広岡浅子は幕末、豪商であった三井家の四女として生を受けた。
幼年時から活発であり、男の子と遊んだり相撲を取ったりするような女の子だった。
が、「女の子は家を守り子供を産み育てるもの」という価値観が一般的な日本の社会では浅子は異端だった。
婚約者である大坂の豪商・加賀屋の次男・信五郎に17歳で嫁いだ。
結婚しても浅子の活発さは収まらず、事業を従業員任せには出来ず自ら率先して事業について学ぼうとした。
大らかな夫は趣味の世界に生きており、浅子にも煩く言うようなこともなく自由にさせてくれた。
しかし、時代はペリー来航から始まる幕末期に当たり、日本は攘夷と開国の間で大きく揺らいでいた。
加賀屋は日本中の大名家にお金を貸しており、幕藩体制が消滅してしまうと貸していたお金を回収できなくなる危険があり、浅子もそれを危惧していた。
やがて幕府は消滅し、天子様の下で明治新政府が成立する。
そこから、予想していた通りに藩が県に置き換えられてこれまで大名家に貸していた借金が返さなくてもよくなってしまう。浅子は自らお金を貸していた旧大名家を回り督促した。
「女のくせに」と侮りを受けることがしょっちゅうあった中でも、浅子は持ち前の度胸と覚悟で一歩も引かず、借金を回収することで加賀屋は何とか倒産を免れることが出来た。
危機を乗り越えた加賀屋だが、明治という新しい世では両替屋は成り立たず、新しい分野に乗り出していかなければならなくなる。浅子が目を付けたのは新時代のエネルギーとして需要が見込まれる「石炭」だった。
しかし、炭鉱は海外輸出をしようにも価格の不安定さや輸送費用のコスト高などの逆風を受けてなかなか事業として成り立たなかった。流石の浅子も一時撤退を余儀なくされる。
しかし、別の事業が安定して加賀屋に余裕が出てくると浅子のリベンジ精神が頭をもたげてくる。浅子は自ら炭鉱の現場を回って石炭を掘る人工たちと話し合いをし、当初は「お嬢様」と侮られながらもそこはやはり一歩も引かぬ覚悟がやがて人工たちにも伝わり、また折からの石炭の需要に対して年々供給量が増えたことも重なってようやく事業化に成功した。
ある程度事業の目途が付き、お金に困らなくなった浅子が次に取り組んだのは「女子教育」だった。
浅子自身が女性で幼い頃から「女に学問は不要」という固定観念に苦しめられてきた過去があった。
だからこそ、人一倍婦女子の教育には力を傾けて政治家や有志の投資家を回って金策をし、学校を建てさせた。
それと同じくして取り組んだのが「生命保険事業」である。浅子は幕末から戦争を身近に感じており、その戦争のせいで多くの人間の運命が変わっていく様を感じていた。
「戦争で大切な人を失って残された人たちの助けになりたい」
生命保険事業は大きな志を以ってスタートしたが、法律の改正や保険会社の乱立を合併するなどして乗り越えて事業化に成功した。
彼女の根幹にあったのは「商人は世間の方々に役立つ事業を成す」ということだろう。
個人的な損得などはさして拘らず、現場を常に意識して自ら率先して陣頭に立っていた彼女には時代の移り変わりに対しても素早く対応することが出来、またそんな浅子の周囲には常に支援者が多くいてくれた。
「九回転んでも十回起き上がる」。人生は予想の付かない困難の連続であるかもしれなかった。
遺したものは「多額の財産」ではなく、後世に受け継がれた人材であり、志であったことを私たちは忘れてはならないだろう。1919年没。享年71歳であった。
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