良書だと思います。
子どもの貧困に関する最新のデータが整理されています。データブックとしても活用できます。
入門書としても非常に読みやすいと思うのですが、類書を読んで、この問題についての知識を持っていた私にとっても、気づいていなかった盲点や、疑問点がかなり解決できました。何気なく見ていた統計データも、著者の解説によれば、生き生きしてくる。あっと思ったことが何か所もありました。これが筆者の真骨頂なのでしょうか。
筆者は、貧困問題のエキスパートでもありながら、社会活動家としても活躍している。忙しい中でよくこの本を著してくれたなと感心します。
類書に書かれていたと思うのですが、残されている時間は少ないのだと思うのですが、行政や政治的な動きはまだまだですね。筆者が言うように危機感ないんですよ、結局。
子どもに貧困を押しつける国・日本 (光文社新書) (日本語) 新書 – 2014/10/15
山野 良一
(著)
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本の長さ284ページ
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言語日本語
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出版社光文社
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発売日2014/10/15
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寸法18.2 x 11.3 x 2 cm
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ISBN-104334038212
-
ISBN-13978-4334038212
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
2014年7月、厚生労働省より発表された「子どもの貧困率」は16.3%。過去最悪の数字を更新した。保育や幼児教育への政府支出は「未来への投資効率が高い」とされる世界のトレンドに反して、日本の福祉は相変わらず低空飛行を続けている。そこには、日本特有の社会意識と、それを温存し利用しようとする政府の思惑が絡み合っていた。前作『子どもの最貧国・日本』に続き、福祉の新たな視座と解決策を探る。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
山野/良一
1960年北九州市生まれ。北海道大学経済学部卒業後、神奈川県庁に入庁し児童相談所勤務(児童福祉司)。2005年から2007年にかけて、米国ワシントン大学修士課程に在籍し、児童保護局などでインターンとして働く。ソーシャルワーク修士(MSW)。2010年、数人のメンバーとともに「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワークを設立し、現在は世話人。千葉明徳短期大学保育創造学科教授なども務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1960年北九州市生まれ。北海道大学経済学部卒業後、神奈川県庁に入庁し児童相談所勤務(児童福祉司)。2005年から2007年にかけて、米国ワシントン大学修士課程に在籍し、児童保護局などでインターンとして働く。ソーシャルワーク修士(MSW)。2010年、数人のメンバーとともに「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワークを設立し、現在は世話人。千葉明徳短期大学保育創造学科教授なども務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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カスタマーレビュー
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2018年7月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
非常にいい。こういう本を読んで、日本の将来を考えるべきだ。ただ、悲しいことに、政治家も、多くの国民もこうした本を読まない。北朝鮮が云々と言う前に、日本は貧困でだめになってしまう。国防、国防と言うが、国民がどんどん減る国で、誰が誰を守るのか。国民を貧乏にして、誰の富を守るために、誰が死ぬのか。「産まない女は」などと暴言を吐いても辞めなくていい政治家。「産めない国」を作った政治家は自己責任は問われない。憲法に言う民主主義の「民」には、1億人の貧乏人は入らないのか。
2015年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
NHKで日本の子どもの貧困特集をやってるのを見て、日本の子どもの貧困についての現状や知識をもっと知りたいと思い購入しました。
本書は日本の子供の貧困問題に関して、他の先進国の貧困率や支援の在り方を比較しながら、日本の問題点を述べています。
この本を一冊読むことで、日本の子供の貧困問題の問題、親御さんの抱えてる問題、日本で子供の貧困率が高い理由など、子供の貧困に対する多くの視点を与えてくれます。
買って正解でした。
自分に何が出来るのか考えて、行動して行きたいです。
本書は日本の子供の貧困問題に関して、他の先進国の貧困率や支援の在り方を比較しながら、日本の問題点を述べています。
この本を一冊読むことで、日本の子供の貧困問題の問題、親御さんの抱えてる問題、日本で子供の貧困率が高い理由など、子供の貧困に対する多くの視点を与えてくれます。
買って正解でした。
自分に何が出来るのか考えて、行動して行きたいです。
2014年12月15日に日本でレビュー済み
子どもの貧困問題について
「それは親の努力のたりなさ」と切り捨てることは
「ジコチュー」ならぬ「カゾクチュー」の人々のせい。
本書は子どもの貧困率とはどうやって計算されるのか?
さらに日本の「幼児期」と「大学」の費用の高さ
そして、社会保障費において「子ども」と「若者」への配分の低さが
次々と明かされていきます。
「米百俵」の美談は小泉首相のパホーマンスに利用されただけでおわってしまいました。
明日の日本のために、今こそきちんと子どもの貧困へきちんと向かい合う必要がありるというのが
とても良く判った本でした。
「それは親の努力のたりなさ」と切り捨てることは
「ジコチュー」ならぬ「カゾクチュー」の人々のせい。
本書は子どもの貧困率とはどうやって計算されるのか?
さらに日本の「幼児期」と「大学」の費用の高さ
そして、社会保障費において「子ども」と「若者」への配分の低さが
次々と明かされていきます。
「米百俵」の美談は小泉首相のパホーマンスに利用されただけでおわってしまいました。
明日の日本のために、今こそきちんと子どもの貧困へきちんと向かい合う必要がありるというのが
とても良く判った本でした。
2018年4月12日に日本でレビュー済み
本書は前著『
子どもの最貧国・日本 (光文社新書)
』の出版後、国内での当問題に関する現場の視点や当事者の心情を汲み、また講演での聴衆からの質問や疑問にも応える形を目指した内容のようだが、そのごく一部で問題意識がずれていると考えられるので、そこを指摘させて頂きたい。それは第4章の冒頭近く、相対的貧困に言及する中で、消費社会・文化との関係性への言及に前後した件についてだ。その後すぐ「社会のあり方と子どもたちのしんどさ」の節で、まともな問題意識に戻るだけに、勿体ないことである。
価値観の多様性に鑑みるなら、人間個人が自発的に、人気や流行を基準にした、特定の価値観への同調を望むことなど、稲光の前に雷鳴が轟くような話だ。消費社会での流行に付き合わないというだけで、それを苛めや差別の口実にするというのも、価値観の多様性を理解できぬが故の、同調圧力を嵩に着た悪意のせいであって、順応によって身を守る対処をしたところで、何の解決にもならないはずだ。またそうしなければ孤立するようなら、人間関係そのものも不毛でしかない。誰しも人の好みは尊重されねばならないが、その好みも同調圧力を後ろ盾にしているとなれば、社会に迷惑をかける結果しか生まない。
年少者だけを囲い込み同調圧力を押し付ける、消費社会・文化のあり方それ自体の是非については、問わなくてよいとでも言うのか。現代の日本において、消費社会・文化が「消費を牽引するのは若者」との固定観念で動くのはなぜかと言えば、供給者本位の立場を取る限り、規格品の大量生産・販売でこそ、利益を上げるには効率がよい訳だが、以前拙稿で評した『 団塊の世代「最高の十年」が始まる 』によれば、その対象が高齢者では経験も好みも社会的地位も収入も様々なため、それがやりにくいだけだ。他方、年少者が対象なら経験や社会的地位の差が少ないので、やりやすいということだ。その傾向が強まった当時は、若者の数が多かった上、大都市に集中し情報発信力でも勝っていたかもしれないが、今は少子高齢化により状況は一変している。しかも、年少者同士の間でも「収入の差」に相当する相対的貧困が存在するということは、年少者しか相手にしない商慣行それ自体に、全く名分が立たないことになる。にもかかわらず、供給者偏重の経済構造に胡座をかき、上記の固定観念を追認したのは、明らかに開発努力の不足と販売意欲の欠如よりなる供給者自身の怠慢といえる、と前掲書は指摘していた。むしろ、ああいう商慣行については「国民をいかに扱うか」に関する社会的要請に応じるだけのものとも取れなくもない。その社会的要請とはすなわち「娯楽の提供先をガキに絞って、世代ごとに嗜好を画一化させることを通じて各個人の自我は骨抜きにしてやらなけりゃ、大人の国民を社畜として、趣味に興じる暇もないほどこき使うことが出来なくなるだろうが」という、一貫して財界の都合にだけ応じる趣旨なのだろう。
マークス寿子氏の著書『 大人の国イギリスと子どもの国日本 』も参考にして述べるなら、何より年少者を文化消費者に位置付けることの最大の弊害は、新しいものだけを供給し、しかも短期間で乗り換える傾向にも合致させることから、文化そのものの成熟を妨げ、ひいては日本社会の文化度をも貶めるということだ。だから消費社会との関係性について云えば、まず文化消費に関連した商売に対し、年少者しか相手にしないこと自体が有害無益と悟らせ、そうしたスタンスを根本から悔い改めさせることでしか、解決は図れないはずだ。
従って適応を促すアプローチをとるという発想自体が、本末転倒という他ない。むしろ相対的貧困の問題については、前著で触れていた「相対的所得仮説」に基づいて論じるべきかと思われる。即ち戦後復興期から高度成長期にかけては有効だった、全体の所得さえ上げればよしとする経済政策をその後も継続したが為に、所得格差の固定と拡大しかもたらさぬことで惹起された問題といえよう。ちなみに、誰とは言わないが「経済成長が全てを解決する」なる言説を唱える論者などは、この「相対的所得仮説」に配慮する意義も、そして何より資本主義そのものの不完全性や限界についても、まるでわかっていないと考えられる。先の「供給者本位」にしても、従前の経済政策とともに継続されたシステムであることは確かだ。だからこそ、年少者しか相手にしない消費社会・文化にしても、こうした経済構造もろとも打破せねばならないはずだ。
なお、この件は「昔の方が経済的に苦しい子どもたちが多かったのでは」「発展途上国の子どもたちの生活に比べたら、日本の貧困は大したことないのでは」等、絶対的貧困との比較に関連した疑問を受けて言及されたことだが、本来ならばそうした疑問自体を『 貧困の光景 』への拙稿で言及したように「犠牲の累進性」として、批判できなければならない。既に行き詰まって久しい資本主義の強引な延命から、先進国と貧困国の経済格差が、概して国家内部でのそれに取って代わられたという現状に鑑みても、そうした比較自体が無意味と、わからせるべきであったろう。
価値観の多様性に鑑みるなら、人間個人が自発的に、人気や流行を基準にした、特定の価値観への同調を望むことなど、稲光の前に雷鳴が轟くような話だ。消費社会での流行に付き合わないというだけで、それを苛めや差別の口実にするというのも、価値観の多様性を理解できぬが故の、同調圧力を嵩に着た悪意のせいであって、順応によって身を守る対処をしたところで、何の解決にもならないはずだ。またそうしなければ孤立するようなら、人間関係そのものも不毛でしかない。誰しも人の好みは尊重されねばならないが、その好みも同調圧力を後ろ盾にしているとなれば、社会に迷惑をかける結果しか生まない。
年少者だけを囲い込み同調圧力を押し付ける、消費社会・文化のあり方それ自体の是非については、問わなくてよいとでも言うのか。現代の日本において、消費社会・文化が「消費を牽引するのは若者」との固定観念で動くのはなぜかと言えば、供給者本位の立場を取る限り、規格品の大量生産・販売でこそ、利益を上げるには効率がよい訳だが、以前拙稿で評した『 団塊の世代「最高の十年」が始まる 』によれば、その対象が高齢者では経験も好みも社会的地位も収入も様々なため、それがやりにくいだけだ。他方、年少者が対象なら経験や社会的地位の差が少ないので、やりやすいということだ。その傾向が強まった当時は、若者の数が多かった上、大都市に集中し情報発信力でも勝っていたかもしれないが、今は少子高齢化により状況は一変している。しかも、年少者同士の間でも「収入の差」に相当する相対的貧困が存在するということは、年少者しか相手にしない商慣行それ自体に、全く名分が立たないことになる。にもかかわらず、供給者偏重の経済構造に胡座をかき、上記の固定観念を追認したのは、明らかに開発努力の不足と販売意欲の欠如よりなる供給者自身の怠慢といえる、と前掲書は指摘していた。むしろ、ああいう商慣行については「国民をいかに扱うか」に関する社会的要請に応じるだけのものとも取れなくもない。その社会的要請とはすなわち「娯楽の提供先をガキに絞って、世代ごとに嗜好を画一化させることを通じて各個人の自我は骨抜きにしてやらなけりゃ、大人の国民を社畜として、趣味に興じる暇もないほどこき使うことが出来なくなるだろうが」という、一貫して財界の都合にだけ応じる趣旨なのだろう。
マークス寿子氏の著書『 大人の国イギリスと子どもの国日本 』も参考にして述べるなら、何より年少者を文化消費者に位置付けることの最大の弊害は、新しいものだけを供給し、しかも短期間で乗り換える傾向にも合致させることから、文化そのものの成熟を妨げ、ひいては日本社会の文化度をも貶めるということだ。だから消費社会との関係性について云えば、まず文化消費に関連した商売に対し、年少者しか相手にしないこと自体が有害無益と悟らせ、そうしたスタンスを根本から悔い改めさせることでしか、解決は図れないはずだ。
従って適応を促すアプローチをとるという発想自体が、本末転倒という他ない。むしろ相対的貧困の問題については、前著で触れていた「相対的所得仮説」に基づいて論じるべきかと思われる。即ち戦後復興期から高度成長期にかけては有効だった、全体の所得さえ上げればよしとする経済政策をその後も継続したが為に、所得格差の固定と拡大しかもたらさぬことで惹起された問題といえよう。ちなみに、誰とは言わないが「経済成長が全てを解決する」なる言説を唱える論者などは、この「相対的所得仮説」に配慮する意義も、そして何より資本主義そのものの不完全性や限界についても、まるでわかっていないと考えられる。先の「供給者本位」にしても、従前の経済政策とともに継続されたシステムであることは確かだ。だからこそ、年少者しか相手にしない消費社会・文化にしても、こうした経済構造もろとも打破せねばならないはずだ。
なお、この件は「昔の方が経済的に苦しい子どもたちが多かったのでは」「発展途上国の子どもたちの生活に比べたら、日本の貧困は大したことないのでは」等、絶対的貧困との比較に関連した疑問を受けて言及されたことだが、本来ならばそうした疑問自体を『 貧困の光景 』への拙稿で言及したように「犠牲の累進性」として、批判できなければならない。既に行き詰まって久しい資本主義の強引な延命から、先進国と貧困国の経済格差が、概して国家内部でのそれに取って代わられたという現状に鑑みても、そうした比較自体が無意味と、わからせるべきであったろう。
ベスト500レビュアー
(子どもの貧困の)「『見えにくさ』を少しでも解消(p.10)」し、解決の方策を見出そうとする書。著者は、執筆にあたって「しんどい子どもたち(また、彼らを育てている親たちを含めて)の視点から(p.16)」ということを最も大切にしたという。
タイトルには、日本の政治・社会への著者の怒りが滲み出るが、本文の筆致は冷静。前半、前著『子どもの最貧国・日本』に向けられた疑問や批判に対して答える構成になっていて、その意図がよく分かる。
類書と異なる特徴として、「現物か現金か」というような「給付」に加えて、国民保険料など「負担」のあり方の問題性を指摘している点や、子どもの貧困が家族の問題とされ社会の問題とならない日本の政治や国民の意識に、子どもの貧困のルーツを見る「第4章 家族依存社会の生きづらさ」に注目したい。
それにしても、「『所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向』があることについて……『当然だ』『やむを得ない』と回答した人が59.1%いた」というアンケート結果(p.215)に暗澹たる気持ちになる。まさに「『ジコチュー』にかなり近似している『カゾクチュー』な親たち(p.217)」と言えよう。
タイトルには、日本の政治・社会への著者の怒りが滲み出るが、本文の筆致は冷静。前半、前著『子どもの最貧国・日本』に向けられた疑問や批判に対して答える構成になっていて、その意図がよく分かる。
類書と異なる特徴として、「現物か現金か」というような「給付」に加えて、国民保険料など「負担」のあり方の問題性を指摘している点や、子どもの貧困が家族の問題とされ社会の問題とならない日本の政治や国民の意識に、子どもの貧困のルーツを見る「第4章 家族依存社会の生きづらさ」に注目したい。
それにしても、「『所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向』があることについて……『当然だ』『やむを得ない』と回答した人が59.1%いた」というアンケート結果(p.215)に暗澹たる気持ちになる。まさに「『ジコチュー』にかなり近似している『カゾクチュー』な親たち(p.217)」と言えよう。
2015年7月15日に日本でレビュー済み
貧困率という言葉が、何十回も登場する。
が、中央値の半分未満を機械的に貧困と定義している
のは、どうか。これは、他の識者も同意見だ。
格差を表す指標にはなるだろうが、貧困と決め付ける
のは、おかしい。
貧困でない者を貧困と決め付けて議論を進めて
いる点でバツである。
「大学への進学は、貧困の世代間連鎖から抜け出す為の
最も適切な手段」
というが、自分はそう思わない。
また、「日本は、最も大学に行き難い国」というが、
大学全入時代の現在の日本では、高卒程度の学力もない
大学生が沢山いる。3流大卒の学歴など、何の役にも立たない。
それどころか、それと引き換えに、奨学金という借金までしており、
それが人生の足かせとなっている者が大量生産されている
事が、社会問題となっている。
酒・暴力・借金・無責任など、問題のある親に生まれた事は、
子供の責任ではない。それは確かにそうだ。
だが、そういう親の責任を社会に無制限に負わせれば、
教育を放棄する無責任な親が大量増殖してしまうのだ。
その問題にまで踏み込んで考えていない著作だ。
金を掛ければ、子供がよく育つという訳ではない。
貧乏の中から、ハングリー精神が育つ。
松下幸之助・たかの友梨・大平 光代など、逆境の中から、
這い上がった著名人はたくさんいる。
大平 光代は、中卒でも、司法試験に合格した人物だ。
ドラマHEROで久利生 公平は中卒の設定だが、
大平 光代の例を参考にしたようだ。
また、ココイチの創業者の宗次徳二は、雑草を抜いて食べるほど困窮した生活を送った。
要は、本人のやる気である。
実力さえあれば、いくらでも人生を切り開く事はできる。
結局、貧困であっても、大した問題ではない。
貧乏を楽しみながら、ハングリー精神を育て、
エネルギーを蓄えて、それを爆発させていけば、
いいだけなのだ。
境遇の違いは、人生において、誤差の範囲でしかないのだ。
酒乱の父親の虐待に苦しめられた自分でさえ、そう思う。
このような受け止め方ができる人が人生において、大成するのだ。
貧乏でくじける程度の人物ならば、普通の家庭に
生まれても、大した人物にはなれない。
が、中央値の半分未満を機械的に貧困と定義している
のは、どうか。これは、他の識者も同意見だ。
格差を表す指標にはなるだろうが、貧困と決め付ける
のは、おかしい。
貧困でない者を貧困と決め付けて議論を進めて
いる点でバツである。
「大学への進学は、貧困の世代間連鎖から抜け出す為の
最も適切な手段」
というが、自分はそう思わない。
また、「日本は、最も大学に行き難い国」というが、
大学全入時代の現在の日本では、高卒程度の学力もない
大学生が沢山いる。3流大卒の学歴など、何の役にも立たない。
それどころか、それと引き換えに、奨学金という借金までしており、
それが人生の足かせとなっている者が大量生産されている
事が、社会問題となっている。
酒・暴力・借金・無責任など、問題のある親に生まれた事は、
子供の責任ではない。それは確かにそうだ。
だが、そういう親の責任を社会に無制限に負わせれば、
教育を放棄する無責任な親が大量増殖してしまうのだ。
その問題にまで踏み込んで考えていない著作だ。
金を掛ければ、子供がよく育つという訳ではない。
貧乏の中から、ハングリー精神が育つ。
松下幸之助・たかの友梨・大平 光代など、逆境の中から、
這い上がった著名人はたくさんいる。
大平 光代は、中卒でも、司法試験に合格した人物だ。
ドラマHEROで久利生 公平は中卒の設定だが、
大平 光代の例を参考にしたようだ。
また、ココイチの創業者の宗次徳二は、雑草を抜いて食べるほど困窮した生活を送った。
要は、本人のやる気である。
実力さえあれば、いくらでも人生を切り開く事はできる。
結局、貧困であっても、大した問題ではない。
貧乏を楽しみながら、ハングリー精神を育て、
エネルギーを蓄えて、それを爆発させていけば、
いいだけなのだ。
境遇の違いは、人生において、誤差の範囲でしかないのだ。
酒乱の父親の虐待に苦しめられた自分でさえ、そう思う。
このような受け止め方ができる人が人生において、大成するのだ。
貧乏でくじける程度の人物ならば、普通の家庭に
生まれても、大した人物にはなれない。