僕はかつてオウムにいたことがある。カルトとオウム事件について改めて考えるのに参考になると思い購入した。ハンナ・アーレントの代表作から要点を集めて解説した本だ。
購入動機が一般の人とは異なるために、レビューも独自の物になってしまうかもしれない。オウム事件の背景を共に考えていく過程で、本書の内容を多く書き出して(ネタバレ)しまうので、それが嫌な人は読まないでほしい。
本書で全体主義として語られているのは、ほぼすべてナチス・ドイツについてだ。序盤は全体主義とは何か、どのような歴史をたどって確立されてきた概念なのかといった内容。中盤ではその具体的な内容に迫り、最後には元ナチ党幹部アイヒマンから見える、ナチスドイツの信奉者の真の姿について、詳しく分析する。
全体主義について興味がある人ばかりでなく、元オウムで脱会したのち麻原・教団・自分自身がいかにして過ちに至ったかを考え、悩んできた人にはぜひ読んで欲しい。またカルトについて興味がある人にも参考になると思う。それはナチス・ドイツが「民族主義カルト」というべき組織であったことが、本書から想像されるからだ。元オウムの人に薦めたいのは、特に全体主義の具体的な内容について、オウムに例えて考えていくことである。考え悩んできた人ほど、心当たりのあることにいくつも突き当たると思う。ここではカルトによるテロ行為を予防するために重要と思われるところに焦点を当てたい。
アイヒマンはユダヤ人の大量殺戮(ホロコースト)に、ナチ党幹部として関わった官僚である。アーレントは、その理由を法と秩序(上司の命令)を重んじたからだと分析する。本来これは社会を維持するために必要な態度であり、一般的な市民の取るべき態度である。そのためアーレントは、悪は特殊なものではないと結論付けざるを得なかった。これは逆にどのような組織・リーダーの元に集うかによって、誰でもアイヒマンになり得ることを意味している。
僕は法を理解し、自発的・自律的にホロコーストに関与したと主張するアイヒマンの横顔に、地下鉄サリン事件実行犯の一人、広瀬健一を見る思いがした。彼は「悔悟 オウム真理教元信徒・広瀬健一の手記」で、オウム事件の裁判の中で一部の容疑者(当時)を「思考停止」で犯行に及んだと弁護していたことに異論を唱えている。オウムではタントラヴァジラヤーナの教えが説かれていて、違法行為はこれに基づいて行われた「ヴァジラヤーナの救済」とされていた、したがって各容疑者はその教えを理解したうえで実行していたので「思考停止」していなかったというのである。容疑者たちは教えを理解し、行為の目的を理解したうえで実行したという。僕はこれについては人によって理解や態度に違いがあって当たり前だと思っているから、完全に肯定するつもりはない。
これらの悪意を動機としない「悪」にはナチスでの昇進やオウムのヴァジラヤーナによる解脱という別の動機があり、どちらにも法(教え)と上司の指示(グルの指示)という社会秩序(教団内での秩序)を重んじる忠実な態度がある。これについてアーレントは「彼は自分が何をしているのか、分かっていなかっただけなのだ。」という。彼らは確かに考えてはいた。しかしアーレントはこの思考の背景には「無思想性」があるという。ここでの思想とは哲学的思考であり、自分だけでなく複数の人の立場を経験し、複眼的に考えなければ得られないという。他者を意識しない「複数性」を伴わない思考は、数学の問題を解くようなものだとしている。職務上の課題という問題を解こうと真面目に努力していたが、それがどの様なことなのかを考えていなかったということなのだろう。
このような複数性を喪失させたものは「絶対的」という価値観である。ナチスはユダヤ人を「絶対悪」と考えていたし、オウムでは麻原を「絶対善」と考えた。このように一方の極を設定し、「極悪」なるもの対その他、あるいは「極善」なるもの対その他といった、善悪の二元論的な思考に狭窄されてしまうことで、対象が程度や数字の問題のように認識され、哲学的性質と多元性すなわち「複数性」が失われたのである。それによって自分の職務上の課題をこなすことが、どのような意味を持ち、結果をもたらすのか、分かりやすく言えば、人々に苦悩をもたらし、社会に影響を与えるのか、リアルに自分を離れた目線で見ることが出来なかったのだろう。
アーレントの言うことは、オウム裁判が始まって以降の容疑者であった弟子たちの変化を見れば、正しいと実感できる。多くの弟子たちは公判中、他者である被害者に直面した時に、自分たちの過ちに気付いたからだ。この時初めて自分を離れ、法・指示・社会秩序を離れ、一個の人間としての性質に立ち返ったのかもしれない。地獄の恐ろしさとグルへの帰依をリンクさせられ、グルを絶対視しているうちは、二元論的思考を離れることが出来ずに、過ちを受け入れられなかった。
広瀬は地下鉄サリン事件のとき、最初に乗った車両に女子高生がいることに気付いて思わず車両を乗り換えている。このわずかな時間、自分が危害を加えようとしているのが数や程度で表されるようなものではなく、人格や属性その他の特徴を有する自分と同じ人間であることに気付いていた。だからとっさに別の車両に乗り換えたのだ。しかし彼はそのときには既に後戻りできなくなっていた。
このような極端な思想が生まれるために、本書の前半で語られる「世界観」がいかに重要な役割を果たしているかが分かる。ナチスには反ユダヤ主義、オウムには輪廻があった。その世界観が思想を極端に向かわせるためには民衆、信徒に不安感をもたらす理論がなければならない。それが陰謀論であり、地獄の存在と終末論だった。誰も知らない「真実」を自分たちだけが知っている。それに向けて具体的な活動を起こしているのは自分たちだけだと思ったとき、自分たちには特別な使命があるのでないかと「信じたくなった」のだ。その思い込み・自負・正義感などの感情が強ければ強いほど、活動に積極的に関わっていった。
これらの反ユダヤ主義・陰謀論・終末論などは、具体的な根拠がないにもかかわらず、不安を感じながら生活している人々にとって、分かりやすく受け入れやすい。著者はこのような分かりやすすぎる話には気を付けろと警鐘を鳴らしている。ナチス親衛隊や麻原を始めとする実行犯たちは、その確信のために自分たちは正義だと思い込み活動を過激化した。それは外部から見れば明らかな暴走であり、身勝手な行為である。
現実は複雑で簡単には解決できない。正義か悪かなどモノトーンで表現できる世界でもない。だから生き続ける限り僕たちは、複数性を受け入れるために考え続けなければならない。
本書の終盤で、権威者の指示が人の道徳観による抑制にいかなる影響をもたらすかを試した「ミルグラム実験」について語られている。オウム事件の中に、男性信者をスパイと疑ったことから起きた「男性信者リンチ殺害事件」というのがあるが、裁判の証言で詳細が明らかになっていて、事件そのものがミルグラム実験に近い状況であることから、その正しさをよく示していると思う。逃げることのできない隔離された世界では、権威者がいかに大きな影響力を持ちうるのかをよく示している。
オウムを振り返って思うことは、複数性、他者を意識しないものに真の利他心などあり得るだろうか、それが救済になり得えたのかということだ。仮に信徒が考えていたように、グルには利他心があると仮定したとしても、弟子の思考から複数性を失わせ、他者に対して盲目にさせたならば利他心は育まれない。弟子を成長させないとしたならば、グルとは言えないだろう。
さらに考えるならば、善悪の二元論だったオウムのタントラヴァジラヤーナは、一般的な仏教と比較して高度だったと言えるだろうか。また自分は地獄に転生したとしても、他の魂を「真理」と縁付ける、または少しでも高い世界に転生させるという自己犠牲を説いていたが、自分が経験していない輪廻はあくまでも想像に過ぎない。想像の世界での自己犠牲を本当の自己犠牲と言えるのだろうか。本当の菩薩の心と言えるのだろうか。
当時の僕は考えていたようで何も考えていなかった。仮にオウムの教義を科学的に証明できる範囲で残すとしたならば、それは僅かではないかと思う。今にして思えば、小さな視野の中で想定された世界観で考えていたことは、映画やアニメの構想を練るのと意味合いとしてはあまり変わらなかったのではないか。麻原の言うことを信じ、思考したとしても現実に即していると証明できない以上、それを本気で「考えていた」とは僕にはとても言えない。的確な言葉を探すならば、僕たちは「考えていた」のではなく、「想像していた」だけなのだということである。そのためのツールが三界と六道で形成されていたオウムの世界観であり、教えであり、予言だったのだと思う。
いまは情けなくもあり、もたらした結果にただ立ち尽くすばかりである。
※本書の趣旨から外れたレビューになっていることをご容赦ください。
悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書 549) (日本語) 新書 – 2018/4/6
仲正 昌樹
(著)
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本の長さ224ページ
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言語日本語
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出版社NHK出版
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発売日2018/4/6
-
ISBN-104140885491
-
ISBN-13978-4140885499
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
世界を席巻する排外主義的思潮や強権的政治手法といかに向き合うべきか?ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組んだハンナ・アーレントの著作がヒントになる。トランプ政権下でベストセラーになった『全体主義の起源』、アーレント批判を巻き起こした問題の書『エルサレムのアイヒマン』を読み、疑似宗教的世界観に呑み込まれない思考法を解き明かす。
著者について
■仲正昌樹(なかまさ・まさき)
1963年、広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学類教授。専門は法哲学、政治思想史、ドイツ文学。近年は演劇などを通じて現代思想の紹介にも取り組んでいる。
1963年、広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学類教授。専門は法哲学、政治思想史、ドイツ文学。近年は演劇などを通じて現代思想の紹介にも取り組んでいる。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
仲正/昌樹
1963年、広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。金沢大学法学類教授。専門は法哲学、政治思想史、ドイツ文学。演劇などを通じて現代思想の紹介にも取り組む(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1963年、広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。金沢大学法学類教授。専門は法哲学、政治思想史、ドイツ文学。演劇などを通じて現代思想の紹介にも取り組む(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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2018年8月3日に日本でレビュー済み
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この本はアーレントの『全体主義の起原』と『エルサレムのアイヒマン』の解説書です。とても読みやすい本でした。
序章は「『全体主義の起原』はなぜ難しいのか?」です。ユダヤ人として生まれ、逮捕や亡命を経験しながら思索を深めていったアーレントの生涯について説明されていました。「全体主義」という言葉の意味が国と時代によって異なっていることは興味深かったです。
第1章は「ユダヤ人という「内なる異分子」」です。『全体主義の起原』第一巻が扱われます。19世紀に生まれや文化的アイデンティティを共有する人々の集まりである国民国家が形成され、国内にいるユダヤ人が「異分子」として排除されるようになったことが説明されていました。
第2章は「「人種思想」は帝国主義から生まれた」です。『全体主義の起原』第二巻が扱われます。国民国家から帝国主義が展開され、その後で全体主義が誕生したことが説明されていました。
第3章は「大衆は「世界観」を欲望する」です。『全体主義の起原』第三巻が扱われます。何が自分にとっての利益なのかわからない大衆が、ナチズムが提示した「安心してすがることのできる世界観」に飛び付いたことが説明されていました。全体主義に陥らないよう、多様なものの見方をすることの重要性も力説されていました。
第4章は「「凡庸」な悪の正体」です。『エルサレムのアイヒマン』が扱われます。凡人であるアイヒマンが、上司や法律に徹底服従してユダヤ人を大量虐殺したことが説明されていました。組織に盲目的に服従したアイヒマンのようにならないために、哲学的に思考することの重要性が力説されていました。
終章は「「人間」であるために」です。様々な「活動」を通して多様なものの見方を身に付けることの重要性が再説されていました。
仲正氏はこの本で、全体主義に抗うためにアーレントのいう「複数性」を身に付けることが大切であると考えておられます。自分と異なるものの見方をしている人と説得し合い、多元的なパースペクティヴを獲得することの大切さががわかる一冊でした。
序章は「『全体主義の起原』はなぜ難しいのか?」です。ユダヤ人として生まれ、逮捕や亡命を経験しながら思索を深めていったアーレントの生涯について説明されていました。「全体主義」という言葉の意味が国と時代によって異なっていることは興味深かったです。
第1章は「ユダヤ人という「内なる異分子」」です。『全体主義の起原』第一巻が扱われます。19世紀に生まれや文化的アイデンティティを共有する人々の集まりである国民国家が形成され、国内にいるユダヤ人が「異分子」として排除されるようになったことが説明されていました。
第2章は「「人種思想」は帝国主義から生まれた」です。『全体主義の起原』第二巻が扱われます。国民国家から帝国主義が展開され、その後で全体主義が誕生したことが説明されていました。
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第4章は「「凡庸」な悪の正体」です。『エルサレムのアイヒマン』が扱われます。凡人であるアイヒマンが、上司や法律に徹底服従してユダヤ人を大量虐殺したことが説明されていました。組織に盲目的に服従したアイヒマンのようにならないために、哲学的に思考することの重要性が力説されていました。
終章は「「人間」であるために」です。様々な「活動」を通して多様なものの見方を身に付けることの重要性が再説されていました。
仲正氏はこの本で、全体主義に抗うためにアーレントのいう「複数性」を身に付けることが大切であると考えておられます。自分と異なるものの見方をしている人と説得し合い、多元的なパースペクティヴを獲得することの大切さががわかる一冊でした。
2020年9月21日に日本でレビュー済み
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NHK Eテレ「100分de名著」ハンナ・アーレント「全体主義の起源」2017/9のテキストを再構築した新書。
元ネタの本(ハンナ・アーレント「全体主義の起源」)を購入しようと思ったのですが、とても高価で、長大なことがわかり、先ずは本書を読むことにしました。
読みやすく、ほどよいボリュームでした。
テレビ番組の通り、元ネタの本の解説が含まれており、概略を理解した気分になれました。
「市民」と「大衆」を対比させて、違いを解説た箇所は、特にわかりやすく納得がいきました。
「第4章[凡庸]な悪の正体」は番組の内容を発展させて同じ著者(アーレント)の「エルサレムのアイヒマン」の解説を加えています。
特に考える事が多い章でした。
テレビニュースで事件の報道に接した際に、
「犯人は僕とは違う特殊な人」と自分が認識している、と気付きました。
「あるいは、普通の人が何かの切っ掛けで起こした犯罪かも」
と言う見方に気がついていないことがわかりました。
終章「人間」であるために
は、全体を総括して、今の我々に必用な学びや行動はなにか。を考察しています。
元ネタの本(ハンナ・アーレント「全体主義の起源」)を購入しようと思ったのですが、とても高価で、長大なことがわかり、先ずは本書を読むことにしました。
読みやすく、ほどよいボリュームでした。
テレビ番組の通り、元ネタの本の解説が含まれており、概略を理解した気分になれました。
「市民」と「大衆」を対比させて、違いを解説た箇所は、特にわかりやすく納得がいきました。
「第4章[凡庸]な悪の正体」は番組の内容を発展させて同じ著者(アーレント)の「エルサレムのアイヒマン」の解説を加えています。
特に考える事が多い章でした。
テレビニュースで事件の報道に接した際に、
「犯人は僕とは違う特殊な人」と自分が認識している、と気付きました。
「あるいは、普通の人が何かの切っ掛けで起こした犯罪かも」
と言う見方に気がついていないことがわかりました。
終章「人間」であるために
は、全体を総括して、今の我々に必用な学びや行動はなにか。を考察しています。
2019年5月3日に日本でレビュー済み
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以下の実験結果は重要事項。
・ミルグラム実験 アイヒマン裁判の翌一九六二年、アメリカのイェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラムがアイヒマンらナチス戦犯の心理に興味をもって試した実験。アイヒマン実験ともいう。ドイツ人は特殊だと考えていたアメリカ人にも同じ傾向が認められたという。
・スタンフォード監獄実験 一九七一年、アメリカのスタンフォード大学の心理学者フィリップ・ジンバルドーが行った実験。一般人二十一人を看守役十一人と囚人役十人に分け、刑務所に似せた施設で生活させる。被験者は役割に合わせて行動しはじめるが、度を超して暴力が行われるようになったため、二週間の予定が六日間で中止された。
・ミルグラム実験 アイヒマン裁判の翌一九六二年、アメリカのイェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラムがアイヒマンらナチス戦犯の心理に興味をもって試した実験。アイヒマン実験ともいう。ドイツ人は特殊だと考えていたアメリカ人にも同じ傾向が認められたという。
・スタンフォード監獄実験 一九七一年、アメリカのスタンフォード大学の心理学者フィリップ・ジンバルドーが行った実験。一般人二十一人を看守役十一人と囚人役十人に分け、刑務所に似せた施設で生活させる。被験者は役割に合わせて行動しはじめるが、度を超して暴力が行われるようになったため、二週間の予定が六日間で中止された。
2021年2月20日に日本でレビュー済み
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全体主義というとものものしく、恐ろしい印象が先立つ。しかしその起源はというと、身近な人々の振る舞いから端を発することが本書からわかる。アーレントによる『全体主義の起源』三巻分と『エルサレムのアイヒマン』の解説が分かりやすく綴られる。分かりやすいと言っても原著よりはというニュアンスである。本書は分かりやすいものには鵜呑みにするのではなく、注意しながら対峙することを求めている。つまり全体主義では個人個人の思考力が奪われ、分かりやすいものに飛びつきやすくなる傾向があるという。この本も入口という位置付けで読んだ方がいいのだろう。ただ、著者も認めるように原著は難解で、しかも文字が小さくて読みにくい(ダブルで挫折した)。本書の理路整然とした流れに積年の「怨み?!」が実にスッキリ晴れた思いである。
全体主義体制が為政者側の要因だけでなく、市民側にも要因があるというのは、体制側を批判するばかりではいけないということが分かる。思考をしない、分かりやすさを求める、複雑なものを忌避する、そういう姿勢は全体主義に陥りやすいという。さらに他者との対話が減り、個人の中で結論を出していく姿勢、他者と議論する機会が減った状態、というのも全体主義になりやすいようだ。特に意外だったのは、他者との対話なしに他者に共感する姿勢が、全体主義に陥る危険があるということ。アーレントは言葉によって他者を理解することが必要だという。日本には以心伝心とか空気を読むとか、言葉を介さないで他者を理解する社会がある。おそらく他者の苦しみや悩みに対しては思いをいたす、共感するということがあっていいと思う(感情面)が、命に直結するような問題や政治的社会的な問題では空気感だけで判断するのは危ない(思考面・思想面)、というのだろう。アーレントのいう共感への警句はそのようにとらえたがどうだろうか。
コロナ禍で人と会える機会が減り、SNSによる簡便なやりとりが増え、
アイヒマンはユダヤ人の大量虐殺に加担したが、当の本人は政府(ナチス)の法律に則って行動したまでだという。その帰結がどうあれ法律は守っていたのである。犯罪とは法に背くから犯罪なのであって、法に従っていたのに、そのことはどう解釈されるのかという問題提起がある。法の支配とは現代社会で尊重されるものだが、法を定めたおおもとに問題があれば、その法も不確かでさらには危険なものにすらなる。いや、そういうことは分かりそうなことだが、アーレントが議題とするアイヒマンの法への従順な振る舞いは、一考しなければならないのだろう。ナチスの政府内を支配していた空気。大量虐殺がその先にあるというのに、それを分かっていても、法に従って自らの仕事を全うした。後世のミルグラムの実験で悪意のない人々がある規則の中では相当残虐になりうる、という結果は、誰もがアイヒマンのようになりうることを示しているのである。
本書を通して非常に貴重な知見が得られた。社会の中の規則や慣習、もっと狭い範囲で会社の中であっても、強固な規則によって日常では考えられないようなことをしでかすかもしれない。それが日常であり正常だと思っていても、外部から見つめたり、別の時代から見れば、とんでもない状況なのかもしれない。その状況では広い視野を保てず、規則に従ってしまうのではないか。恐ろしいことである。
じゃあ、人はどう振る舞えばいいのか。本書はそこのところもしっかり答えてくれる。ここでは言い過ぎになるので、控えておく。アーレントへの批判的な世論、その中でのアーレントは、徹底的に哲学しようとした姿勢を感じる。ホロコーストという絶対的な悪を前にしても、冷静な哲学を志向し、人間の弱点を見出だそうとした。アーレント哲学がまとまっていて、入口としては充分過ぎる内容であった。
全体主義体制が為政者側の要因だけでなく、市民側にも要因があるというのは、体制側を批判するばかりではいけないということが分かる。思考をしない、分かりやすさを求める、複雑なものを忌避する、そういう姿勢は全体主義に陥りやすいという。さらに他者との対話が減り、個人の中で結論を出していく姿勢、他者と議論する機会が減った状態、というのも全体主義になりやすいようだ。特に意外だったのは、他者との対話なしに他者に共感する姿勢が、全体主義に陥る危険があるということ。アーレントは言葉によって他者を理解することが必要だという。日本には以心伝心とか空気を読むとか、言葉を介さないで他者を理解する社会がある。おそらく他者の苦しみや悩みに対しては思いをいたす、共感するということがあっていいと思う(感情面)が、命に直結するような問題や政治的社会的な問題では空気感だけで判断するのは危ない(思考面・思想面)、というのだろう。アーレントのいう共感への警句はそのようにとらえたがどうだろうか。
コロナ禍で人と会える機会が減り、SNSによる簡便なやりとりが増え、
アイヒマンはユダヤ人の大量虐殺に加担したが、当の本人は政府(ナチス)の法律に則って行動したまでだという。その帰結がどうあれ法律は守っていたのである。犯罪とは法に背くから犯罪なのであって、法に従っていたのに、そのことはどう解釈されるのかという問題提起がある。法の支配とは現代社会で尊重されるものだが、法を定めたおおもとに問題があれば、その法も不確かでさらには危険なものにすらなる。いや、そういうことは分かりそうなことだが、アーレントが議題とするアイヒマンの法への従順な振る舞いは、一考しなければならないのだろう。ナチスの政府内を支配していた空気。大量虐殺がその先にあるというのに、それを分かっていても、法に従って自らの仕事を全うした。後世のミルグラムの実験で悪意のない人々がある規則の中では相当残虐になりうる、という結果は、誰もがアイヒマンのようになりうることを示しているのである。
本書を通して非常に貴重な知見が得られた。社会の中の規則や慣習、もっと狭い範囲で会社の中であっても、強固な規則によって日常では考えられないようなことをしでかすかもしれない。それが日常であり正常だと思っていても、外部から見つめたり、別の時代から見れば、とんでもない状況なのかもしれない。その状況では広い視野を保てず、規則に従ってしまうのではないか。恐ろしいことである。
じゃあ、人はどう振る舞えばいいのか。本書はそこのところもしっかり答えてくれる。ここでは言い過ぎになるので、控えておく。アーレントへの批判的な世論、その中でのアーレントは、徹底的に哲学しようとした姿勢を感じる。ホロコーストという絶対的な悪を前にしても、冷静な哲学を志向し、人間の弱点を見出だそうとした。アーレント哲学がまとまっていて、入口としては充分過ぎる内容であった。