抱いて別れるのだが、なんかあったら力になるといっても、たぶん春道は彼の名前も覚えてないだろうから、「その時」なんか来ないので、これも「ただ言っただけ」でしかない。春道の行動はどれも主観に基づいており、バイクを破損させたからとキーコに5千円渡すのも、5千円が修理費として妥当な価格なのか、と突っ込みは可能である。
この主観が喧嘩のほうに向かうと、スネイクヘッズ200人に3人で挑もうとするというかなり無茶な行動に繋がる。武装と揉めた時もマコトとふたりで向かう途中で談笑するなどまるで危機感はない。ホントに3人だけでなんとかしようとしたのは春道だけで、援軍が来ると知ってたからこそ春道に同行した龍信が「お前には勝てねーな」というのは喧嘩の実力よりもこっちのほうにあると思われる。
つまり春道は理屈を超越した男なのである。「最高の男」とは理屈を超越した存在だと言うことなのだ。理屈を超越しているから「最強」に勝ってしまうのだ。そして春道と違って理屈に収まっている花は、本作の「最強」であるビスコには勝てないのであり、本作の超越者である九里虎にも勝てないのである。
ふたりの違いとして、春道は密かに「伝説」になった、とある。伝説になる男というのは歴史上の偉人を見ても、常識の超越者ではないだろうか。春道は「ヤンキー伝説」となった男なので、超越者でなくてはならないのである。本作に限らずヤンキー漫画で伝説になるには超越するかこの世を去るかしかなく、「特攻の拓」でも半村誠、天羽時貞といった伝説化したヤンキーはみんな世を去っている。この漫画ではのちに半村が無残に事故死している絵をかき、後を継いだマー坊が「偉大な死なんてない」とかいって伝説の解体を行うが、その後に天羽の死が描かれ、最終回では拓もスピリチュアルじみてしまうので、よくわからない。「ウダウダやってるヒマはねェ」でもアマギンという伝説の男は超越者となり、世を去ったあとでスピリチュアル的な描写がある。伝説はある程度盛られるのがお決まりなので、アマギンにしても女を強姦したようなやつを凄いみたいにされてもね…と突っ込みは可能である。
理屈を超えている人間を理屈で批判しても余りその伝説の解体には効果がない。「織田信長って単なるブラック企業の社長みたいなもんでしょ、何度謀反起こされてんのよ」と批判しても余り影響はなさそうである。春道みたいなのが近くにいたらヤダというのは全く同意するが、例えばドラゴンボールの悟空だって近くにいたら相当イヤである。夫婦喧嘩でチチをかるく叩いたら大怪我を負わせているのをギャグで描いてるが、その気になりゃ簡単に世界を滅亡させられる悟空を土台の怪しい性善説で成り立たせてる極めてリスキーな世界だと解る。あの世界、絶対に住みたくないだろう。
伝説の誕生を描くクローズに対してワーストは伝説でなく現実の少年たちの未来を示す為の偉大なる存在…番長の誕生を描く、という対比的な構造になっている。
宮崎アニメで言うと、神話の誕生を描いたナウシカと、神話の解体(神殺し)を描いたもののけ姫の関係に近い。
もののけ姫での神話たるシシ神がたんなる迷惑な存在でしかなかったようにワーストでも「伝説」の九里虎は単なる迷惑者でしかなく、そもそも喧嘩に参加すると必ず勝つので漫画としても面白くなく、存在自体が作者の手に余っており、キレて場を滅茶苦茶にするルーティンギャグ要員でしかないが、もののけ姫同様に、もう「伝説」の居場所なんて現実にはないのだというふうにも見える。近代化が進み森が切り開かれていくなかで「古代の神々」の居場所が失われたように。
ではそれがうまく行ったのか、というとこれは怪しいと思う。最終回の鈴蘭の様子が最初と何も変わってないように見えるからである。国際化が進んで外国人ヤンキーが来ただけである笑。おまけに此処ではブルーハーツの終わらない歌が流れる。ブルハってロック伝説そのものじゃん。伝説の音楽が流れる中で最初と何も違わないヤンキーたちの姿をみると、ゼットンから託された未来を示すという役割を花は果たせなかったとしか見えない。「火消し」とかそういうことでなく、鈴蘭卒業後の未来を示し、それが花が卒業したあとも鈴蘭に残ることで、ゼットンの問題提起の回答足り得るのである。それのない、形だけの番長に意味があるのだろうか。いや、ない(反語)。
この失敗は高橋ヒロシの漫画家としての表現力の衰えが理由であると思われる。理屈を超越した描写とは平たくいえば「漫画の嘘」であり、それを成立させるためには優れた漫画技術が必要となる。カリ城のカーチェイスで「あんな急勾配の崖を車で駆け上がれるかね」と思わせないのはアニメとしての優れた演出があるからであり、同じく「パワハラヤンキーを最高の男と思わす」には優れた漫画表現が必要なのである。その漫画表現の衰えは、シルエットで片付けてばかりの喧嘩等そこかしこから伺え、描く必要のまったくない新装版の新エピソードの中身の無さと作画の劣化の進行具合からも理解できる。表現として衰えると花の人間性を示す「通りがかりに居た妊婦さんを助ける」という行動が取ってつけたような理屈っぽさにしか見えなくなり、理屈を超えた春道の伝説に比べて魅力を乏しく感じるのである。因縁の天地との二度目のタイマンでも花の天地への説教は理屈が過ぎてだいぶ説教くさく、少ない言葉で美藤竜也の問題の図星を付く春道の説教よりペラく思えてしまう。クローズでの春道対リンダマン二度目のタイマンと、本作の花対九里虎二度目のタイマン、どっちが面白いかと聞かれて後者を選ぶ高橋漫画ファンがどれだけいるか。
宮崎駿ももののけ姫でさんざんマイノリティが、人と自然の共生が、と言っておいて着視点を見失い「シシ神は花咲か爺だった」とよくわからないことを言い、「バカには勝てん」でなんとなく終わらせてしまったが、伝説や神話を解体させるにはそれよりも魅力的な市井の民による現実を作らねばならず、そこに伝説や神話のロマンを超える「物語」がないと受け手は納得しないので、とっても難しいのである。本作がクローズほどウケなかったのもそのせいだろう。
その後の高橋ヒロシが弟子たちに鈴蘭スピンオフを量産させつつ、本人は荒廃した世界で延々とヤクザごっこをしている変な人達を描き続けているのを見ても、失敗だ、と考えるのが妥当だろう。
ついでに言っとくと天地の部下で何の救いもなくぶん殴られて退場した根暗眼鏡がいたが、彼は作中のヤンキーたちと違って何のフォローもされないままである。健康的ヤンキーカースト社会である高橋漫画の世界に彼のような少年の居場所はなく、藤代らも「ほっとけ、関わるな」で、月島花も彼には一切目を向けることはない。「その後のクローズ」に「不良少年と非行少年を一緒にするな」とあったが、彼は後者だったのだろう。本作に残ったのは「番長」という単なるモニュメントだけである。
これをみてもわかるようにワーストではクローズのときに比べて個人対個人よりも軍団抗争の色合いが濃い。鈴蘭対鳳仙でもクローズでは春道、マコトと美藤兄弟が「鈴蘭対鳳仙なんて無しだ」と言ってタイマンに帰結するのに対し、本作の序盤ではキングジョーがゼットンとのタイマンを放棄して「鈴蘭対鳳仙」にもっていく。なんでキングジョーがそんな事をしたのかというと、鳳仙が鈴蘭とマトモにやりあっても勝てないからである。中島の仲介を入れて5対5のタイマンにもっていったのは被害を最小にとどめるためでもあろうし、鈴蘭の3年たちをやってしまえばとりあえずそれなりの面目は保て、光政を参加させなかったのも「なにもしなかったから」という理由が語られるが、恐らくはこの先鳳仙を背負って立つ光政を此処で花に負けさせるわけにはいかなかったというのが、キングジョーだけでなく、月光の兄貴も含めた本心ではないか。
上に挙げた例を見ても解るが、どうもワーストになると不良たちの行動がダサい事が多い。行動原理が政治的打算みたいに見える。藤代の「地下に潜れ、その間に鈴蘭や鳳仙ともめさせて全面戦争に発展させよう」みたいな考えも、数名で銭屋との全面戦争もじさぬと啖呵切ってみせた六代目の頭、鉄生が草葉の陰で泣いてるぞ、といいたくなるが、そもそもワーストでは後期になると、少数精鋭が魅力だったはずの武装に、顔もないモブが多数所属するようになる(ある回の扉の見開き絵で名前とシルエットだけの構成員が複数いたが、出てこずじまいだった笑)。上の鈴蘭対鳳仙では加藤秀吉が「自分の喧嘩は敗戦の歴史、それは自分より強そうな相手と戦いたいから、勝てそうにない相手だからこそ燃える」と語るが、このような考えこそ高橋ヒロシがこのシリーズでやっていたことだが、その秀吉もブッチャーから「狂犬と呼ばれたあんたもゼロになるのは怖いか」と図星をつかれたように九里虎からは逃げたが、上の台詞の前でも以前に比べると冷めてしまったと語っていた。でもまだ彼は高校3年である。特に学があるわけでもなんらかの秀でた才能があるわけでもないし、大物ぶる年齢ではないように思われる。
プレワースト、の短編「セニドクロ…」でも岩城軍司がさも大物、と言う感じで出てくるが、漫画の軍団抗争化が進むに連れ、他のひとの指摘にあり、過去のレビューでも似たような意見がみられたが、不良たちのヤクザごっこ化がだいぶ進んでいると言える。
トップの世良が天地に負けた河田二高は幹部全員の署名入りで「2度と逆らわないと誓います、それを破った場合は此処に名前のある者の指を差し出します」みたいな誓約書まで書くので流石においおい…といいたくなるし、鉄生が死んだ時に元武装の面々がマフィア幹部連のような出で立ちで現れるのだが、学校にも行ってないっぽい彼ら、多くはただの10代のアルバイト少年なのでは?と笑ってしまいそうになる。
こういった抗争が深刻化すると美藤長男や陣内公平のように死者まで出るに至るので、不良の喧嘩が男の生きざまつってもそんなのが当たり前のようになるのは流石にどうなの、という話なので、ゼットンが問題提起を行う。
序盤で彼は鈴蘭卒業生の悲惨な末路を語るが、「偉大なヤンキーつっても所詮はなにも持ってないただの高校生、卒業してしまえば”偉大なヤンキー”なる看板もただひたすら空虚な代物でしかなくなる」という事だろう。だからそんな流れを止め、不良たちに未来を示す偉大な男が必要だ、と語り、それが誰も成し得なかった番長になると宣言した本作の主人公、月島花なのである。
花は否ヤンキーの少年であり喧嘩でも必ず「恨みっこなしな」とトラブルが後腐れるのを嫌い、最後の卍幹部連との抗争も、よりにもよってジャンケンで決着をつけようとする。花は最後に番長の役目を「火消し」と語るが、状況が悪化すると抗争に発展し人まで死ぬケースに発展する喧嘩を「ジャンケンのような子どもの遊び、あくまでも単なる腕試し程度のもの」にしようとするがこれが「火消し」ということなのだろう。その役割を担うにはやはりモラルから逸脱したヤンキーではならなかったのだと思われる。
これはクローズへのカウンター的な設定で、花と対局に位置するのが坊屋春道である。他の人の指摘にあるようにしばしばパワハラ紛いのマネをやらかしたりする春道の何処が最高の男やねんという突っ込みはごもっともであり、これを発展させると「更生して頑張ってるサラリーマン千田がなんであんなボロカスに描かれないといけないの、ポンやヒロミなんかアウトローぶっても所詮は高校の最終学歴ほしいから高校中退しないんでしょ、そんな連中に真面目に頑張ってる千田をけなす資格があるの?」と批判するのも可能である。
春道を「最高の男」と評したのは前述の問題提起を行ったゼットンである。彼は「九頭神竜男が高校不良界最強なら坊屋春道は最高の男、たかが最強で最高に勝てるわけねーだろ」と言う。理論的に出鱈目もいいところでしかない…のだが、たしかに読んでいると「最高だから最強に勝った」と思わせる。春道は強かったやつランキングで1位にしたリンダマンとほぼ五分の1敗1分けなので実力でも竜男に勝つ可能性は充分あるようにも思うが、勝因は「最高だから」にある、と思わせる。
ほかのひとが指摘するスカジャン強制交換のパワハラ行為では、そのあとに春道が「なんかあったら力になるから呼べよ」とか言って、交換させられたモブヤンキーが「わるいやつらじゃねーな」とパワハラを受けたのに春道に好感を抱いて別れるのだが、なんかあったら力になるといっても、たぶん春道は彼の名前も覚えてないだろうから、「その時」なんか来ないので、これも「ただ言っただけ」でしかない。春道の行動はどれも主観に基づいており、バイクを破損させたからとキーコに5千円渡すのも、5千円が修理費として妥当な価格なのか、と突っ込みは可能である。
この主観が喧嘩のほうに向かうと、スネイクヘッズ200人に3人で挑もうとするというかなり無茶な行動に繋がる。武装と揉めた時もマコトとふたりで向かう途中で談笑するなどまるで危機感はない。ホントに3人だけでなんとかしようとしたのは春道だけで、援軍が来ると知ってたからこそ春道に同行した龍信が「お前には勝てねーな」というのは喧嘩の実力よりもこっちのほうにあると思われる。
つまり春道は理屈を超越した男なのである。「最高の男」とは理屈を超越した存在だと言うことなのだ。理屈を超越しているから「最強」に勝ってしまうのだ。そして春道と違って理屈に収まっている花は、本作の「最強」であるビスコには勝てないのであり、本作の超越者である九里虎にも勝てないのである。
ふたりの違いとして、春道は密かに「伝説」になった、とある。伝説になる男というのは歴史上の偉人を見ても、常識の超越者ではないだろうか。春道は「ヤンキー伝説」となった男なので、超越者でなくてはならないのである。本作に限らずヤンキー漫画で伝説になるには超越するかこの世を去るかしかなく、「特攻の拓」でも半村誠、天羽時貞といった伝説化したヤンキーはみんな世を去っている。この漫画ではのちに半村が無残に事故死している絵をかき、後を継いだマー坊が「偉大な死なんてない」とかいって伝説の解体を行うが、その後に天羽の死が描かれ、最終回では拓もスピリチュアルじみてしまうので、よくわからない。「ウダウダやってるヒマはねェ」でもアマギンという伝説の男は超越者となり、世を去ったあとでスピリチュアル的な描写がある。伝説はある程度盛られるのがお決まりなので、アマギンにしても女を強姦したようなやつを凄いみたいにされてもね…と突っ込みは可能である。
理屈を超えている人間を理屈で批判しても余りその伝説の解体には効果がない。「織田信長って単なるブラック企業の社長みたいなもんでしょ、何度謀反起こされてんのよ」と批判しても余り影響はなさそうである。春道みたいなのが近くにいたらヤダというのは全く同意するが、例えばドラゴンボールの悟空だって近くにいたら相当イヤである。夫婦喧嘩でチチをかるく叩いたら大怪我を負わせているのをギャグで描いてるが、その気になりゃ簡単に世界を滅亡させられる悟空を土台の怪しい性善説で成り立たせてる極めてリスキーな世界だと解る。あの世界、絶対に住みたくないだろう。
伝説の誕生を描くクローズに対してワーストは伝説でなく現実の少年たちの未来を示す為の偉大なる存在…番長の誕生を描く、という対比的な構造になっている。
宮崎アニメで言うと、神話の誕生を描いたナウシカと、神話の解体(神殺し)を描いたもののけ姫の関係に近い。
もののけ姫での神話たるシシ神がたんなる迷惑な存在でしかなかったようにワーストでも「伝説」の九里虎は単なる迷惑者でしかなく、そもそも喧嘩に参加すると必ず勝つので漫画としても面白くなく、存在自体が作者の手に余っており、キレて場を滅茶苦茶にするルーティンギャグ要員でしかないが、もののけ姫同様に、もう「伝説」の居場所なんて現実にはないのだというふうにも見える。近代化が進み森が切り開かれていくなかで「古代の神々」の居場所が失われたように。
ではそれがうまく行ったのか、というとこれは怪しいと思う。最終回の鈴蘭の様子が最初と何も変わってないように見えるからである。国際化が進んで外国人ヤンキーが来ただけである笑。おまけに此処ではブルーハーツの終わらない歌が流れる。ブルハってロック伝説そのものじゃん。伝説の音楽が流れる中で最初と何も違わないヤンキーたちの姿をみると、ゼットンから託された未来を示すという役割を花は果たせなかったとしか見えない。「火消し」とかそういうことでなく、鈴蘭卒業後の未来を示し、それが花が卒業したあとも鈴蘭に残ることで、ゼットンの問題提起の回答足り得るのである。それのない、形だけの番長に意味があるのだろうか。いや、ない(反語)。
この失敗は高橋ヒロシの漫画家としての表現力の衰えが理由であると思われる。理屈を超越した描写とは平たくいえば「漫画の嘘」であり、それを成立させるためには優れた漫画技術が必要となる。カリ城のカーチェイスで「あんな急勾配の崖を車で駆け上がれるかね」と思わせないのはアニメとしての優れた演出があるからであり、同じく「パワハラヤンキーを最高の男と思わす」には優れた漫画表現が必要なのである。その漫画表現の衰えは、シルエットで片付けてばかりの喧嘩等そこかしこから伺え、描く必要のまったくない新装版の新エピソードの中身の無さと作画の劣化の進行具合からも理解できる。表現として衰えると花の人間性を示す「通りがかりに居た妊婦さんを助ける」という行動が取ってつけたような理屈っぽさにしか見えなくなり、理屈を超えた春道の伝説に比べて魅力を乏しく感じるのである。因縁の天地との二度目のタイマンでも花の天地への説教は理屈が過ぎてだいぶ説教くさく、少ない言葉で美藤竜也の問題の図星を付く春道の説教よりペラく思えてしまう。クローズでの春道対リンダマン二度目のタイマンと、本作の花対九里虎二度目のタイマン、どっちが面白いかと聞かれて後者を選ぶ高橋漫画ファンがどれだけいるか。
宮崎駿ももののけ姫でさんざんマイノリティが、人と自然の共生が、と言っておいて着視点を見失い「シシ神は花咲か爺だった」とよくわからないことを言い、「バカには勝てん」でなんとなく終わらせてしまったが、伝説や神話を解体させるにはそれよりも魅力的な市井の民による現実を作らねばならず、そこに伝説や神話のロマンを超える「物語」がないと受け手は納得しないので、とっても難しいのである。本作がクローズほどウケなかったのもそのせいだろう。
その後の高橋ヒロシが弟子たちに鈴蘭スピンオフを量産させつつ、本人は荒廃した世界で延々とヤクザごっこをしている変な人達を描き続けているのを見ても、失敗だ、と考えるのが妥当だろう。
ついでに言っとくと天地の部下で何の救いもなくぶん殴られて退場した根暗眼鏡がいたが、彼は作中のヤンキーたちと違って何のフォローもされないままである。健康的ヤンキーカースト社会である高橋漫画の世界に彼のような少年の居場所はなく、藤代らも「ほっとけ、関わるな」で、月島花も彼には一切目を向けることはない。「その後のクローズ」に「不良少年と非行少年を一緒にするな」とあったが、彼は後者だったのだろう。本作に残ったのは「番長」という単なるモニュメントだけである。