タイトル通り、推しのアイドルが炎上する話。
といっても真相を究明するミステリーのようなものではなく、主人公にとって推しがどういった存在なのか、主人公がどのような生活をしているのか、がひたすら描かれていきます。
作中で診断名は明言されてはいませんが、主人公は明らかに発達障害であり、そこも本書の主要なテーマであると思います。
私自身はアイドルに夢中になった経験はありませんが、周囲の当たり前についていけない惨めさ、推すという行為だけに人生の意味を集約してしまう主人公の行動に共感できました。
ヘタにドラマチックな展開や救いを描かずに最後まで淡々とした日常が描かれているのも良いです。
追記
なぜかわかりませんがこの作品が芥川賞をとったようです。
私にとってこの作品の一番の価値は「主人公が発達障害であること」なんです。
文学とか、信仰とか、若者のリアルとか、そんなことはどうでもいいんです。
作者が、発達障害のことをわかっていて、それをちゃんと描いてくれたんです。
救いなんてなくてもいい。
主人公のような人間がいるんだってことをわかって、そして無視しないでそれを描いてくれたんです。
だから星5。
推し、燃ゆ Kindle版
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言語日本語
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出版社河出書房新社
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発売日2020/9/10
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ファイルサイズ507 KB
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
推しが炎上した。ままならない人生を引きずり、祈るように推しを推す。そんなある日、推しがファンを殴った。
--このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
宇佐見/りん
1999年静岡県生まれ、神奈川県育ち。現在大学生。2019年、『かか』で第五六回文藝賞を受賞、三島由紀夫賞候補となる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
1999年静岡県生まれ、神奈川県育ち。現在大学生。2019年、『かか』で第五六回文藝賞を受賞、三島由紀夫賞候補となる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
著者について
1999年静岡県生まれ、神奈川県育ち。現在大学生、21歳。2019年、『かか』で第56回文藝賞受賞、史上最年少で第33回三島賞を受賞。
--このテキストは、tankobon_hardcover版に関連付けられています。
登録情報
- ASIN : B08HGQXTKY
- 出版社 : 河出書房新社 (2020/9/10)
- 発売日 : 2020/9/10
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 507 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効にされていません
- Word Wise : 有効にされていません
- 本の長さ : 78ページ
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年1月23日に日本でレビュー済み
2021年上半期・芥川賞受賞作。
(以下ネタバレあります)
『推しが燃えた。』という印象的な一文ではじまるこの小説は、タイトルそのままに、主人公の女子高生「あかり」が「推している男性アイドル」が一般人の女性に暴力を振るったことでSNSで炎上し、あかりの生活にも影響を及ぼすというもの。
あかりは、たまたま自分の部屋で子供の頃に見た舞台のDVDを見つけ、その舞台でピーターパン役をしていた当時まだ子役の上野真幸が今は男女混合アイドルグループ『まざま座』のメンバーだと知る。
高校に入学してすぐの5月、学校を休んでいたあかりは、体操服を探していて偶然そのDVDを見つけて、そこでピーターパンをしながら向けられる彼の「子供らしくない視線の冷たさ」と、「大人になんかなりたくないよ」という台詞にハッとし、「あたしのための言葉」だと思う。
(詳細は記述されていないけれど、あかりにはたぶん適応障害か、ストレス性の何かがある。
ストレス性だと考えられるのは、無理して食べたケーキをトイレで吐いたあと、少量の血が混じっていたという描写)
決してコミュニケーションが下手というほどではないけれど、SNSで「陰キャ」を名乗るあかりは、学校に馴染めていないのは明らかです。
そのあかりの内面を「背骨」のように支えることになるのが、そのアイドル・上野真幸への没入的な応援だった。
その上野真幸が不祥事を起こしたことで、あかりの内面も揺らぐ。
描写からもわかるように、あかりは、どこか自分に似ながらも決して自分を曲げない彼に自己同一化を行うことで、自らのアイデンティティを保っています。
個人的に文学的におもしろいと感じたのは、そのあかりが、自分の「身体的なもの=自分の存在」そのものを常に負担に感じながらも、
適度な距離がある『SNS』や有象無象のファンとしての『推しとの距離』に安心感を得ているところです。
つまりあかりは、コミュニケーションそのものが比較的下手なわけでも、嫌いなわけでもなく、心理的な負担の多い「対面のコミュニケーション」が苦手ということ。
これはかなり意図的に描かれてきて、あかりはアルバイトをしていますが、そこはマニュアル化されたコンビニなどではなく、居酒屋的な定食屋。
そこでは常連が来て、コンビニやチェーン店ではありえないお願い(お酒の量を増やして欲しい)をこっそり頼まれる。
けど、そのような「非マニュアル的」な「人間関係の濃度の高いコミュニケーション」が苦手な彼女は、どう反応すれば良いか分からない。
(主人公がマニュアル的に生きることを選ぶ芥川賞小説、村田沙耶香『コンビニ人間』とは狙ったような好対照)
このシーンは、彼女を『発達障害』だと捉えるより、
現代の高校生でありディープなコミュニケーションに慣れていない若者である主人公(=同世代)にとって、
この「非マニュアル的」な「コミュニケーション」そのものが、いかに高いハードルであるのかの描写だと理解するべきだと思います。
(つまりアイドルの話題を通してなら友人の成美(たぶんギャル系)やSNSのフォロワーとは普通に話せる彼女は、しかし、それ以外のコミュニケーション方法を知らない。
たとえていうなら、地方から出てきた若者が都会で難儀するような、地元ルールの通用しない困惑)
これは若者だけでなく、現代人の心理をうまく捉えているのではないでしょうか。
なぜなら、『共通の話題・共通のルール』が少なくなるほど、「地方からの上京」の時と同じようにコミュニケーションが難しくなります。
学校の友人やSNSでは上手くコミュニケーションがとれても、初対面の相手の前では言葉に詰まる。
じっさい、テレビでも若い芸能人がよく「漫画のワンピースを読んでると会話ができる」などと発言しますが、あかりにとって、その「他者と会話するツール」が「まざま座の上野真幸」だったということになります。
(上野は自己同一化=憧れの対象であると同時に、会話のツール。だからこそ上野真幸を挟まない会話は苦手であり、SNSでの饒舌は影を潜める。
さらに、彼の誕生日を終戦記念日にしているのは、彼を戦後の天皇=宗教の『神様』になぞらえることで、弱い人が生きる上で「アイドルも神も同等の価値を持つ」と示唆しているように取れる)
この、あかりにとってのアイドルは、現実の若者同士の会話では、漫画の「ワンピース」かもしれないしソシャゲの「FGO」かもしれないし、今人気のアニメ「鬼滅の刃」かもしれない。
「ガチ勢」を自認する彼女は、この『他者とコミュニケーションするためのツール=上野真幸』を失えば、ありとあらゆる他人が『コミュニケーションの困難な他者』になってしまう。
(だから、あかりの内面は、あまりにも激しく揺れ動く。吐くまで、彼に捧げる誕生日ケーキをひとりで食べる。そこに血の混じるほど)
この現代性と若者カルチャーの巧みな描写は、令和版『蹴りたい背中』と呼んでいいようにさえ思います。
また、あかりのコミュニケーション能力に関しては、その苦手の理由は、恐らく彼女の『家族関係』に原因の一端があります。
彼女の『母親』です。
祖母のわがままで、夫を海外に単身赴任させた母は、恐らく娘2人(あかりと姉)をエリートにしたかったらしく、幼い頃から英語を覚えさせようとして、三人称の動詞が覚えられない彼女に呆れる。賢い姉ばかりを褒める。
母は、幼いあかりとまともなコミュニケーションをとってこなかった。
(この母子の確執が前作『かか』を踏襲しているとするなら、これは宇佐見さんの一貫したテーマといえます。
ちなみに、上野真幸は、子供の頃に母親が姉を連れて家を出て、父と祖父母と4人家族だったという設定=男版のあかり)
物語の後半では、母の頭痛の種だったその祖母=母の母が亡くなる。
不登校がちだったあかりはすでに高校を中退しており、祖母の死に際して『家/家族』の変化の兆しを感じる。
予感は当たり、祖母の死で帰国した父と母と口論の末、姉の提案で、その祖母の家に一人暮らしすることに。
ある日、上野真幸はインスタグラムの配信で、ラストライブの後に芸能人から一般人に戻ることを告げた。
しかもその手には指輪が。荒れるコメント。
ラストライブの後、「推し」の写真を遺影のように感じたあかりは、あまりにも散らかった部屋を見て、
自分はダメになってしまったのではなく、あえて自分からダメになったのだと納得するために、手近にあった綿棒のケースを床に投げつける。
しかし散らばった綿棒を前に、かつてバイト先で大きなミスをした際、名前をもじって「あかちゃん」と呼ばれた彼女は、四つん這いになり、ゆっくりと、お骨のような白い綿棒を拾い上げる。
「綿棒を拾い終えても・・・空のペットボトルを拾う必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える」
そして心の中で呟きます。
「当分これで生きようと思った」
推しの喪失を受け入れた彼女が『他人と同じようには出来ない自分』を受け入れた瞬間でした。
このラストシーンは、この物語の最大のテーマを「現代人の抱えるコミュニケーションの難しさ」だと捉える時、
この台詞はあかりが苦手とする『他人とのコミュニケーション』に向かう決意ともとれます。
ならそのとき、『これが私だ』と自分を受け入れた彼女(=現代人)は、この価値観の異なる多勢が生きる世界をどう渡り歩くのか。
宇佐見さんの次作は、そのような不確実な世界に飛び出した若者が主人公の作品になるかもしれませんね。
次回作もチェックしようと思います。
(長文ですみません)
(以下ネタバレあります)
『推しが燃えた。』という印象的な一文ではじまるこの小説は、タイトルそのままに、主人公の女子高生「あかり」が「推している男性アイドル」が一般人の女性に暴力を振るったことでSNSで炎上し、あかりの生活にも影響を及ぼすというもの。
あかりは、たまたま自分の部屋で子供の頃に見た舞台のDVDを見つけ、その舞台でピーターパン役をしていた当時まだ子役の上野真幸が今は男女混合アイドルグループ『まざま座』のメンバーだと知る。
高校に入学してすぐの5月、学校を休んでいたあかりは、体操服を探していて偶然そのDVDを見つけて、そこでピーターパンをしながら向けられる彼の「子供らしくない視線の冷たさ」と、「大人になんかなりたくないよ」という台詞にハッとし、「あたしのための言葉」だと思う。
(詳細は記述されていないけれど、あかりにはたぶん適応障害か、ストレス性の何かがある。
ストレス性だと考えられるのは、無理して食べたケーキをトイレで吐いたあと、少量の血が混じっていたという描写)
決してコミュニケーションが下手というほどではないけれど、SNSで「陰キャ」を名乗るあかりは、学校に馴染めていないのは明らかです。
そのあかりの内面を「背骨」のように支えることになるのが、そのアイドル・上野真幸への没入的な応援だった。
その上野真幸が不祥事を起こしたことで、あかりの内面も揺らぐ。
描写からもわかるように、あかりは、どこか自分に似ながらも決して自分を曲げない彼に自己同一化を行うことで、自らのアイデンティティを保っています。
個人的に文学的におもしろいと感じたのは、そのあかりが、自分の「身体的なもの=自分の存在」そのものを常に負担に感じながらも、
適度な距離がある『SNS』や有象無象のファンとしての『推しとの距離』に安心感を得ているところです。
つまりあかりは、コミュニケーションそのものが比較的下手なわけでも、嫌いなわけでもなく、心理的な負担の多い「対面のコミュニケーション」が苦手ということ。
これはかなり意図的に描かれてきて、あかりはアルバイトをしていますが、そこはマニュアル化されたコンビニなどではなく、居酒屋的な定食屋。
そこでは常連が来て、コンビニやチェーン店ではありえないお願い(お酒の量を増やして欲しい)をこっそり頼まれる。
けど、そのような「非マニュアル的」な「人間関係の濃度の高いコミュニケーション」が苦手な彼女は、どう反応すれば良いか分からない。
(主人公がマニュアル的に生きることを選ぶ芥川賞小説、村田沙耶香『コンビニ人間』とは狙ったような好対照)
このシーンは、彼女を『発達障害』だと捉えるより、
現代の高校生でありディープなコミュニケーションに慣れていない若者である主人公(=同世代)にとって、
この「非マニュアル的」な「コミュニケーション」そのものが、いかに高いハードルであるのかの描写だと理解するべきだと思います。
(つまりアイドルの話題を通してなら友人の成美(たぶんギャル系)やSNSのフォロワーとは普通に話せる彼女は、しかし、それ以外のコミュニケーション方法を知らない。
たとえていうなら、地方から出てきた若者が都会で難儀するような、地元ルールの通用しない困惑)
これは若者だけでなく、現代人の心理をうまく捉えているのではないでしょうか。
なぜなら、『共通の話題・共通のルール』が少なくなるほど、「地方からの上京」の時と同じようにコミュニケーションが難しくなります。
学校の友人やSNSでは上手くコミュニケーションがとれても、初対面の相手の前では言葉に詰まる。
じっさい、テレビでも若い芸能人がよく「漫画のワンピースを読んでると会話ができる」などと発言しますが、あかりにとって、その「他者と会話するツール」が「まざま座の上野真幸」だったということになります。
(上野は自己同一化=憧れの対象であると同時に、会話のツール。だからこそ上野真幸を挟まない会話は苦手であり、SNSでの饒舌は影を潜める。
さらに、彼の誕生日を終戦記念日にしているのは、彼を戦後の天皇=宗教の『神様』になぞらえることで、弱い人が生きる上で「アイドルも神も同等の価値を持つ」と示唆しているように取れる)
この、あかりにとってのアイドルは、現実の若者同士の会話では、漫画の「ワンピース」かもしれないしソシャゲの「FGO」かもしれないし、今人気のアニメ「鬼滅の刃」かもしれない。
「ガチ勢」を自認する彼女は、この『他者とコミュニケーションするためのツール=上野真幸』を失えば、ありとあらゆる他人が『コミュニケーションの困難な他者』になってしまう。
(だから、あかりの内面は、あまりにも激しく揺れ動く。吐くまで、彼に捧げる誕生日ケーキをひとりで食べる。そこに血の混じるほど)
この現代性と若者カルチャーの巧みな描写は、令和版『蹴りたい背中』と呼んでいいようにさえ思います。
また、あかりのコミュニケーション能力に関しては、その苦手の理由は、恐らく彼女の『家族関係』に原因の一端があります。
彼女の『母親』です。
祖母のわがままで、夫を海外に単身赴任させた母は、恐らく娘2人(あかりと姉)をエリートにしたかったらしく、幼い頃から英語を覚えさせようとして、三人称の動詞が覚えられない彼女に呆れる。賢い姉ばかりを褒める。
母は、幼いあかりとまともなコミュニケーションをとってこなかった。
(この母子の確執が前作『かか』を踏襲しているとするなら、これは宇佐見さんの一貫したテーマといえます。
ちなみに、上野真幸は、子供の頃に母親が姉を連れて家を出て、父と祖父母と4人家族だったという設定=男版のあかり)
物語の後半では、母の頭痛の種だったその祖母=母の母が亡くなる。
不登校がちだったあかりはすでに高校を中退しており、祖母の死に際して『家/家族』の変化の兆しを感じる。
予感は当たり、祖母の死で帰国した父と母と口論の末、姉の提案で、その祖母の家に一人暮らしすることに。
ある日、上野真幸はインスタグラムの配信で、ラストライブの後に芸能人から一般人に戻ることを告げた。
しかもその手には指輪が。荒れるコメント。
ラストライブの後、「推し」の写真を遺影のように感じたあかりは、あまりにも散らかった部屋を見て、
自分はダメになってしまったのではなく、あえて自分からダメになったのだと納得するために、手近にあった綿棒のケースを床に投げつける。
しかし散らばった綿棒を前に、かつてバイト先で大きなミスをした際、名前をもじって「あかちゃん」と呼ばれた彼女は、四つん這いになり、ゆっくりと、お骨のような白い綿棒を拾い上げる。
「綿棒を拾い終えても・・・空のペットボトルを拾う必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える」
そして心の中で呟きます。
「当分これで生きようと思った」
推しの喪失を受け入れた彼女が『他人と同じようには出来ない自分』を受け入れた瞬間でした。
このラストシーンは、この物語の最大のテーマを「現代人の抱えるコミュニケーションの難しさ」だと捉える時、
この台詞はあかりが苦手とする『他人とのコミュニケーション』に向かう決意ともとれます。
ならそのとき、『これが私だ』と自分を受け入れた彼女(=現代人)は、この価値観の異なる多勢が生きる世界をどう渡り歩くのか。
宇佐見さんの次作は、そのような不確実な世界に飛び出した若者が主人公の作品になるかもしれませんね。
次回作もチェックしようと思います。
(長文ですみません)
2020年10月2日に日本でレビュー済み
私は小説を読まない。日経土曜日に紹介された本書は、私の子供がいつも何を考えているのかを知りたかったから購入しました。大学生である作者が同世代の高校生を描く、日常の描写が生々しいほどリアルである。発達障害の子どもがアルバイト先のオーナーとの関係や常連客との接客、学校で担任教師との会話では、私は現実に何度か経験した。よくもまあここまで自然に正確に書けるものだ。作者の筆力に脱帽である。アルバイトで小遣いで親兄弟から借りたお金で推し経済活動は大きなキャシュフローを生み日本独自の産業が成り立っている。主人公の女子高生は中退してしまったが、若いからまだチャンスがある。早く気づいて抜け出してくれないか。エンディングでは親の気持ちになって祈りたくなった。でも親は見守るくらいしかどうすることもできないんです。うちと同じだと共感し未来が見えないことに不安は続く。
2020年12月11日に日本でレビュー済み
現代版偶像崇拝。それにより引き起こされる悲喜劇。前作『かか』からの根調であった宗教性や人間存在とその内奥への探求といった純文学的指向は引き継がれ、今回は更に分かりやすいエンターテイメント性も奇跡のように融和されている。
宇佐見りんはただの小説家ではない。猛獣使いだ。
ネタバレになるので具体的な内容は控えるが、全編に渡り、天才宇佐見りんの「視点」による異化が、叙述や描写の細部にさり気なく、時折大袈裟過ぎるほど大胆に表出する。随所に張り巡らされ、周到に配置されたメタファーは現実・フィクション間の壁をすり抜け共鳴し、物語に激しいうねりを生み出す。独自過ぎる修辞技法を前作以上に洗練させた文体は固有の生命を宿した獣そのものだ。唸り、吠え、時に襲い掛かってくる文章なんてそうそう巡り逢えるものじゃない。そして今作において著者は、完璧にその獣を手懐けることに成功したように見える。
著者自身も影響を自認する、中上健次のあの泥臭い人間そのもののような文体に"生々しさ"という点においては確かに近しいものは感じる。だが、宇佐見りんはそれを遙かに超えるオリジナリティとイマジネーションを持っているのでは、と感じてならない。
今後どうなっていくかはわからないが、長編も是非読んでみたい。
宇佐見りんはただの小説家ではない。猛獣使いだ。
ネタバレになるので具体的な内容は控えるが、全編に渡り、天才宇佐見りんの「視点」による異化が、叙述や描写の細部にさり気なく、時折大袈裟過ぎるほど大胆に表出する。随所に張り巡らされ、周到に配置されたメタファーは現実・フィクション間の壁をすり抜け共鳴し、物語に激しいうねりを生み出す。独自過ぎる修辞技法を前作以上に洗練させた文体は固有の生命を宿した獣そのものだ。唸り、吠え、時に襲い掛かってくる文章なんてそうそう巡り逢えるものじゃない。そして今作において著者は、完璧にその獣を手懐けることに成功したように見える。
著者自身も影響を自認する、中上健次のあの泥臭い人間そのもののような文体に"生々しさ"という点においては確かに近しいものは感じる。だが、宇佐見りんはそれを遙かに超えるオリジナリティとイマジネーションを持っているのでは、と感じてならない。
今後どうなっていくかはわからないが、長編も是非読んでみたい。
2021年1月29日に日本でレビュー済み
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芥川賞?
今やほぼ一線を退き芥川賞選考委員という名誉職に固執する高名な先生諸氏の慧眼がいかほどかは、凡人には推し量れません。
地の感情や言葉がだらだらと氾濫し、果ては、スマホの「推しのライブ」もそのままだらだらと数ページにわたって書きなぐられています。文字という表現手段が映像や音声という方法に完敗している惨状を読者は無惨に見せつけられるだけです。
読む意味があるのか?自問しました。
少しだけ、家族や世界を批判的に描写する部分がありましたが、それもありきたりな批評眼のように思えました。
たまたま普通より少し発育速度が遅い子(言葉は好きではないですが、発達障害?)を描いているかと思いますが、山下清が絵という形で表現したような、自分が抱える心や周りの世界が何かを表現する静かに迸る、突き抜けるような才能とはほど遠いかと思います。
今やほぼ一線を退き芥川賞選考委員という名誉職に固執する高名な先生諸氏の慧眼がいかほどかは、凡人には推し量れません。
地の感情や言葉がだらだらと氾濫し、果ては、スマホの「推しのライブ」もそのままだらだらと数ページにわたって書きなぐられています。文字という表現手段が映像や音声という方法に完敗している惨状を読者は無惨に見せつけられるだけです。
読む意味があるのか?自問しました。
少しだけ、家族や世界を批判的に描写する部分がありましたが、それもありきたりな批評眼のように思えました。
たまたま普通より少し発育速度が遅い子(言葉は好きではないですが、発達障害?)を描いているかと思いますが、山下清が絵という形で表現したような、自分が抱える心や周りの世界が何かを表現する静かに迸る、突き抜けるような才能とはほど遠いかと思います。