吉村昭さんに高木兼寛の一代記があると聞いて、面白いのは間違いないはずと思い
ながらも、それほど資料が残っていないのではないかと想像したのですが、実際に
断片的に確認されているだけの乏しい資料をつなぎ合わせて、戊辰戦争への従軍の
過程や、彼の医師としての素晴らしい事績とその中で苦悩する姿を描き出していて、
歴史小説としてはそれで十分で、かつ大変に面白い内容になっています。
日向の大工の倅ながら向学の意志が認められて鹿児島で医師を志し、薩摩という
比較的融通の利く人々の中で引き上げられ、医学生として頭角を現します。
高木が師事した石神という医師がまたいい人物で、敬愛する英国公使付き医師
ウィリスの影響から、薩摩ではイギリスの経験医学を尊重する流れがあり、
これに対して、東京帝大を中心として文部省はドイツ医学を採用することになり、
そのことが後の様々な軋轢の遠因となります。
高木は英国でウィリスの母校に留学し、医学校では最優秀の成績で学位を得て帰国し、
海軍軍医として、当時大きな問題であった脚気の対策を、経験医学的アプローチにより
食べ物に原因があるとして、これを天皇にも上奏して、海軍の食事の改善によって
脚気を撲滅しますが、東大と陸軍はこの方法を軽蔑するばかりで、石黒忠直や森鴎外を
中心に細菌説を採り、高木の成果を決して認めようとしないまま、日露戦争で陸軍は
多くの死者を出してしまいます。
その後、鈴木梅太郎などのビタミンの発見に至るきっかけを作ったということで
高木の業績は国際的には認められ、天皇や政治家たちには評価されるものの、国内の
医学界では流派ごとの近親憎悪の結果、業績は徹底的に無視されることになります。
高木を中心に海軍ではイギリス医学を重視したことから、軍医の養成の意味もあって
自前の医学校を立ち上げ、同時にイギリス流の看護学の必要から、看護学校も設立し、
それらが皇后の賛同も得て慈恵会として発展することになり、日本の医療全体の向上に
大きな足跡を残すことになります。
新装版 白い航跡(下) (講談社文庫) (日本語) 文庫 – 2009/12/15
吉村 昭
(著)
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本の長さ320ページ
-
言語日本語
-
出版社講談社
-
発売日2009/12/15
-
寸法10.8 x 1.3 x 14.8 cm
-
ISBN-10406276542X
-
ISBN-13978-4062765428
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
海軍軍医総監に登りつめた高木兼寛は、海軍・陸軍軍人の病死原因として最大問題であった脚気予防に取り組む。兼寛の唱える「食物原因説」は、陸軍軍医部の中心である森林太郎(鴎外)の「細菌原因説」と真っ向から対決した。脚気の予防法を確立し、東京慈恵会医科大学を創立した男の生涯を描く歴史ロマン。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/昭
1927年東京生まれ。学習院大学国文科中退。’66年『星への旅』で太宰治賞を受賞する。徹底した史実調査には定評があり『戦艦武蔵』で作家としての地位を確立。その後、菊池寛賞、吉川英治文学賞、毎日芸術賞、読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞、大佛次郎賞などを受賞する。日本芸術院会員。2006年79歳で他界(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1927年東京生まれ。学習院大学国文科中退。’66年『星への旅』で太宰治賞を受賞する。徹底した史実調査には定評があり『戦艦武蔵』で作家としての地位を確立。その後、菊池寛賞、吉川英治文学賞、毎日芸術賞、読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞、大佛次郎賞などを受賞する。日本芸術院会員。2006年79歳で他界(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 講談社; 新装版 (2009/12/15)
- 発売日 : 2009/12/15
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 320ページ
- ISBN-10 : 406276542X
- ISBN-13 : 978-4062765428
- 寸法 : 10.8 x 1.3 x 14.8 cm
-
Amazon 売れ筋ランキング:
- 43,897位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 396位歴史・時代小説 (本)
- - 1,242位講談社文庫
- カスタマーレビュー:
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『ベルツの日記』で有名な
東京医学校(現在の東大医学部)の
外国人教師でドイツ人医師の
エルヴィン・フォン・ベルツ
(1849-1913)は
ドイツ(第二)帝国の
ヴュルテンベルク王国に生まれました。
偶然ですがドイツ第三帝国の陸軍元帥
エルヴィン・ロンメル(1891-1944)も
同じくヴュルテンベルク王国に生まれています。
ファーストネームも同じエルヴィンです。
ヴュルテンベルクはドイツの南西部に位置します。
「シュヴァ―ベン」(シュワーベン)という
古い公国にちなむ呼称もあります。
ベルツは1876(明治9)年、来日します。
約30年間にわたって日本に住みました。
ベルツがドイツ医学界に成した報告によると
「日本における脚気の患者数は
大正(元年は1912年)初めころまで
年間で50万人を超え
死者は1万人に達した」とされます。
そのベルツは
脚気を伝染病の一種と考え
つまり原因は細菌と考えていました。
ドイツ人医師
ロベルト・コッホ(1843-1910)が
「コッホの原則」を発表したのが
ベルツが来日したのと同じ年の
1876(明治9)年です。
結核菌の発見が1882(M15)年です。
ベルリン大学で教鞭をとり
北里柴三郎(1853-1931)
を含む弟子を育てました。
1905(明治38)年には
ノーベル医学・生理学賞を受賞しています。
日本の明治年間(1868ー1912)は
ドイツ医学の興隆期で
すべての病気の原因は「細菌」である
というような雰囲気がありました。
明治期において
東京医学校(後の帝大
→東京帝大→東京大学の医学部)は
ドイツを範としました。
最初はベルツをはじめとする
外国人教師を迎え入れ
ドイツに留学し帰朝した日本人を
一斉に教授としました。
1885(明治18)年には
緒方正規(1853-1919)が
「脚気の原因菌を発見した」と発表し
大学講堂で大講演会が開かれました。
緒方はドイツのミュンヘン大学
ベルリン大学に留学し、後に
東大医学部の初代細菌学教授となります。
このときの大講演会で
陸軍軍医監の
石黒忠悳(1845-1941)は
「十数年も前から
脚気は伝染病であると主張してきた」とし
「緒方の発見は偉業である」と
たたえました。
これに対し
海軍軍医総監
高木兼寛(1849-1920)は
その場で反論を唱えましたが
受け入れられませんでした。
石黒の次に陸軍軍医総監になったのが
文豪・森鷗外として知られる
森林太郎(1862-1922)です。
森鷗外も東大医学部卒で
ドイツに留学した組です。
森は1885(M18)年
『日本兵食論大意』を書き
兵食の洋食化に反対しました。
脚気の観点からではなく
技術的な困難を説きました。
さらに森は
1888(明治21)年
『非日本食論将失其根拠』を
出版し
国情に合った主食(白米)をもとにし
副食による栄養のバランスをとればよい
いたずらに肉食(洋食)を
勧めるのは得策ではない
と主張しました。
「すべての病気の原因は
細菌であるはずだ」という
ドイツ医学を範とする
東京大学医学部系の医師たち
つまり
緒方正規
石黒忠悳
森鷗外らが
ヘゲモニーを握っていた
帝国陸軍では
日清戦争および日露戦争で
大量の脚気患者を出し
特に日露戦争では
戦闘による戦死者よりも多い
脚気による病死者を出しました。
一方
高木兼寛は英国に留学し
「聖トーマス病院医学校」
(現在のキングス・カレッジ・ロンドン)
で実証的な医学を学びました。
その影響下に
高木は脚気の原因を一種の栄養障害
ではないかと考え
1884(明治17)年
軍艦「筑波」で「実験航海」を行いました。
白米を主食とした和食から
パン食・麦飯主体で
タンパク質や野菜を増やした洋食に
兵食を切り替えたところ
287日間の航海で
脚気による死者を一人も出しませんでした。
海軍から脚気をなくすことに成功しました。
その2年前の軍艦「竜驤」による
ほぼ同様の航海では
乗組員371名中169名の脚気患者を出し
そのうち25名が死亡し
惨憺たる航海だったのとは
天と地くらいの違いがあります。
そして
1890(明治23)年、高木は
「海軍兵士における脚気の発生が
ほぼ熄滅(そくめつ)した」ことを
明治天皇に対して奏上しています。
日清戦争の4年前
日露戦争の14年前のことです。
一方、陸軍のほうは
日清日露の両戦争で
脚気による死者が何万人にものぼり
清冽な対照をなしています。
森鷗外は
優れた文学者であり
リスペクトしていますが
医師あるいは陸軍軍医総監としては
①脚気の細菌説に賛成し
②兵食の洋食化に反対し
③海軍と鋭く対立し
④その後ビタミンの概念が確立し
脚気の原因がビタミンB1欠乏症と
判明しても何も訂正しませんでした。
‥という点において
疑問に感じる履歴です。
西洋の薬理学の教科書の中には
高木が実施した
軍艦「筑波」による「航海実験」のことを
ビタミンの概念がない時代に
ビタミンの存在を証明した医学的成果として
記述しているものもあります。
その意味において
高木兼寛を「ビタミンの父」と
呼ぶことがあります。
高木に対する評価は
日本国内ではあまり高くありませんが
外国特にヨーロッパでは
高く評価されています。
高木による「航海実験」が
①自然科学の方法を
典型として例示した。
②観念論ではなく
実証的な医学の手法で
具体的に成果をあげた。
‥という理由によると思います。
東京医学校(現在の東大医学部)の
外国人教師でドイツ人医師の
エルヴィン・フォン・ベルツ
(1849-1913)は
ドイツ(第二)帝国の
ヴュルテンベルク王国に生まれました。
偶然ですがドイツ第三帝国の陸軍元帥
エルヴィン・ロンメル(1891-1944)も
同じくヴュルテンベルク王国に生まれています。
ファーストネームも同じエルヴィンです。
ヴュルテンベルクはドイツの南西部に位置します。
「シュヴァ―ベン」(シュワーベン)という
古い公国にちなむ呼称もあります。
ベルツは1876(明治9)年、来日します。
約30年間にわたって日本に住みました。
ベルツがドイツ医学界に成した報告によると
「日本における脚気の患者数は
大正(元年は1912年)初めころまで
年間で50万人を超え
死者は1万人に達した」とされます。
そのベルツは
脚気を伝染病の一種と考え
つまり原因は細菌と考えていました。
ドイツ人医師
ロベルト・コッホ(1843-1910)が
「コッホの原則」を発表したのが
ベルツが来日したのと同じ年の
1876(明治9)年です。
結核菌の発見が1882(M15)年です。
ベルリン大学で教鞭をとり
北里柴三郎(1853-1931)
を含む弟子を育てました。
1905(明治38)年には
ノーベル医学・生理学賞を受賞しています。
日本の明治年間(1868ー1912)は
ドイツ医学の興隆期で
すべての病気の原因は「細菌」である
というような雰囲気がありました。
明治期において
東京医学校(後の帝大
→東京帝大→東京大学の医学部)は
ドイツを範としました。
最初はベルツをはじめとする
外国人教師を迎え入れ
ドイツに留学し帰朝した日本人を
一斉に教授としました。
1885(明治18)年には
緒方正規(1853-1919)が
「脚気の原因菌を発見した」と発表し
大学講堂で大講演会が開かれました。
緒方はドイツのミュンヘン大学
ベルリン大学に留学し、後に
東大医学部の初代細菌学教授となります。
このときの大講演会で
陸軍軍医監の
石黒忠悳(1845-1941)は
「十数年も前から
脚気は伝染病であると主張してきた」とし
「緒方の発見は偉業である」と
たたえました。
これに対し
海軍軍医総監
高木兼寛(1849-1920)は
その場で反論を唱えましたが
受け入れられませんでした。
石黒の次に陸軍軍医総監になったのが
文豪・森鷗外として知られる
森林太郎(1862-1922)です。
森鷗外も東大医学部卒で
ドイツに留学した組です。
森は1885(M18)年
『日本兵食論大意』を書き
兵食の洋食化に反対しました。
脚気の観点からではなく
技術的な困難を説きました。
さらに森は
1888(明治21)年
『非日本食論将失其根拠』を
出版し
国情に合った主食(白米)をもとにし
副食による栄養のバランスをとればよい
いたずらに肉食(洋食)を
勧めるのは得策ではない
と主張しました。
「すべての病気の原因は
細菌であるはずだ」という
ドイツ医学を範とする
東京大学医学部系の医師たち
つまり
緒方正規
石黒忠悳
森鷗外らが
ヘゲモニーを握っていた
帝国陸軍では
日清戦争および日露戦争で
大量の脚気患者を出し
特に日露戦争では
戦闘による戦死者よりも多い
脚気による病死者を出しました。
一方
高木兼寛は英国に留学し
「聖トーマス病院医学校」
(現在のキングス・カレッジ・ロンドン)
で実証的な医学を学びました。
その影響下に
高木は脚気の原因を一種の栄養障害
ではないかと考え
1884(明治17)年
軍艦「筑波」で「実験航海」を行いました。
白米を主食とした和食から
パン食・麦飯主体で
タンパク質や野菜を増やした洋食に
兵食を切り替えたところ
287日間の航海で
脚気による死者を一人も出しませんでした。
海軍から脚気をなくすことに成功しました。
その2年前の軍艦「竜驤」による
ほぼ同様の航海では
乗組員371名中169名の脚気患者を出し
そのうち25名が死亡し
惨憺たる航海だったのとは
天と地くらいの違いがあります。
そして
1890(明治23)年、高木は
「海軍兵士における脚気の発生が
ほぼ熄滅(そくめつ)した」ことを
明治天皇に対して奏上しています。
日清戦争の4年前
日露戦争の14年前のことです。
一方、陸軍のほうは
日清日露の両戦争で
脚気による死者が何万人にものぼり
清冽な対照をなしています。
森鷗外は
優れた文学者であり
リスペクトしていますが
医師あるいは陸軍軍医総監としては
①脚気の細菌説に賛成し
②兵食の洋食化に反対し
③海軍と鋭く対立し
④その後ビタミンの概念が確立し
脚気の原因がビタミンB1欠乏症と
判明しても何も訂正しませんでした。
‥という点において
疑問に感じる履歴です。
西洋の薬理学の教科書の中には
高木が実施した
軍艦「筑波」による「航海実験」のことを
ビタミンの概念がない時代に
ビタミンの存在を証明した医学的成果として
記述しているものもあります。
その意味において
高木兼寛を「ビタミンの父」と
呼ぶことがあります。
高木に対する評価は
日本国内ではあまり高くありませんが
外国特にヨーロッパでは
高く評価されています。
高木による「航海実験」が
①自然科学の方法を
典型として例示した。
②観念論ではなく
実証的な医学の手法で
具体的に成果をあげた。
‥という理由によると思います。
2014年6月16日に日本でレビュー済み
主人公の高木兼寛は腕のよい大工・喜介のひとり息子として嘉永2年(1849年)薩摩・穆佐に生まれた
幼い頃から読み書きを覚えたいとせがむ彼を尋常な子供ではないと考えた母親の園は生活にゆとりもあることから喜介を説得
8歳になると私塾・中村塾に通うようになる
勉学熱心で記憶力も優れていた彼はすぐに頭角を表しさらに上の明堂館という格式の高い漢学塾に進むが、やはり厳然とした身分制度が人の将来を規定していることを強く感じ、たとえ天賦の才に恵まれていても藩士になることなどは到底不可能だと、自分の行末に暗澹をした思いがしていた
そんな折出会ったのが黒木了輔という人々の尊敬を集める漢方医で、医学を修めれば階級制度に拘束されぬ道がひらけていると考え、医者になることを夢みるようになった
兼寛の才能を認める師の援助もあり3年後には鹿児島の蘭方医のもとで勉学を続けることが出来るようになるのだが、それは父の仕事を継がないということを意味し、辛い決断ではあった
その後も精進を続けた兼寛
幕末には薩摩藩の軍医として戊辰戦役に従軍
やがて海軍に入り、海外留学生としてイギリスに派遣され抜群の成績で最新の医学を修め帰国
海軍軍医総監に登りつめた彼は、海軍・陸軍軍人の病死原因として最大問題であった脚気予防に取り組む
イギリス医学を修めた兼寛の唱える「食物原因説」はドイツ医学の森林太郎(鴎外)の「細菌原因説」と真っ向から対決するのだった
兼寛側から見ているので、森林太郎のやることなすことが単なるプライド保持、権力欲しさのように感じられますが林太郎は林太郎で自分が学んできたドイツ医学に基づいた『正しい』意見を述べているのです
それにしても、海軍と陸軍の間の協力姿勢の見られない風通しの悪さには驚きました
幕末~明治初頭の藩と藩の派閥争いの名残が残っています
兼寛は食事内容で脚気を予防できることまでは突き止めましたが、陸軍を納得させるようなデータを揃えるまでは至らず、日本国内ではあまり評価されないまま亡くなりましたが、海外では高く評価されており、南極にはビタミン学者の業績を記念して命名された岬の中に彼の名をとった高木岬もあるそうです
繰り返される陸軍との衝突、家族の不幸など、様々な困難の中、脚気予防のみならず、看護師育成に力を注いだり、病院を創ったり、現在に繋がる日本の医療制度の礎を築いた彼の功績はもっと評価されてしかるべきではないでしょうか
今では、脚気予防にはビタミンB1が有効とは誰もが知っていることですが、当時は原因不明の恐ろしい病だったのです
今また、ジャンクフードやら高齢化やらで脚気患者が増えつつあるとか
人が生きるうえの基本は『食』
忘れてはいけませんね
幼い頃から読み書きを覚えたいとせがむ彼を尋常な子供ではないと考えた母親の園は生活にゆとりもあることから喜介を説得
8歳になると私塾・中村塾に通うようになる
勉学熱心で記憶力も優れていた彼はすぐに頭角を表しさらに上の明堂館という格式の高い漢学塾に進むが、やはり厳然とした身分制度が人の将来を規定していることを強く感じ、たとえ天賦の才に恵まれていても藩士になることなどは到底不可能だと、自分の行末に暗澹をした思いがしていた
そんな折出会ったのが黒木了輔という人々の尊敬を集める漢方医で、医学を修めれば階級制度に拘束されぬ道がひらけていると考え、医者になることを夢みるようになった
兼寛の才能を認める師の援助もあり3年後には鹿児島の蘭方医のもとで勉学を続けることが出来るようになるのだが、それは父の仕事を継がないということを意味し、辛い決断ではあった
その後も精進を続けた兼寛
幕末には薩摩藩の軍医として戊辰戦役に従軍
やがて海軍に入り、海外留学生としてイギリスに派遣され抜群の成績で最新の医学を修め帰国
海軍軍医総監に登りつめた彼は、海軍・陸軍軍人の病死原因として最大問題であった脚気予防に取り組む
イギリス医学を修めた兼寛の唱える「食物原因説」はドイツ医学の森林太郎(鴎外)の「細菌原因説」と真っ向から対決するのだった
兼寛側から見ているので、森林太郎のやることなすことが単なるプライド保持、権力欲しさのように感じられますが林太郎は林太郎で自分が学んできたドイツ医学に基づいた『正しい』意見を述べているのです
それにしても、海軍と陸軍の間の協力姿勢の見られない風通しの悪さには驚きました
幕末~明治初頭の藩と藩の派閥争いの名残が残っています
兼寛は食事内容で脚気を予防できることまでは突き止めましたが、陸軍を納得させるようなデータを揃えるまでは至らず、日本国内ではあまり評価されないまま亡くなりましたが、海外では高く評価されており、南極にはビタミン学者の業績を記念して命名された岬の中に彼の名をとった高木岬もあるそうです
繰り返される陸軍との衝突、家族の不幸など、様々な困難の中、脚気予防のみならず、看護師育成に力を注いだり、病院を創ったり、現在に繋がる日本の医療制度の礎を築いた彼の功績はもっと評価されてしかるべきではないでしょうか
今では、脚気予防にはビタミンB1が有効とは誰もが知っていることですが、当時は原因不明の恐ろしい病だったのです
今また、ジャンクフードやら高齢化やらで脚気患者が増えつつあるとか
人が生きるうえの基本は『食』
忘れてはいけませんね
2019年8月25日に日本でレビュー済み
脚気。今では栄養状態の良い現代ではほぼ忘れている。50代の自分も久しぶりに聞いた。
その脚気が、明治期の軍隊で、戦闘での死傷以上に脅威であったことに驚いた。
脚気対策に多大な貢献をした海軍軍医総監の高木兼寛の物語。
海軍は目の前の現象を重視するイギリス医学、陸軍は理論を重視するドイツ医学をそれぞれ信奉する。
その結果、海軍は脚気を根絶し、陸軍は、日清日露と脚気が多くに兵を蝕んだ。
日露戦争では、死傷者37200名のうち脚気で死んだ者は27000余名であったらしい。
高木は日清日露の海戦勝利に極めて多大な貢献をした。
吉村昭は、広く社会では知られてないが、国家に貢献した自分に焦点を当てる作品が多い。
淡々と語るので、より伝わってくるものがある。
幕末から明治にかけ、孤立した島国から欧米に肩を並べる国にすべく、当時の先人たちの気概は、
現代日本に欠けているものかもしれない。
その脚気が、明治期の軍隊で、戦闘での死傷以上に脅威であったことに驚いた。
脚気対策に多大な貢献をした海軍軍医総監の高木兼寛の物語。
海軍は目の前の現象を重視するイギリス医学、陸軍は理論を重視するドイツ医学をそれぞれ信奉する。
その結果、海軍は脚気を根絶し、陸軍は、日清日露と脚気が多くに兵を蝕んだ。
日露戦争では、死傷者37200名のうち脚気で死んだ者は27000余名であったらしい。
高木は日清日露の海戦勝利に極めて多大な貢献をした。
吉村昭は、広く社会では知られてないが、国家に貢献した自分に焦点を当てる作品が多い。
淡々と語るので、より伝わってくるものがある。
幕末から明治にかけ、孤立した島国から欧米に肩を並べる国にすべく、当時の先人たちの気概は、
現代日本に欠けているものかもしれない。