2019年のマイベスト本?!
2018年末に購入し、正月の2日間で読了。
いい意味で、予想を裏切る中身だった。
第1部 食と復興
第2部 原発と復興
第3部 文化と復興
いずれも、いわき市小名浜出身の被災者としての立場でありながら、当事者性だけにこだわらず、外部に開かれた、そして未来をしっかり見据えて「思考するアクティビスト」としての著書の立場が痛快である。
分厚い本の最初から最後まで一気に読んでしまったが、一番想定外の内容だったのは、第3部の文化と復興だ。
原発事故以来から現在まで起こったことの背景にあるいわき地域の歴史文化の古層まで思い至る発想は並大抵のものではない。いわきの八大龍王信仰に、古来からの津波との関係性を再確認する視点と、それを遥かな未来にむけて再構造化する試みを、応援したい。
本書は、震災や復興の意味を根底から捉え直すだけでなく、読者に具体的な行動を誘発させる力を持っている。
私自身、少なくとも2つの具体的行動を起こそうかと思っている。
この本はそんな本であります ^_^
新復興論 (ゲンロン叢書) (日本語) 単行本 – 2018/9/1
小松理虔
(著)
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本の長さ396ページ
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言語日本語
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出版社株式会社ゲンロン
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発売日2018/9/1
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寸法18.8 x 12.8 x 3.3 cm
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ISBN-104907188269
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ISBN-13978-4907188269
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出版社からのコメント
著者について
小松理虔(こまつ・りけん) 1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。『ゲンロンβ』に、本書の下敷きとなった「浜通り通信」を50回にわたって連載。共著本に『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)ほか。
登録情報
- 出版社 : 株式会社ゲンロン (2018/9/1)
- 発売日 : 2018/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 396ページ
- ISBN-10 : 4907188269
- ISBN-13 : 978-4907188269
- 寸法 : 18.8 x 12.8 x 3.3 cm
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カスタマーレビュー
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2019年1月5日に日本でレビュー済み
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11人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2018年9月17日に日本でレビュー済み
素晴らしい本に出会えた。購入を迷っている方の参考になれば幸いである。
まず、本として。
文章は論理的で整っておりストレスなく読める。その上、専門書にありがちな小難しい話は一切なく、一気に読み進めることができた。400ページの厚さに躊躇うことなく、軽い気持ちで手に取ってもらいたい。
次に、内容について。
「福島の復興」とその課題を問うものである。知的探究心が満たされるのはもちろんだが、最初から最後まで著者の視点で貫かれており、序盤の段階で知らぬ間に著者へ感情移入していたことは強調しておきたい。客観的に自分を見つめつつ、食べ物や酒の魅力、沿岸部の荒涼とした景色の虚しさや、防潮堤が生む「二度目の喪失」のやるせなさ、福一原発を見学した時の威圧感、それら著者が感じたものが自分のものかのように感じられた。当事者性の拡張。この本自体が彼の提唱する復興の理念を体現しているかのようだ。
もう一度言うが、内容は難しくない。「著者の履歴書」とどこかで紹介されていたが、本当にそのとおりの平易さで、だからこそ身につまされた。
最後に、この本を読んだ感想を。
本書の中にはたびたび「思想」という言葉が出てくる。目の前に囚われすぎず、理想や目標を探すことの大事さを訴えている。
私たちが「思想」=「抽象的な言葉」を使う時というのは、得てして目の前の現実に悩んでいる時だ。頭の中でいろいろ考えている中で「愛とは何か」「平和とは」などと「抽象的な言葉」に答えを求める。
私たちは平等ではない。親も才能も容姿も選べない。もちろん生まれる場所も選べない。嫌なことがあると、どうして俺ばっかり……などと考えてしまう。そして、言葉を探す。それは、ユダヤ教やキリスト教がそうだったように、今の苦境にはどんな意味があるのかを考え、己を奮い立たせる。
思想とは、そういうものだと思う。だから、福島には思想が必要なのだ。
私の身にも私の地域にも理不尽なことは起きうる。その時には、この本を思い出し、何に直面し、何を誤り、何に希望を見出したのかを確認したい。「いまここ」にはない可能性を思想の中に問いたい。
私にとって、この本は「福島の復興」の話だけではなく、「私の思想」の話だ。本書は、確かに、「誤配」された。
まず、本として。
文章は論理的で整っておりストレスなく読める。その上、専門書にありがちな小難しい話は一切なく、一気に読み進めることができた。400ページの厚さに躊躇うことなく、軽い気持ちで手に取ってもらいたい。
次に、内容について。
「福島の復興」とその課題を問うものである。知的探究心が満たされるのはもちろんだが、最初から最後まで著者の視点で貫かれており、序盤の段階で知らぬ間に著者へ感情移入していたことは強調しておきたい。客観的に自分を見つめつつ、食べ物や酒の魅力、沿岸部の荒涼とした景色の虚しさや、防潮堤が生む「二度目の喪失」のやるせなさ、福一原発を見学した時の威圧感、それら著者が感じたものが自分のものかのように感じられた。当事者性の拡張。この本自体が彼の提唱する復興の理念を体現しているかのようだ。
もう一度言うが、内容は難しくない。「著者の履歴書」とどこかで紹介されていたが、本当にそのとおりの平易さで、だからこそ身につまされた。
最後に、この本を読んだ感想を。
本書の中にはたびたび「思想」という言葉が出てくる。目の前に囚われすぎず、理想や目標を探すことの大事さを訴えている。
私たちが「思想」=「抽象的な言葉」を使う時というのは、得てして目の前の現実に悩んでいる時だ。頭の中でいろいろ考えている中で「愛とは何か」「平和とは」などと「抽象的な言葉」に答えを求める。
私たちは平等ではない。親も才能も容姿も選べない。もちろん生まれる場所も選べない。嫌なことがあると、どうして俺ばっかり……などと考えてしまう。そして、言葉を探す。それは、ユダヤ教やキリスト教がそうだったように、今の苦境にはどんな意味があるのかを考え、己を奮い立たせる。
思想とは、そういうものだと思う。だから、福島には思想が必要なのだ。
私の身にも私の地域にも理不尽なことは起きうる。その時には、この本を思い出し、何に直面し、何を誤り、何に希望を見出したのかを確認したい。「いまここ」にはない可能性を思想の中に問いたい。
私にとって、この本は「福島の復興」の話だけではなく、「私の思想」の話だ。本書は、確かに、「誤配」された。
2018年10月5日に日本でレビュー済み
「現実」という言葉の効力は強い。PCの強制終了さながらに思考を停止させる。
原発事故後の福島をめぐる生々しくも多様な現実の広告に充ちたこの本を読んで、初めに心に響いたのは「現場における思考の不在」という一節だった。「現実のリアリティに縛り付けられ、小さな議論に終始し、当事者以外の声に耳を傾けようとしない」――これは身体性に基づく情緒を共有しうる規模の多様な小集団が併存するにあたって向き合わざるをえない問題点だろう。「現実」という言葉が思考に及ぼす強烈な効力と同様に、五感による知覚が情緒に及ぼす影響は絶大である。
防潮堤の前に、人はあまりに無力である。防潮堤を目にすると力が失われるような気がするのだ。
第一章「いわきの現場から」で筆者はそう語る。視覚は五感のなかでもっとも理性と近しい。巨大な防潮堤は未来への不安を―ー死をもたらす何かの兆しを察知した身体が本能的に足をすくませ、体温を低下させる体感を伴う恐怖ではなく、因果律の理解と抽象化によって未来にありうる危険を察してしまった理性が身体にフィードバックする恐怖―ーを封じるための防御だ。不安が未来への恐怖なら希望は未来へのへの歓びである。不安を封じきることは絶望につながる。
絶望の土地に生まれ育ち、しかし私はその地元を愛している。
第三章「バックヤードとしてのいわき」で筆者はそう言い切る。何と美しい覚悟だろうと私は感動した。しかし、同時に、こうした土着性の賛美は、理性による自覚的な内省を常に伴わない限り、容易にオリエンタリズムに陥る危険を孕んでいるとも感じた。その点だけが唯一釈然としなかった。
原発事故後の福島をめぐる生々しくも多様な現実の広告に充ちたこの本を読んで、初めに心に響いたのは「現場における思考の不在」という一節だった。「現実のリアリティに縛り付けられ、小さな議論に終始し、当事者以外の声に耳を傾けようとしない」――これは身体性に基づく情緒を共有しうる規模の多様な小集団が併存するにあたって向き合わざるをえない問題点だろう。「現実」という言葉が思考に及ぼす強烈な効力と同様に、五感による知覚が情緒に及ぼす影響は絶大である。
防潮堤の前に、人はあまりに無力である。防潮堤を目にすると力が失われるような気がするのだ。
第一章「いわきの現場から」で筆者はそう語る。視覚は五感のなかでもっとも理性と近しい。巨大な防潮堤は未来への不安を―ー死をもたらす何かの兆しを察知した身体が本能的に足をすくませ、体温を低下させる体感を伴う恐怖ではなく、因果律の理解と抽象化によって未来にありうる危険を察してしまった理性が身体にフィードバックする恐怖―ーを封じるための防御だ。不安が未来への恐怖なら希望は未来へのへの歓びである。不安を封じきることは絶望につながる。
絶望の土地に生まれ育ち、しかし私はその地元を愛している。
第三章「バックヤードとしてのいわき」で筆者はそう言い切る。何と美しい覚悟だろうと私は感動した。しかし、同時に、こうした土着性の賛美は、理性による自覚的な内省を常に伴わない限り、容易にオリエンタリズムに陥る危険を孕んでいるとも感じた。その点だけが唯一釈然としなかった。
2019年1月4日に日本でレビュー済み
復興論とあるので、復興の話かと思いきや、「復興」を否定する本であった。たしかにアートは反権力的にもなるすばらしい取組だが、それがマスになることは難しい。このミクロの取組みがスイミーのようにあつまって何かを動かすことを期待しているのかもしれない。しかし、復興事業も、かねて報道されるデタラメなものもあるのだろうが、そうでないものも多い。沖縄振興についていわれる言説とオーバーラップする。それならなくていいのかというとそうではない。自分に自由に使わせろというのでは、たしかに自分のお金でやるということで、それでは、大きくリスクテイクをして、現状を変えるような大きな取組みはできない。それでいいというのは、ぜいたくものの議論だろう。
ただし、9章の終わりには希望を感じた。著者が強く批判している防波堤を野球場の観覧席にうまくつかっている例だ。こういう軽やかな精神こそ、まさに林達夫以来の本来の、「批評の精神」だろう。
官僚制の凡庸さを笑い飛ばすような爽快さはイジイジした本文のほとんどからは残念ながらうかがうことはできない。
早野氏や開沼氏など、福島の風評被害の問題に真摯に取り組んだ人物への強い批判はくりかえし、名指しで行われるのに、その開沼氏らの批判対象となった朝日新聞ほかの反原発の論者・記者は抽象的にしか語られない。
いま、いわゆるリベラル派に多い、ダブルスタンダードがここにも現出している。
朝日新聞の反原発の汚点連載記事「プロメテウスの罠」については1行も触れられない。
著者が本文に記載しているとおり、朝日新聞の過去の報道ぶりをいまでも憤り、それをいまでも内心は忘れないというのであれば、受賞をありがたく辞退すべきかと思うが、いかがだろうか?
著者の朝日新聞大仏次郎論壇賞受賞が、朝日の福島の風評被害報道の免罪符となることを憂う。
開沼氏の「フクシマ論」への朝日の意趣返しのようにもみえて、著者がきらいなはずの、朝日的「官僚制」をみるのは評者だけだろうか?
ただし、9章の終わりには希望を感じた。著者が強く批判している防波堤を野球場の観覧席にうまくつかっている例だ。こういう軽やかな精神こそ、まさに林達夫以来の本来の、「批評の精神」だろう。
官僚制の凡庸さを笑い飛ばすような爽快さはイジイジした本文のほとんどからは残念ながらうかがうことはできない。
早野氏や開沼氏など、福島の風評被害の問題に真摯に取り組んだ人物への強い批判はくりかえし、名指しで行われるのに、その開沼氏らの批判対象となった朝日新聞ほかの反原発の論者・記者は抽象的にしか語られない。
いま、いわゆるリベラル派に多い、ダブルスタンダードがここにも現出している。
朝日新聞の反原発の汚点連載記事「プロメテウスの罠」については1行も触れられない。
著者が本文に記載しているとおり、朝日新聞の過去の報道ぶりをいまでも憤り、それをいまでも内心は忘れないというのであれば、受賞をありがたく辞退すべきかと思うが、いかがだろうか?
著者の朝日新聞大仏次郎論壇賞受賞が、朝日の福島の風評被害報道の免罪符となることを憂う。
開沼氏の「フクシマ論」への朝日の意趣返しのようにもみえて、著者がきらいなはずの、朝日的「官僚制」をみるのは評者だけだろうか?
ベスト1000レビュアー
東日本大震災後のいわきから書き綴った連載を書籍化。
連載の書籍化だが、本全体の流れがしっかりとできていて、とてもそんな風には見えない。
震災後の食や原発、復興について語られている。東電の役員と被害者の会の女性が愛人関係にあったニュースなど、全国のニュースでは決して語られることのない、地域の細かい風景や暗部が語られている。
この本の大きなテーマは復興とは何かだと思う。復興は元に戻ることでも発展を遂げることでもない。復興の本質とは震災という傷(障害という言葉でも語られる)を抱えながら暮らしていくことであり、そこには単なる回復に収まらない何かが必要である。その為には一見、復興とは直接の関係のなさそうな遊びや芸術、楽しむといった要素、つまり文化こそが重要なのだとこの本を読んで感じた。
この本は真・復興論ではないかと思う。
連載の書籍化だが、本全体の流れがしっかりとできていて、とてもそんな風には見えない。
震災後の食や原発、復興について語られている。東電の役員と被害者の会の女性が愛人関係にあったニュースなど、全国のニュースでは決して語られることのない、地域の細かい風景や暗部が語られている。
この本の大きなテーマは復興とは何かだと思う。復興は元に戻ることでも発展を遂げることでもない。復興の本質とは震災という傷(障害という言葉でも語られる)を抱えながら暮らしていくことであり、そこには単なる回復に収まらない何かが必要である。その為には一見、復興とは直接の関係のなさそうな遊びや芸術、楽しむといった要素、つまり文化こそが重要なのだとこの本を読んで感じた。
この本は真・復興論ではないかと思う。
2018年12月8日に日本でレビュー済み
あまり「分断」させるようなことを言うのはあれだが、東日本大震災後やそれ以前の人口動態だけ言えば、いわき市は横ばいくらいで気仙沼市なんかとはだいぶ事情が違うのだな、というのはこの本の外の情報として調べて感じた。
4章復興とバブル 5章ロッコクと原発が良かった。個人的には他は繰り返しも多く、ちょっと冗長に感じた。評論というよりノンフィクション+エッセイかな。とはいえいわき在住の「当事者」の書いたもの(写真も良い)として貴重な証言だと思う。
4章復興とバブル 5章ロッコクと原発が良かった。個人的には他は繰り返しも多く、ちょっと冗長に感じた。評論というよりノンフィクション+エッセイかな。とはいえいわき在住の「当事者」の書いたもの(写真も良い)として貴重な証言だと思う。