歴史は「どう」とらえるかで、誇りにも恥にもなる。ところが、日本の戦後の歴史といえ
ば、大学に奉職してきた歴史学者が「マルクス史観」の下で、これが日本の「アカデミズ
ムだ」という「権威」を持ってしまい、学会の閉鎖性を批判できない構造となっている。
しかも、一見して当然であるかの説を信じて疑わない大学の専門家が、それ以外の研究に
携わるジェネリラリストたちが提唱する説に対して軽蔑の目で見る習慣は、日本の歴史を
根幹から腐らせてきたとも言える。
では、日本の「アカデミズム」の帰趨を制する「マルクス史観」とは、いったい何者なの
か、まさしくこれを問うのが本著作である。
ただし、これを直裁に問える訳でなく、明治以後の輸入の産物であったギソーなどが提唱
した「進歩史観」、近代西洋を理想化するヘーゲルの歴史観、ランケによる「実証主義」
的歴史学というものの検証を行う。
このような検証をおこなうことは、「西洋人は歴史をどう描いてきたか!?という真相に
迫ろうとする一方で、アジアの歴史というのは、本当に遅れていたのか!?というテーゼ
にもつながる問題である。
また、そのような検証の上に、先に掲げた歴史観や歴史学の異同に着目していくと、意外
にも明治以前からある「皇道史観」とういものが、「マルクス史観」と近似性を持ってい
ることに気がつく。
殊に、「マルクス主義」が政治に絡むと、西洋の歴史というものが「教皇」=「権威」と
「皇帝」=「権力」という図式の政治史につきてしまう。
たしかに、「英雄」は魅力的である。
しかし、あくまで「教皇」と「皇帝」という歴史の象徴的な一場面を映しだすだけの鏡で
あるから、およそ「文化」「宗教」「経済」といった諸活動においては空洞にみちた歴史
観しか形成しないこととなる。
およそ、「歴史は勝利者が作る」という名のもとに「負」の「歴史修正主義」がはびこる。
それに反発して「教条主義」を唱え、あたかも正論を述べたかのような気にもなる。
しかし、それは、単なる「レッテル貼り」をしているに過ぎない。
また、「左派」「右派」というとらえ方も、実のところ「マルクス史観」によって成り立
つ代名詞にすぎない。これでは「正しい歴史認識に変える」=「正」の「歴史修正主義」
という意味を持ちようもない。
かつてホロコーストの事実を疑問視し、ジェノサイドを特にユダヤ人のシオニストがでっ
ち上げたとする動きに対して、時の政府が建設しようとした博物館を「修正主義」として
批判した。ナチス犯罪を単なる一事件とすることも「歴史修正主義」であったのである。
このことは、アドルノの「アウシュビッツの後、詩をつくるのは野蛮だ」という言葉に端
的に示されている。著者はこの言葉を「新版の序に代えて」と「あとがき」でも繰り返し
ている。まさに「魂の叫び」である。
日本でもホロコースト問題に便乗する形で「南京事件」や「従軍慰安婦」をなかったとい
う「歴史修正主義」の立場をを貫徹することは、日本の「アカデミズム」でとることは容
易ではない。
このようなことを踏まえると、日本の政治史というものが、いかに「中心に空洞」がある
といった象徴的意味を有することとなり、本著作のタイトルでもある「新しい日本史観」
を呼び起こす元となるのである。
それは、とりもなおさず、「皇道史観から脱却せよ!」「マルクス主義から脱却せよ!」
というものであり、上記に述べたことを反面鏡として、「歴史を支える3つの力」に着目
することを意味する。
それは、「文化」であり、「宗教」であり、「国家」なのであり、本著作の最終章である
十章にまとめられていて、共通項として括(くく)り出されることは「歴史社会というの
は、文明の連続性の上に成り立っている」ということだ。
第二次世界大戦後に生まれたイデオロギー的な物質文明の「進歩主義」の術中に填(は)
まってしまうと、経済、政治史に加えて生活史、技術史、文化史という総合的な語り口が
欠落する。
いかに、明治以前からある「皇道史観」や、近似性のある「マルクス史観」をグランドセ
オリーとする支配のもとにあったか。今こそ、日本人の、日本人による確かな歴史観=
「ジェネリラリストとしての感性」を取り戻そう!!という試みが真摯な問題なのである。
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