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戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで (講談社現代新書) 新書 – 2017/5/17
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今日の近隣諸国との関係は、近現代史を追うだけではわからない!
好太王碑が語る対高句麗戦惨敗の衝撃。
史上最大の敗戦「白村江」。
壬申の乱と北東アジア情勢。
藤原仲麻呂独裁政権の新羅征討計画。
藤原道長ら平安貴族を襲った「刀伊の入寇」――。
話題作『蘇我氏』の著者が帝国日本の源流を探り、日本人の「異国」観がつくられていく過程を辿る、日本古代史の決定版!
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2017/5/17
- 寸法10.6 x 1.4 x 17.4 cm
- ISBN-104062884283
- ISBN-13978-4062884280
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
著者について
一九五八年三重県津市生まれ。東京大学文学部国史学専修課程卒業後、同大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学。博士(文学、東京大学)。現在、国際日本文化研究センター教授。専門は日本古代政治史、古記録学。主な著書に、『一条天皇』『壬申の乱』(いずれも吉川弘文館)、『三条天皇』『藤原伊周・隆家』(いずれもミネルヴァ書房)、『藤原道長の権力と欲望』(文春新書)、『蘇我氏』(中公新書)、『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』『藤原行成「権記」全現代語訳』(いずれも全三巻、講談社学術文庫)。また、講談社現代新書に『藤原道長の日常生活』がある。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
1958年三重県津市生まれ。東京大学文学部国史学専修課程卒業後、同大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学。博士(文学、東京大学)。現在、国際日本文化研究センター教授。専門は日本古代政治史、古記録学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2017/5/17)
- 発売日 : 2017/5/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 304ページ
- ISBN-10 : 4062884283
- ISBN-13 : 978-4062884280
- 寸法 : 10.6 x 1.4 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 240,636位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- カスタマーレビュー:
著者について

1958年 三重県津市生まれ。
1983年 東京大学文学部国史学専修課程卒業。
1989年 東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学。
1997年 博士(文学、東京大学)。
現 在 国際日本文化研究センター教授。
著 書
『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館、1997年。
『奈良朝の政変劇 皇親たちの悲劇』吉川弘文館、1998年。
『摂関政治と王朝貴族』吉川弘文館、2000年。
『一条天皇』吉川弘文館、2003年。
『壬申の乱』吉川弘文館、2007年。
『壬申の乱を歩く』吉川弘文館、2007年。
『平安貴族の夢分析』吉川弘文館、2008年。
『持統女帝と皇位継承』吉川弘文館、2009年。
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(全3冊)講談社、2009年。
『古事類苑新仮名索引』吉川弘文館、2010年。
『三条天皇』ミネルヴァ書房、2010年。
『藤原行成「権記」全現代語訳』(全3冊)講談社、2011-2012年。
『藤原道長の日常生活』講談社、2013年。
『藤原道長の権力と欲望「御堂関白記」を読む』文藝春秋。2013年。
『藤原道長「御堂関白記」を読む』講談社、2013年。
『人をあるく 紫式部と平安の都』吉川弘文館、2014年。
『平安朝 皇位継承の闇』角川学芸出版、2014年。
『「旅」の誕生 平安―江戸時代の紀行文学を読む』河出書房新社、2015年。
『現代語訳 小右記 1 三代の蔵人頭』吉川弘文館、2015年。
『蘇我氏 古代豪族の興亡』中央公論新社、2015年。
『戦争の日本古代史』講談社、2017年。
カスタマーレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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「後世に政治的意図によって作られた歴史書である以上、三・四世紀の倭王権の様子を直接的に示す文献資料は存在しない」(p.17)
とするが、本著では都合の良い時だけ日本書紀が引用されていく。
『日本書紀』、神功皇后52年に倭の使者に百済が七支刀を送ったという記述があり、これが石上神宮の七支刀であることは確実である。これらに関する既述は三国史記にはない。
七支刀という物的証拠を日本書紀のみが伝えていることは、日本書紀に史実が書かれていることを意味する。
著者も「日本書紀のこの辺の記年にも、何らかの史実が反映されている可能性も、まったくないわけではないことになる」(p.26)
と、まどろっこしく嫌々認めているようだが、さっそくp.17と矛盾する。
高句麗によって造られた好太王碑の
"""倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民とした。""
という記録に関し、
「倭国を過大に評価して記述している」(p.33)
とあるが、過大な評価という根拠は何なのだろうか?
「倭国の「渡海」と「臣民」であるが、この「渡海」を、朝鮮半島への軍事侵攻と解釈せず、百済の要請を受けた派兵と捉え、これを交戦国の高句麗側から過大に表現したものと考えれば~」(p33)
百済の要請を受けた派兵であるという根拠は何なのか?高句麗側からの過大な表現であるという根拠は何なのか?もし百済の要請を受けた派兵であっても、倭の朝鮮半島への軍事侵攻と解釈出来ると思うのだが、著者の軍事侵攻の定義が意味不明である。
「三国史記 新羅本記の 393年5月の倭人による金城包囲と新羅の挟撃記事も、倭国の半島上陸と 新羅王都への入城を誇張して記録したものであろう」(p.33)
誇張して記録したものであるという根拠は?
「(好太王碑)の「臣民」の表記についても、倭国が別に百済・新羅・伽耶を自国民としたと考えなくても、倭国軍が百済や 伽耶と共同の作戦をとって高句麗と対峙したと解釈すべきである」(p.34)
そう解釈すべき根拠は?
「(倭国が臣民とした国に)新羅が含まれることはいささか不審であるが、」(p.34)
不審という根拠は?
三国史記 新羅本記にある、402年に新羅が王の子を倭国に人質と出した記述や、日本書紀・応仁7年(396年)にある新羅の倭への朝貢の記事、中国の諸番職貢図巻にある「新羅が或る時には倭に属した」などの記述に関しても、著者は「新羅が倭に接近した」(p.34)などと、「接近」という曖昧な表現で推測するのみであり、倭の影響力の過小評価であろう。
好太王碑の
399年、倭が百済・新羅国境に満ち、百済(奴客)を倭の臣下とした
という記述や、関連する三国史記 百済本記の「397年、太子の腆支を人質として倭に送った。」という記述、さらに日本書紀・応仁8年(397年)の、百済が太子腆支を倭へ人質として差し出した記事、に関しても、著者は
「百済の倭国への依存を表現したと思われる」(p.36)
と「依存」という曖昧な表現で推測するのみである。これも倭の影響力の過小評価であろう。
好太王碑に記述された倭の影響などを過小評価するわりに、高句麗の記述に関しては
「倭が高句麗と戦っていずれも大敗したことが推定できる」(p.37)
と、好太王碑にある高句麗の大勝については著者はそのまま受け入れている。高句麗側の記録であるから高句麗の勝利を過大に表現している、という可能性は考えないのであろうか?倭の勝利は過大な表現と言うのであれば。
さらにp.38では
「(倭が)百済からの要請に冷静な外交判断を失い、無謀な戦争に踏み込んでいったというのが実情であろうか。」
と著者は述べる。
百済からの要請という根拠は?冷静な外交判断を失ったという根拠は?無謀な戦争という根拠は?
この本の記述には「~であろう」「~と思われる」などの推測が目立ち、簡単に確認しただけでも、p.33~p.39だけでも15個~20個近く「~あろう」「~と思われる」などの記述があり推測だらけである。
p.40でも、好太王碑における「臣民」の記述に関して、
「実際には、倭国が百済や伽耶と一時的に軍事協力関係を結び、新羅の王都に攻め入った程度の ものだったであろうが、~」
と根拠なく推測しているのみである。
三国史記 新羅本記には、5世紀、倭国よる新羅への侵攻が10数回記述されている。
「 (倭が)しばしば東海岸の辺境のみならず、都の金城や月城、その東方の明活城を包囲したとあるが、果たして史実を伝えているのであろうか。」(p.46)
ここでもまた「あろうか」と推測である。史実を伝えていないという根拠は何なのか?
「なお日本書紀では仁徳53年、雄略9年の討伐を語るのみであり 、5世紀の新羅と倭国の戦争の史実性を低めている」(p.46)
日本書紀など信用出来ないと主張するくせに、都合良い時だけ日本書紀を持ち出し、三国史記の記述は信用出来ないという。身勝手ではないだろうか?
「 三国史記の倭国の侵攻記事がなにがしかの史実を伝えているとすると、西日本各地の豪族の 新羅との独自の様々な交渉、あるいは伽耶諸国の要請を受けた倭国の外交を、このように表現したものではないだろうか」(p.47)
根拠は?外交交渉を戦闘と記録するとは無理があろう。
全体的に著者が倭国の影響を過小評価しようとしているようである。
倭国が朝鮮半島諸国に優位に立った事があると著者に不都合な事でもあるのだろうか?
任那日本府に関しても、田中俊明氏の名前と著作名を引用するのみで、大した説明もなく、
「倭国の統治機関ではなく、史実としては、倭国の使臣、それも大した役割を果たすこともできなかった使臣とみなすべきであろう」
と推測するのみである。
日本書紀の任那日本府などの記述に対しては否定的であるのに、同じ日本書紀にある「百済が日本に仏像などの文化を伝えた 」などの記述は
「認めてもよかろう」(p.75)
というような主張は、韓国の歴史学者もよく言うダブルスタンダードである。
隋書 東夷伝 倭国条の
”新羅・百済は、皆、倭を大国であって珍物が多いとして、並びにこれを敬い仰ぎて、つねに使者を通わせ往来している”
という記述に関しては、著者は
「新羅や百済がこのようなことを隋に報告するとは考えられず」(p.98)
というが、報告すると考えられないという根拠は?
「倭国の遣隋使が隋で主張したものであろうが、これが隋書に記録されているのは、ある程度、 倭国の主張が隋に認められたことを示すものであろう」(p.98)
倭国の主張のみを元に書かれたという根拠は?
著者はさらに「倭国の大国意識を増大させた、中国皇帝の無責任な承認」(p.283)とまでいう。
著者は新羅・百済が倭を大国であり敬仰していたとは絶対に認めたくないようである。
宋書にある、宋が倭王(武)を
”使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王”
に叙爵した事実にも、著者は、全く実態のない「無責任な承認」(p.282)と断言する。
著者は倭の朝鮮半島における影響力も絶対に認めたくないようである。
新書で書くスペースが足りなかった、といった反論があるかもしれないが、まともな説明もなくただ推論を書き連ねるだけならば、このような本を出版する必要も意味も無いだろう。
日本書紀も信用出来ない、三国史紀も信用出来ない、好太王碑も信用出来ない、中国の史書も信用出来ない、一体何が信用出来るというのか?
日本書紀などの史料を都合の良い時は引用し、都合が悪い時は信用出来ないと批判する。身勝手極まりない。
まともな説明もなく、作為的に史料を都合よく引用したり都合よく批判することが史料批判と言えるのだろうか。
日本書紀などを信用出来ないと言うのであらば、「今後一切自分の著書で日本書紀を引用しない」とでも宣言されたらどうか?
p.252
「蒙古襲来は、侵攻してきた外国勢力を撃退した戦闘にすぎず、かつ、戦闘に参加したのか九州に所領を持つ幕府御家人を中心としていて、必ずしも全国の武士全体、ましてや朝廷に連なるものが参戦していたとは言い難かったので、ここでは国家間の対外戦争とはみなさないことにする」
「 李氏朝鮮も倭寇撃退を名目にして対馬に侵攻したが(応永の外寇)、これも局地的な報復戦であるために除外する」
勝手すぎないか?蒙古襲来も応永の外寇も侵略行為であり、日本にとっては対外戦争である。
勝手な理由をつけて侵略行為・対外戦争ではないとするのは無理がある。
元寇に関しては、高麗の国王らが元側に対し日本への侵攻を促していた事実もある。
文永の役の役に関して、蒙古軍の撤退を「予定通りの自主的な撤退と考えるべきであろう」(p.257, p.258)
としているが、根拠は何なのか?村井孝重氏の名前と著作名は引用しているが、具体的な説明が無い。元史や高麗史には、元・高麗軍の苦戦の様子が書かれているが、撤退が予定通りなどど書かれているのだろうか?
『高麗史』の金方慶伝には、蒙古軍指揮官と高麗軍指揮官の間で、撤退するかどうかの議論があったようだが、最初から撤退する予定ならば、撤退の議論などするのだろうか?
元史にも「官軍(元軍)整わず、矢も尽き」などの記述がある。
弘安の役の役に関し、著者が鎌倉武士の奮戦を珍しく評価しているのは良いとして(服部英雄氏の著書「蒙古襲来」の受け売りだろうが)、
「(対蒙古戦で)ベトナムではゲリラ戦を駆使すれば大国にも勝てるという思想を継続させ、やがてフランスやアメリカ、中国といった大国を破ることになる。それに対し日本では、武士の奮戦や準備を正しく評価せず、神風信仰に酔いしれ、第二次世界大戦で決定的な敗戦を迎える事になってしまった。」(レビュアー要約。p.287)
鎌倉武士の奮戦による勝利とするのは同意である。しかし、ベトナムに関してだが、ベトナムは1850年頃から100年近くフランスの植民地となった歴史もある。日本が100年も外国の植民地となった歴史はあるだろうか。日本を批判したいがためにベトナム史の都合の良い部分だけを切り取っている。
終章でまた古代史の話に戻り、
好太王碑の「倭が百済、伽耶、新羅を臣民とした」という内容について著者は、
「実際には、百済の要請を受けて半島に出兵し、百済や伽耶と一時的に軍事協力関係を結び、しらぎに攻め入っただけなのであろう」(p.281)
著者はここでも「~あろう」と推測しているが、根拠は?
百済などが主体で倭が単なるオマケだと言いたいようだが根拠は何なのか?
著者の言うように、百済が主体だったならば、高句麗が倭を主体と表現した理由は何なのか?
百済が倭に人質を送っていたことなども過小評価していないだろうか?
「百済や伽耶・新羅を臣民としたという主張は、倭国の支配者層の間に根強く残った」(p.281)
好太王碑に、倭が百済や伽耶・新羅を臣民としたと記録したのは当然高句麗側である。
倭国側が勝手に”主張”したわけではない。
著者は日本の内戦、戦国時代の戦いなども、小規模で大したことのない物としているが(p.280)、そんな戦国時代を制した豊臣秀吉の日本軍に3週間ほどで首都を占領された李氏朝鮮の立場は・・・?。秀吉は対北条戦、九州征伐などでも20万近くの兵を動員しているが、これらの戦いも著者の言う「世界的に見て小規模な内戦」(要約, p.279)なのであろうか?
P.286「朝鮮諸国は、国外に侵攻したした経験は(元寇を除いて)歴史上全くない。ベトナム戦争は措いておく。」
なぜ元寇とベトナム戦争を除くのか?勝手に除いておいて"全くない"と断言とは呆れるしかない。上にも書いたが、他に応永の外寇もあるが、外国への侵略ではないのか?竹島への侵略は?
また著者によると、日本人が朝鮮半島を侵略する理由には、日本人のDNAに原因があるらしい(p.280)。著者は日本人の遺伝子の研究でもされているのであろうか?
なお著者は、オリンピックなどで「頑張れ日本」などの応援が不気味だそうだ。選手が「日の丸を背負って」などと言うのも気に入らないらしい(p.292)。
もちろんどう思おうが著者の勝手であるが、歴史書にわざわざ書く必要のある事なのであろうか?
「近隣諸国が、倭奴、小日本、小鬼子、という言葉を何故使い続けているか、我々日本人一人一人が真面目に考えないといけない。」(p.288)。
向こうが勝手に日本人差別・侮辱、ヘイトスピーチをしている事に、何故日本人が一人一人真面目に考えないといけないのか?
日本人が中国人や韓国人を差別・侮辱、ヘイトスピーチをしたら、中国人・韓国人は真面目に考えないといけないのだろうか?
ヘイトスピーチをする方に問題があろう。
歴史史料から、都合の良い所だけを切り取り、都合よく解釈し、都合よく結論づける、全く価値のない作為的な本である。
その中に、「日韓中の隣国が、何故、これまでに相互理解が進まないのか」とう、著者の年来の疑問を解消する目的も含まれている。
現代風には、単純に「ヘイトスピーチ」がまかり通るのは、「如何なものであるのか」と言った「抽象的な問い」でしか表現されていない対象である。
この困難な課題に対して、「従心所欲の化学者」の恣意的な判断かもしれないが、著者の倉本氏は、純粋な「歴史学」の学者の観点から、冷静な理由を求めようとしている。
私は、この著者に対して、敬意を表したい。
そして、歴史学の「額としての『心意気』」を感じ取ることができたと、感謝をしたい思いである。
著者は、日本文化研究センターの教授として、その機関の意味を十分に噛み締めている「学者」であると判断している。
殊に、この白村江の戦いに関して、壬申の乱の主人公の立場を考察する態度が、「歴史学の真髄」であると開眼させていただいたことは、この歳になって初めて人文学の学者から受けた「啓示」であるとさえ思っている。
著者は「良本」を「書きすぎる」とも思えるが、そんなことはない!
おそらく、幼少時より歴史「学」を考え続けてきたこれまでの成果が、「噴出した連作」であると判断する。
倉本氏が自信をもっって主張できる研究分野は平安初期からの「記録(日記)」である。
恩師は二人がおられるようである。その相反する恩師への尊敬の思いが、倉本氏の歴史観を形成している。
私は、このような歴史学者に初めて出会った。
国史大辞典の執筆者の一人で日本の古代史の重鎮と認める私の知り合いは、好太王碑を具に見る機会がありながら、国史大辞典史窓余話では、「駄文」しか書いていない。勿論、倉本氏はその守備範囲が、理解できる言語とともに、広い学者である。
今後の、氏の歴史学の本質に迫る著述に期待を寄せたい。
良本である。
平成30年初秋
他方、中国の史書との整合性が日本書紀よりもとれてない三国史記の記載はほぼ無条件で採用し、記載されていない事情は可能な限り想像をたくましくして補っています。そういった想像力逞しい部分はその他にも多く見受けられます。
朝鮮の王朝が基本的に日本に赴いての、つまり下手に出た外交を行っており、軍事力の支援を頻繁に求めているにもかかわらず、日本が朝鮮に優越していたという当時の考えは夜郎自大な考えであると根拠も無く断じたりしていますが、一方でその朝鮮の姿勢を「小国の外交手段」であるという主旨を言っていたりします。つまり大国に対する外交策であり、それをされた日本は朝鮮よりも大国であるとなるのですが。
実際、恵まれた気候による農産物の大きな生産力に支えられた当時の日本は、朝鮮に比して大きな人口に支えられた国であり、冶金技術はいまひとつでもそれは国力(経済力)に任せた輸入で補って回していました。行政問題になるくらい朝鮮半島からの平時の亡命者がある一方で、日本からの人口流出の問題は皆無であった訳でもあります。
また、ちょくちょく当時の視点が大事と本文中で言っているのにもかかわらず、所謂神の視点での批判も多いです。
総じて言えば、古代に対する色々な知識は並べてはあるものの、学術的な分析としては失格だと思います。
② 反面、近代に至る日本人の朝鮮半島への侵略に繋がる優越史観まで引っ張って行くのは、少し乱暴かなと感じます。その時々の日本の権力者が古代史のつまみ食いを大々的利用したのは事実でしょうが、そこを主張したいのならば、豊臣秀吉であれ、明治以降の近代天皇制国家であれ、個別の検証が必要で、感想文的に語ることではないと思います。
③ 読み終えて実感したのは、アジアの辺境に位置した日本列島の優位さです。背後は太平洋ですから、アメリカ合衆国の影響が及ぶようになる19世紀中葉以前は、外交的には、朝鮮半島・アジア大陸の方を見ていれば良い。アジア大陸と日本列島との回廊になる朝鮮半島の国家は、前門の虎と後門の狼に挟まれるのだから大変なのですね。






