著者自身の問題意識をまっすぐに追及しているということで、もっと高評価をつけるべきかもしれない。しかし意識の哲学が何を問題にしているかを十分に読み込まないまま批判していることをもって、辛い点をつける。なぜ読み込めていないのかというと、著者の態度が間違っているからだと思う
人がたとえば絶対的な孤独のうちに暮らす限り、意識の存在は問題にならない。しかし他人とかかわりあい、言語を通じて累進構造を発見するに至り、意識の存在が問題となる。しかしそれは疑似問題である。この通りかどうかわからないが、そういう趣旨のあるものとして読んだ。
しかし意識の存在が言語による世界構築に付随する疑似問題であるなら、累進構造も疑似的なものではないか。とりあえず、ここまでのことは誰もが感じることだろう。これに対する永井氏の反応は、おまえは問題を読み切れていない、というものになるだろう。だが私は永井氏の論説が哲学的に重大なものであるとはとても思えない。私の理解力不足ということを一応の前提として、なんというか、仄めかしばかりで、まっすぐに提示してくれないということもあるのではないか
何を疑問に感じるかを、あらかじめ読者に強要する点に、違和感があった。マクタガートの時間論の翻訳と解説で、あの本を認めない人には哲学の何たるかがわからないという決めつけに、私は不信感を持つ。あの本はさすがに時間の本質を全く外した議論であり、無価値であると思うので、永井氏の見解も相応に的外れであると感じる
マクタガートの時間論は複雑にすぎて、時間の普遍性を説明できない。即ちいかなる物体も時間×速度で到達距離を正確に予測できる、そして裏切られることも例外もないということの理由がわからない。世界が累進構造を持つなら、無数の分岐があってしかるべきだが、皆一様に時間を経る。なぜ客体についてはかくも単調であるのか。永井氏の言う累進構造が、人間の頭の中でのみ実現しているからである。それを私たちは妄想と呼ぶ。これは氏の理屈が、ではなく、どうにでもなるという理論の在り方に対する形容である。なぜマクタガートの論文が多くの哲学者に無視されたかというと、一読無意味であることが明らかであるからだと思う
意識の累進構造も、すべてイマジナリーなものである。だから語るに値しない、とは言わない。人間はそうしたものに促されて行動するものであるから、心理学に還元する意図があるなら有益な研究であろう。しかし氏はそういう限定をつけていない
他の意見を「それは累進構造を無視しているから間違いである」という形で批判するのは正しい戦略でありうる。蓋し累進構造とは間違ったテクスト内でのみ問題になるからである。時間についてイマジナリーなものを評価することは全くの無駄であるが、こちらは単純に言えない。この本でも実際に批判の手段として使われており、私はそれを排する目的であるとその時は思ったが、どうもそうではなく、積極的に世界の構造として認めていくつもりらしい。『世界の独在論的存在構造』において更に展開されているらしいので、確定的なことは言えないが、この本から読み取れる限りにおいては、氏の関心に哲学的意味はない、と反対するしかない。それはテクスト批判の道具であり、独立した世界観にはなりえないからだ
中でトマス・ネーゲルのwhat is it like to be a bat?について批判しており、コウモリの意識が理解できないのであれば隣人の意識だって理解できないはずではないかと、いささか詰問口調で言っておられるが、まさにそれこそがネーゲルのいいたいことだったろう。ただ人間を出すよりコウモリの方がすっきりとすると思っただけである。言いたいことが他の人にはそのまま反論として使えるような気がする。哲学ではよくあることだ
例えばデカルトの意識と私のそれとでは、意識という言葉でくくれる程度には似ているが、逆に、同じであるということに躊躇を感じる程度には別物である。違う個体であるということではなく、知識内容の違いでもなく、構造も働き方も全然(というと大げさだが)異なる。それは赤いものを見た場合、ある人は脳のABCの部分が励起し、別の人はBDEがこの体験に対応するという最新の知識からも明らかである
少々誇張するなら、私とデカルトとの違いは、私とコウモリとの違いとあまり径庭がない。ここは個人の感想だから、永井氏が私とは別の感じ方を持つのは構わないが、「なぜ私はデカルトではなく私なのか」という問題意識は「なぜ私はコウモリではないのか」「なぜ私はアノマロカリスではないのか」さらには「あの石ころではないのか」という問題意識と同程度の哲学的意味しか持たないと私は感じる。後者をばからしいと感じるなら、前者も同様である
百歩譲って、言語を交わしうる人間のみに限定して、なぜ私は他の誰でもなくこの私なのかという問いは、意識のみ交換可能であることを暗々裏に前提している。七十億のゾンビがいて、たまたまその中の一体に私という意識が宿る、そういう世界観の中でのみ意味を成す問いではなかろうか
つまりこれは面白い空想と呼ぶべきものではなかろうか。小さいころ私はミミズになったらどんな気持ちだろうとか、カマキリにむしゃむしゃやられるバッタになりきった気分で、つらいと思ったりしたものだ。あるいは、なろう系の小説を読む人は、他人への成り変わりを楽しむわけだが、そこに哲学的に深い意味はない。それらは娯楽である
なぜ今という時間にのみ世界が豊かに開かれているのかという問いには、ではすべての時間について豊に開けているべきものなのかと反問できる。過去も含めてすべての人の中で、なぜこの私にのみ特権的に豊かな世界が開けているのかということには、ではすべての人が共有できる万能の視点があるべきなのかと問い返せる。二つの問題意識を合わせると、なぜ私は全能の神ではないのか、という疑問に収まってしまうのではないか。それは哲学ではなく暇人の空想である
意識の累進構造における他者の位置も、明確にイマジナリーなものである。一体それは誰を指すのか。個人なのか集合体なのか。アノマロカリスはそこに含まれるのか。石ころは? この点で、前出のネーゲルのエッセイにヒントがある。「我々はコウモリの内的体験を、私たち自身の体験をもとにぼんやりと推測するのみである」。即ち累進構造における他者とは、私を外から見たらこんな風なんだろうなという、はなはだ適当な想像だ。他者という一般存在などありはしない
それとは別に、意識の哲学への誤読は防いでおくべきだろう。氏は非常に影響力の大きい人なので、傾倒者が軽い読みをそのまま引き継ぐ可能性は高いと思う
例えばメアリの部屋への反論をいくつも読んできたが、どれも同じ形をしている。赤という体験を知識としてメアリに移動可能であるとするもの、メアリの脳内に赤の体験と同じ形を作り出すもの。もちろんそういうことができないというための思考実験なのだから、説得力があるとはとても言えない。だが反論者も元のエッセイに説得力を感じないのだろう。なお、メアリがゾンビであったらという氏の想定は、ゾンビが成立しないと自分で言うのだからもとより論外である
赤という体験をしている人と同じ脳内状態を人工的に作り出しても、それは別物として認識される。それを言うのがbrain in the vatの思考実験に対するパトナムのコメントである。それらを説得的と感ずるかどうかは、実は問題ではない、と言ってしまっていいものか
永井氏は、意識とは何かを問う哲学が、根本のところで何を問題にしているかを読み切れていないと思う。その核心は「何もないのではなく、なぜ何かが存在するのか」という問いである。ハイデガーが改めて言い直したことで、実存主義の文脈で理解されてしまう、つまりいささか非合理な問題設定であると取られてしまうが、分析哲学の内部でも維持されてきた、最も古い問いである
意識は脳内過程ではない、というわかりやすい主張のせいで、科学主義への反発とみなされやすい。あるいはデカルトの図式が有名すぎて、いしきの有無を問題にしていると単純化される。ではあるが、宇宙は永劫に暗黒であってもよいのに、なぜ物があるという認識が生まれたのか、なぜ無ではなく何かがあるのか、そういう根源的な謎への挑戦が、意識の哲学の共通理解ではなかろうか。もちろん無謀な問いであるから、ばからしいと頭から拒否してもよい。ただ、そういう文脈のものであるということで理解はしてほしい
意識は脳内過程ではないという還元論の拒否、これは何を意味するのか。単純な反論と取られやすいが、本当のところ、還元論が成立しても問題は残るという言い方が望ましかった。すなわちAがBに還元されるという場合、たいていの問題は両者を巻き込む形で起きるが、Aの内部でのみ生じる問題もある、あるいは還元が成立するということそのものが問題であるということだ。だって激しい分子運動と熱さは違うし、c-fiberの発火と熱いという感覚も違うものなのだから。しかし意識の哲学を科学への冒涜ととるクリック、デネットあるいはドーキンスらの攻撃に身構えすぎたところもあるだろう。本題に入る前の準備段階でぼこぼこになってしまった、というところだ
変な話だが、意識の哲学は最初から失敗するものと決まっている。実際に穴だらけで、批判はどうにでも可能だ。特にこの本で論じられるチャーマーズなど、論を多方面に広げすぎて、誰でも一読どこかおかしいと思わせるはずである。しかし彼がなぜゾンビなどというものを持ち出したのか、理由ははっきりしている。我々は自動機械やゾンビのように、全く世界を存在するものと認識せず、ただ適切に反応する物体でもよかったはずなのに、すなわち世界は暗黒のままであっても構わなかったのに、なぜか「何かが存在する」と認識するものが現れた。その謎を投げかけるためである
私たちは確かに何かが存在すると知っている。したがって意識はある。理論の文脈次第であったりなかったりする、ということは絶対にない。私が、永井氏の哲学に多少の不満を感ずるゆえんである
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