ビッグデータからあなた自身も知らないあなたの正体が丸裸にされる、だの、人工知能のほうがあなたより正確で迅速に仕事ができるようになる、だの、数字や数学の行き着いたところにはアンヒューマンなレトリックばかりの昨今、本書はほとんど心温まるといっていいほどの、人間賛歌としての数学の物語である。この本を読むと小学校からプログラミングを必修科目にしろとかいう話がいかに無意味なものであるかがよくわかる。
数学は「数える」という素朴な行為から何度かの大きなイノベーションを経て、数学理論自体、計算そのものを数学的対象とする(と書きながら、もうわけがわかっていないが)までに発達し、人間の数学的営みはコンピュータという機械が代行するようになった。たとえば人間の非論理的で、不定形で、曖昧な行動や感情といったものをデジタル技術が適切に「処理」して、私達の判断の精度を上げるために使われている。いわば数学はわたしたちが生身の人間であるがゆえの弱さや限界を補完する技術である。
しかし、ここに至るまでの数学の歩みを辿ってみると、数学はさいしょからコンピュータやAIを目指していたわけではなく、自然を理解したい、人間(他者)を理解したい、自分を理解したい、世界を理解したい、という欲求の歴史だった。「新たな数学が生まれる場面に生きた人間の姿があり、冷徹に見える計算や論理の奥に血の通った人間がある」。
哲学者がそのまま数学者でも物理学者でもあったギリシャ時代には、数学的志向は図と自然言語のみに頼っていた。われわれが使っているインド-アラビア数字のような0を含む位取り記数法が普及したのは6世紀以降といわれ、それまではよほど高度な教育を受けた人でなければ二桁の掛け算などできなかった。演算用の+-×÷=などの記号が出現するのは16世紀。そしていま高校数学で誰でも目にする二次方程式の一般式を可能にした代数表現を用いて古代ギリシア以来の幾何学的問題を統一的に解決する「方法」をデカルトが開発したのが17世紀。デカルトの『幾何学』は「西欧数学の精神を象徴する作品」となり、これを足場にニュートンやライプニッツなど新世代の数学者が微積分の基礎を打ち立てる。しかし数学の「技術」が発達して数の世界の奥義に近づいたとかと思いきや、「直感を裏切るような現象」が次々に表れる。
そこで現れたのがヒルベルトという天才イノベーター。現代数学の草分けともいえる人である。彼の「数学をしている自らの思考について数学する」というアプローチは、ゲーテルの「不完全性定理」によって挫折するが、その精神はブルバキ派の構造主義、チューリングの「計算についての数学」に受け継がれ、それぞれの土壌で花開く。とりわけ、チューリングの研究は、コンピュータを生み、その技術はわれわれがいま、パーソナル脳アシスタントとして使っているスマホの基礎になっている。われわれはたとえば数十年前の、世界で一番賢いといわれる人物を上回る知識量と計算能力を掌のなかに持っているわけだが、それでどれだけ世界、他者、自分、のことをより深く理解できているといえるだろうか。
脳や宇宙まで、われわれが認知しうる知のゼロポイントから現在の到達点までを読みとく言語としていちばん有能であると思われる数学も、わたしたちが行為と知覚の往復運動のなかでつくりあげた独自の環境であるところの「環世界」(by ユクスキュル)のなかでのみ通じる言語である。著者の言葉を借りれば「脳の中だけを見ていても、あるいは身体の動きだけを見ていても、そこに数学はない。脳を媒体とした身体と環境の間の微妙な動きが、数学的志向を実現している」のである。
人類の記録にはじめてあらわれる数字は紀元前3300年前、シュメール人によって粘土板に刻まれた絵文字だった、というところからはじまって、本書はギリシャ、インド、アラビアを経由してわれわれが学校で学ぶ西欧の近代数学までを辿る旅である。その流れは、アラン・チューリングと岡潔という二人に行き着くが、「この二人を同じ一冊の中で扱った本は、これまでなかったのではないか」と著者は終章で述べている。「身体を乗り越える意志のないところに、数学はない」「身体のないところに数学はない」と確信する著者にとって、「心」と「機械」をつなぐ手がかりとして数理論理学の世界に入って行ったチューリングと、自己を深く掘り下げていくよすがとして数学と向き合った岡潔に、行き着くのはごく自然な流れであっただろう。
「チューリングが、心を作る[コンピュータを発明する]ことによって心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることによって心をわかろうとした」。岡潔は、「『自我』と『物質』を中心に据える現代の人間観・宇宙観」が、自他を超えて通い合う情を分断し、わかるはずのこともわからなくなったことを憂いていた。その憂いこそこの若き数学者が出発点にしているのだろう。いま、宇宙やAIといった、数学の最先端の技術をツールとして使っている人たちがもっとも心の問題に関心を寄せているとも聞く。
わたし自身はおそらく中学生の頃から数学に苦手意識があり、それはいまも多くの「文系」といわれる人が共有しているであろうコンプレックスとして残っている。しかし苦手と思っている対象は、情緒から切り離されたプログラムやアルゴリズムで、数学そのものではないのかもしれない。若い人が算数を卒業して数学の門をくぐるときにこの本を読んだなら、文系理系といった分類にあまり意味がないこと、数字に強いとか弱いといった評価が必ずしも数学とは関係ないということを理解し、道具としてではなく思想としての数学、人類の営みとしての数学に関心を寄せることもあるのではないかと思う。
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