北の方で生まれ育った自分のような者にとって、幼い頃より畏敬し畏怖するよう教えられた神聖なる地、日本一の霊場 『恐山』。
死ぬまでに一度は行きたい、とは思いつつも信心深かった祖母の「・・あそこは特別な場所だから(矢鱈めたらに行ってはいけない)」という言葉が耳にこだまし、未だに決意がつかないのでまずは本書を購入。
お坊様のお話らしくまずは易しく恐山開山の歴史から、有名な恐山のイタコの話、どのような経緯で南師が永平寺から恐山菩提寺院代に就任したのか語られ、時折冗談も交えながら徐々に抜き差しならぬ「生と死」を巡る禅問答へと突入していく・・・と、までは予想どおりの展開でした。そこまでならば「恐山」入門、あるいは良くまとまったオカルトバイアス無しの「死者の実在」を前提とした恐山の弔いの機能を哲学的に解説する良書の一冊として完結する筈だった。
が、意図せずこの書を魁偉たらしめてしまったのはあの3.11の発生。
ほぼ完成していたこの書の最後に書き加えられた3.11直後の「無常に生きる人々、あとがきに代えて」の著者の迫真の筆致は凄絶。
もうギアが違う。
3.11にて不在となった幾万もの死者の魂を一気にこの地に漁(すなど)らんばかりに嘆く僧侶の咆哮があの恐山の絶景にあまねく響き渡る光景が目に浮かぶ様だ。
原理主義者、と言われるほど他人にも自分にも厳しい怖いお坊様らしいですが、やはりとても優しい方なんだろうと思いました。
このような方が恐山の死者の守人に導かれるとはまさしくご仏縁。(ご本人は否定するかもしれませんが)
「あとがきに代えて」にて、筆者は今後この国は膨大に発生する死者を抱え込み、その死者はもはや誰にも欲望されない死者になるのでは、と危惧しているが、今や恐ろしいことに正鵠を射てしまっている。
死者が欲望されないというより、生者すらも欲望されていない。
幼き子は親に虐げられ、老いた親は子に虐げられ、人々は皆孤独、”無縁”状態を呈し、自分一人で手いっぱいで誰もが余裕が無い。家族ですらも、もう崩壊しているかもしれない。
価値なきモノを価値あるモノと見せかけて交換を行い利益を得るのが市場原理であるのなら、市場原理の商品として価値なきモノとされた人々はこの穢土での存在価値を否定され続ける。
だけど、希望が全く無い、というわけでもないとは思う。
価値あるモノが交換されるのではなく、交換されるから価値があるモノもあり、太古の昔から人はそれらを尊いモノ、聖なるモノとして大切に守ってきた歴史も又あるのではないか。
人と人が無私無償で交換してきたモノ。
不遜を承知で言わせて頂くと、愛情とか、友情とか、思いやりとか、絆とか、誰かが誰かを思慕し恋する優しい思いは人と人との間で交換されて初めて現出する価値ではないか。
ましてや、「死者」は。
その無償のやさしさの交換の場である「恐山」は早々滅びることは無いと思う。
逆を言うと、人が「恐山」を必要としなくなった時、人はもう人では無いモノになり果てているのではないだろうか?
恐山の担う使命は今も昔もこれからも、大きい。
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