本書は、2010年に紀伊國屋書店から刊行された同題の単行本が、版元を変え、2篇の論考の増補をともなって文庫化されたものです。
男と女で成りたつ近代の人間社会の核にミソジニー(女性蔑視、女ぎらい)があること、それが本書の中心となる著者の主張です。
女ぎらい、女性蔑視である以上、男がその蔑視をおこなう主体である、つまり悪い(?)のは男であるのはもちろんですが、その対象(客体)である女自身もこの女性蔑視を「自己嫌悪」、自分ぎらいとして内面化していることが事柄全体を厄介なものにしています。
いっぽう、ホモソーシャル(男同士の連帯)というのは、ことばはむずかしいですが、ありていにいえば、男の本音として、男は男どうし何ごとも女なしでやっていくほうがうまく行く、みたいなところにもそれは典型的に見られ、そのくせそうやって女を蔑視し排除しておきながら、同時にその裏では、性欲もあるので女なしではやっていけず、しかもそこでは女をモノ扱いし所有の対象にしか見なさないというところで二重三重にミソジニー(女性蔑視)があるということなのでしょう。ホモソーシャルとミソジニーはこうして一体というか、相互に補完的だということです。
評者のような男の読者が読むと、本書の最初の数章は、悪い(?)のは男であるとばかりに、男への徹底的な攻撃というか批判に終始しているようにみえ、男の読者としては、なるほどそういうことだったのかと思う同時に、しかしそんなふうに言われてもどうせよというのか、ミソジニーはなんとか本書で自覚できたとしても、とりわけミソジニーと一体となっている(らしい)ホモソーシャル(男同士の連帯)のほうはどうしたらいいのか、そんなことただひたすら糾弾調で言われてもなあ、という気持ちにさせられ、とにかく読むのがちょっとしんどいところがあります。
また、事例として、著者が読んで「むかむか」するという吉行淳之介やら永井荷風などの古い、(著者いうところの)「男流」文学を持ち出されてきてもなあ、というところもあります。
しかもあとでふれるポルノについては著者は「表象と現実との関係は反映や投射のような単純なものではない」と語っていながら、文学については両者の関係を「単純なもの」に還元していないでしょうか。
まあ著者だって、映画やテレビドラマ、マンガやアニメを見ていくら「むかむか」しても、そこに現れた「表象」、もう少し具体的にいうとその媒体やジャンル固有の方式によって描かれたものを素朴に現実ないし現実社会の直接的な反映として受けとめたりしないでしょうにね(たぶん)。
もちろん、表象(描かれ方、描かれたもの)それじたいにたいする好悪というのはだれしもに起こりえ、さらにはそれへの「むかむか」やフェミニズムをふくめさまざまな立場からの表象批判というのは理解できますが(眠り姫に同意なくキスをすることで百年の眠りから覚めさせた王子は「セクハラ」あるいは準強制わいせつだとする、童話への阪大・牟田和恵教授による表象批判も最近ありましたね。牟田教授はしかし、だからそういう童話は取り締まれ、絶版にしろと主張しているわけではまったくありませんので、念のため。ひとつの見方、読み方として、よく知られた童話にもいまではセクハラ、準強制わいせつと認定されるような事象が堂々と、それもいちばんの感動シーンとして描かれていることに注意をうながしているわけです。終電車かなにかで眠りこんでいた女性にキスをした男が捕まるという事件が現実にもありました)、ジャンル固有の方式によって書かれたものとしての文学(小説)を、たとえそれが私小説、あるいはそれ「ふう」の作品であっても、直接かつ単純に現実の作者個人(の人間性や生き方や実生活・実体験)をそのままに反映しているものとして還元的に(それも憶測やら真偽のほどはわからぬゴシップまでとりまぜて)扱うのはどうかなと思ってしまいます。
批判=批評するなら、著者自身、水田宗子氏の批評で気づいたように、そして本書でも一部そうしているように、(たとえば女は)こうあってほしい、こうであるはずだというような、作品を生みだしている、あるいは作品が織りなす(男性)作家の無意識的幻想(ファンタスム)、著者のことばを用いれば「妄想」を問題とし、それを暴くなりなんなりに徹底すべきではなかったでしょうか。
西洋人がオリエント(中近東をふくむ東洋)にみずからの夢と欲望を反映させることで成立した無意識的幻想(ファンタスム)を「オリエンタリズム」と呼んで、西洋人の言説にあらわれたオリエント表象を批判的に検証したエドワード・サイードに著者は啓発をうけたようですが、でも著者なら、サイードとちがって、そんな手前勝手な無意識的幻想(ファンタスム)を抱いた当の西洋人たちの人間性や生き方や私生活にさかのぼって、それを暴き出し、西洋人そのものをむしろ厳しく批判すべきだということになるのでしょうか(この種の手前勝手な幻想の構造は、男の女性幻想、西洋人のオリエント幻想にとどまらず、たとえば都会人の田舎幻想(田舎はのんびりしていて過ごしやすい)、政治家の明治幻想(明治は偉大だった)、老人の昔幻想(昔は良かった)などなど人間が生きるところ、対象に距離があるところ、どこでも見いだされます。もちろんだからといって、そんな幻想、無害でたいしたことはないといいたいわけではありませんが。
ともあれ、文学の読み方としてはあまりに粗雑で乱暴(あるいはむしろ素朴)にすぎるという気がします。
(ただプロの作家は、引き起こされる誤読や誤解もふくめて自分の書いたものから逃れることはできませんので、吉行淳之介が生きていて本書を読めば、やれやれと思いながら苦笑いをしてやりすごすだけかもしれません。
それにしても、著者が学問研究者としての冷静さを失って、なんでこれほどひとりの文学者のゴシップやら私生活まで引っぱりだして、それほどまでに批判したいのかそのあたりの気持ちが評者にはよくわかりません。まあ著者にはたぶん、レヴィ=ストロースやフロイト、ラカンなどの高級(?)な理論であれ週刊誌の低級(?)なゴシップであれ、批判のためなら利用できるものは何でも利用してやるぞという根本戦略というか著者の「すれっからし」戦略があるのでしょうね。
ただ「すれっからし」は、当初著者が、知的に洗練され(お)上品な(?)、浅田彰や中沢新一らのニューアカ流(?)の高級路線をあえて選ばず、男中心の秩序を壊乱するために、あえて下品上等(?)とばかりに言説上の戦略としてかぶった仮面だったはずなのに、いまではほとんど地顔(?)になってしまってはいないでしょうか。いやそうではなく、仮面と地顔とが著者のなかでたぶん区別できなくなっているのでは。
仮面の効果としてある、自己(地顔)への距離から生まれる精神的余裕と仮面が仮面であることを読者に意識させることで生まれるユーモアは、仮面が仮面でなくなれば、おのずと消え失せてしまいます。
本書を読むと、ひとをときにニヤリとさせることもある、仮面の余裕のなかで演じられた「すれっからし」の爽快感ではなく、なんともギスギスした感じをうけるのはそのためではないでしょうか)
男性読者にはしかし、そこで読むのをやめず、なんとか読みすすめていってほしいと思うばかりです。
なかでも第2章の「ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニー」は本書で使用される操作概念の説明の章なので、本書を十全に理解するには、しっかりその概念の中身を頭に入れておく必要があります。
くどいようですが、とにかく第5章あたりまでは、男性読者はちょっとしんどい思いで読んでゆかざるをえないところがあります。
まあただ、しんどいながらも、男が読むと、そこでは思いあたるふしもあって自分の秘密が暴かれるような、見たくないものを目の前につきつけられるような思いと同時に、なるほどそういうことだったのかと腑に落ちる思い、見えていなかったもの、盲点だったものが見えて、目から鱗のような思いにさせられるのも事実です(とくに「性的弱者」を論じたところなど)。
そのあと、フロイト理論や構造主義理論(かつて著者は構造主義者だった!)を用いて分析するいくつかの章はなんだか図式的にすぎるところがあって、また「東電OL」を扱った章などは実在の女性についての解釈ということもあって、評者にはいまひとつのように思えましたが、最終章「ミソジニーは超えられるか」では、男が(そして女も)骨がらみになっているミソジニーにたいする処方箋はあるのか、ということが問題にされていて、当然かんたんな処方箋などないながらも、ここで男性読者が本書冒頭からもちつづけた、ミソジニーと骨がらみになっている「男が男であること」のありようを一体どうせよというのかという著者への疑問にたいして、ようやく著者なりのヒントというか展望というか回答が提示されています。
著者はたしかどこかで自分の立場はマルクス主義的フェミニズムであると言っていたと思います。マルクスが資本家が支配する資本主義社会からの労働者の解放をまず第一に考えていたように、著者はどのような戦略を使ってでも男性が支配する家父長制社会からの女性の解放をまず第一に考えているのでしょう。
しかし男が(そして女も)骨がらみになっているミソジニーからの解放、そしてそこでようやく可能となる女の全的な解放が完遂されるそのときの社会、つまり著者のフェミニズムが目指す理想社会とはどのようなものか、そこでは男女はどうなるのか、そのヴィジョンとは、となると、マルクス同様、著者もまあ「わからない」といわざるをえないようです。このあたり、著者は正直です。
上でもちょっと書きましたが、ミソジニーと切っても切れない関係にあって、ミソジニーとともに根深く男に巣くう、というか、男が生まれながらにそこにいやがおうでもほうり込まれるホモソーシャル(男同士の絆)のほうはどうしたらいいのか、というか著者はどうせよというのか、という疑問も評者にはあります。
それは、男たちがみんなして、あるいはめいめいがホモソーシャル(男同士の絆)から降りることなのでしょうか(しかしそんなことが可能なのでしょうか)。あるいはミソジニーとホモソーシャルがコインの裏表、あるいは相互補完的なものであるとして、ミソジニーによってこそホモソーシャルが可能となるという理解ならば、ミソジニーが先立するもの、より根源的なものとしてあることになりますが、そうであれば、どうすればミソジニーが克服できるのか、そこから抜け出せるのか。著者も言うように、ミソジニーを自覚したからといって、それがストンと消えてなくなるわけでもありません。
著者は言います、「[男が]ミソジニーを超える方法はたったひとつしかない。それは身体を他者化することは止めることだ。言いかえれば、身体および身体性の支配者としての精神=主体であることを、止めることだ。そして身体性につながる性、妊娠、出産、子育てを女の領域と見なすのを、止めることだ」、と。
うーん、しかし「身体うんぬん」というところはあまりにも抽象的観念的な提言だし、「性、妊娠、出産、子育てうんぬん」というところはすでに男も少しは自覚している(まあでもたいして実行されてはいない?)ところでもあって、あまり説得的でない、というかそれでほんとうに「ミソジニーは超えられるのか」と思ったりするのですがねえ…
(そもそも人間って、とりわけ自分の身体や性へのかかわりというのは単純に一般化できぬほど、また相互に理解できぬほど個人個人で千差万別なのではないでしょうか。まあただ男はたしかに自分の身体をもてあましているところがあり、それはつまり逆にいうと、著者のいうように男は自分の身体および身体性をコントロール(支配)できる主体になりたいという思いが強すぎるためかもしれません)
かんたんには解決できない問題なので仕方ありませんが、なんだかちょっと苦しまぎれの回答という感じもします。
いっぽう、著者は(筋金入りの?)構築主義者らしいので、作業仮説としてあるいは戦略としても、ミソジニーをあくまで文化的・歴史的・社会的な構築物と考えているようですが、ミソジニーには、すくなくともホモソーシャルにはそもそも生物学的なところがないのかどうか少し気になるところもあります(そうなると本質主義になる?)。
たとえば保育園なんかですでに小さな男の子たちがホモソーシャルな世界をつくっていないのかどうか、そしてそのばあいそれは小さな男の子たちはホモソーシャルでやっていくほうが自分たちにメリットがあると「生得的」(?)、「生存本能的に」(?)知っていてそうなのか、それともそれは生後の文化的・社会的な形成物なのか(ホモソーシャルについては保育園の男女役割分担的な教育環境のなかでそれを体得する?ミソジニーについては小さな男の子たちは自分の両親の関係からそれを模倣し内面化する?)…
本質主義的に考えようとするのはしかし、そのように生まれてきたのだからどうしようもないでしょ、と居直りたい男のがわの「逃げ」なのか…
あるいはまた逆に、女が、「女々しく」ない、ナヨナヨ(?)していない「男らしい」男を良しとし、好み、選ぶといわれたりするのは、「種の保存」(?)のようなもともとの生物学的な選好ゆえなのか、それとも女をそのようにさせるのは、「女々しさ」を嫌う、つまりミソジニー(女嫌い)を女みずからが内面化していることに由来する、あくまで文化的歴史的社会的な刷り込みゆえなのか…
と、こうしてなおいろいろ疑問がつぎつぎに湧いてきます。
まあ、ミソジニーをはじめ、ひとの心のありようというのは一気に変えられるものではないので、法律や組織などさまざまなレベルで制度的仕組みもあわせて変えていくことで、ひとの心も徐々にそれに慣れ、少しずつ変わっていくことがあるかもしれません。というか、じっさい、そうした制度的仕組みを変えていくことに現在苦労しながらも努力されている方も多くおられることでしょう。本書でも、著者が勤務先の東大でセクハラ防止委員会の立ち上げにかかわり、「最強の布陣」の委員会をつくったことが書かれています。
(ただ、人種差別の激しかったアメリカで、1950~60年代の公民権運動以降、アファーマティブ・アクションなど人種差別、人種格差をなくすための制度的仕組みが少しずつ整えられていっても、なお現在その人種差別が根づよく残っていることを見れば、ひとの心のありようを変えることのむずかしさも同時に考えてしまいますが(だからといってさまざまな措置や法的整備が無駄だったわけではないということも事実です)。セクハラ(やDV)も、問題として言語化されて広く人びとのあいだで意識されるようになり、世論もそれを許さない方向で動くようになってきましたが、まだそれでもしかし「モグラたたき」のようにたたいてもたたいてもそれは今も止まないわけです。著者は「セクハラは〈男性問題〉だと言うべきなのだから、男に解決してもらうほかない」と本書で書いています)
なお本書によれば、著者は、ポルノについては「それがどんなに残酷な想像力であれ、表象の生産そのものを取り締まることができないし、そうしないほうがいい。表象と現実との関係は反映や投射のような単純なものではない。[…]わたしたちは想像のなかで何度も人殺しをしているからこそ、実際にはだれも殺めずにすんでいるかもしれないのだから」という立場をとっているようです(ただしチャイルド・ポルノはべつ)。
最後にいくつか本書のなかの名言を――
「男は男たちの集団[=ホモソーシャル]に同一化することをつうじて〈男になる〉。男を〈男にする〉のは、他の男たちであり、男が〈男になった〉ことを承認するのも、他の男たちである。[…]これに対して、女を〈女にする〉のは男であり、〈女になった〉ことを証明するのも男である。〈男になる〉ことと〈女になる〉こととの、この圧倒的な非対称な機序(メカニズム)…」
この男と女が非対称であることが、理論的考察は措いても、著者にはがまんならないのがよくわかるのですが、まあそれはそれとして、男を「男にする」のは、あるところでは、女のまなざしもあるのではないかと思ったりするのですが…つまり女のまなざしのなかで男は「男になる」部分もないのでしょうかね。
いや、でも本書に準ずれば、たとえば女が男にたいして「あなた、男でしょ」、「それでも男なの」とか「男のくせに」と言うときや心の中で思うとき、それは女のなかに男のまなざしが内面化されていて、つまり「男のくせに(男らしくない)」には暗に「女みたいだ」と言っているような、女みずからの女性蔑視、女ぎらいが潜在していると考えればいいのかもしれません(男らしくないときに「女の腐ったようなやつ」とか「女々しいやつ」というような、一般に男が男にたいして使うミソジニーの典型的なことばがありますよね)。
まあけれどそうなれば、実態として、男を「男にする」のは、他の男たちであるというばかりか、男のまなざし(つまりミソジニー)を内面化している女たちでもあるということになりませんかね。つまり元にもどって、やはり現実ないし実態として、男たちの集団のなかだけでなく、女のまなざしのなかで「も」、男は「男になる」ことが求められる、と。
男として、男のなかでも女のなかでも「男になる」ことが求められるということでは、「男はつらいよ」とここでそっとつぶやきたくなりますが(笑)、しかしそれはよく考えてみると、男のまなざし(ミソジニー)が、「それでも男なの」とか「男のくせに(女みたいだ)」と男をまなざす女のまなざし、いいかえれば男のまなざし(ミソジニー)を内面化した女のまなざしをとおして、ブーメランのように男に立ちもどってきているというわけで、男には自業自得(?)となっているわけなのでしょうね。
ともあれ、けっきょく実情ということでいえば、こうして日本の社会は、本書の帯に「男も女も女がきらいなのはなぜ?」とあるとおり、汎ミソジニー、要は男も女もあわせてミソジニー(女性蔑視)が骨がらみになっている社会、互いが互いを生きにくくさせている社会なのかもしれません。
また著者は、いっけんパラドクスとも矛盾ともみえますが、「フェミニストは女ぎらい(ミソジニー)だ」と語っています。女ぎらい(ミソジニー)ではないフェミニストは考えられない、とも。
つまりたとえば会社や組織の中で自分のキャリアを阻むいわゆる「ガラスの天井」にぶつかって、なんで自分は女でしかないのかという思い、そのまさになんで自分が女で「しか」ないのかと思いいたり、女でありながら生きていていやおうなく自分が女であることへの嫌悪(ミソジニー)をもってしまう自分自身への苛立ちがまずあって(「女はしごとができない」とまずはなから差別され、「しごとができればできたで、『女にしては』と評価される、いっぽうで、『女だから』評価されたのだ、とおとしめられそねまれる」、ミスをすれば「だから女は」といわれ、しごとができなければ「やはり女は」といわれる、「男の社会のうちに女の居場所はないし、逆に女の指定席に座ってしまえば一人前に扱われない」)、そこから、なんで自分が女で「しか」ないのかという思いにさせる、つまり女に自分で自分(女)を嫌悪させるようにしむける、ミソジニーで成りたつ男社会への根本的な苛立ち、著者のことばでいえば「怒りと苦痛」へとつながって、フェミニストたらんとする意識が生まれるということなのかもしれません。
いっぽう男で、生きていてなんで自分は男で「しか」ないのかと思う男は少ないでしょうね。そこにたしかに非対称があります。
ただ本書でもふれられている男性学では、男は男で、なんで自分が男なのかという自己嫌悪や苛立ちがあることを指摘する論者もいるようです。
これはまあ、女の自己嫌悪とは位相がまったくちがっていて、上で述べた、男が自分で自分の身体をもてあましていることから来る自己嫌悪(それが極端化すれば去勢願望?)ということもまずひとつあるのでしょう。
というか、フェミニズムに代表される女性学にくらべ、男性学が未発達なのは、男は、自分のなかに、男でありたくない、男を降りたいという思い(男の自己嫌悪)がひそかにあっても、男である以上なんで自分は男として生まれてきたのかとぜったい思ってはいけない、自己嫌悪して男を投げ出してはいけない、また投げ出すことはできないというような内的外的な圧、とにかく男である以上男から降りられない、男として生まれてきた自分を肯定し全うしなければならないというような内的外的な圧を、それが意識にまったくのぼってこないくらいに無意識の底にかかえているからかもしれません。
ともあれ男は男で、自他にたいして男として生きさせられる、男を演じないといけないところもあるのでは、と思ったりします。
でも、たぶんフェミニストの見方からすれば、そんな男でも、たんに男であるというだけで、さまざまな差別を受ける女よりははるかに社会的優遇をうけ、生きていきやすいということになり、またそんなふうに男は、享受できる特権にじゅうぶん恵まれているからこそ男性学なんてそもそも必要なかった、発達しなかったということになるのかもしれませんが。アメリカで、差別されていた黒人側からの黒人論はこれまで数多くあっても白人側の白人研究が成立しにくいのと同様なのでしょうね。
本書における著者の主張(のひとつ)は、ミソジニー(女性蔑視)によって、つまり自分は(自分が蔑視するところの)女「ではない」ということだけで、男は、男としてのアイデンティティを、優位性を簡単に(?)得られるというものですが、まあそれはそれでそういうこともあるのだろうということは否定しませんが、しかし男の現実のありようにたいしてあまりに単純すぎる、デジタル思考(0/1)というか(著者が好きな!)構造主義的思考(有標/無標、+/-)のような気もします。+は自立的かつ自存的に+であるわけではなく、-があってこそ、あるいはむしろ-「ではない」ことによってこそ+は+である、というような。
著者のロジックにはとにかく単純にして図式的な決めつけが多く、ついていくのがシンドイところがあります。)
そしてまた著者は、女である自分自身に立ち返れば「フェミニズムは女にとって自分自身と和解する道」でもあると語っています。つまりフェミニズムは、自分はなんで女で「しか」ないのかという思いをしなくてもすむ、ひっきょう自分が女であることをまるごと積極的に肯定できる、そういう自分、そしてそういう社会へとつながる道ということになるのかもしれません。
まあただ、性差のゆらぎや希薄化、LGBTのことなど男女をめぐる旧来の議論では間に合わないような事象がいま社会のなかで顕在化し、また「生きづらさ」という点で社会にさまざまな形のマイノリティあるいは「弱者」が生まれているなかで、男と女というカテゴリーに執拗にこだわる著者の議論はやや窮屈で古めかしく感じるひともいることでしょう。
(著者自身は、マイノリティ全体やその共闘、連帯などは考え(られ)ず、当事者自身がそれぞれ関与するところで徹底的に闘っていくべきだという明快なスタンスのようです。これは、「弱者」であることは、当事者にしか分からず、かつ当事者にとってしか痛切なものでないので、「弱者」自身がおのおの自助努力でみずからが生きていきやすくするために声を上げ闘っていくよりほかないということのようです。
ようするに、当事者でないものが、当事者になりかわって、わけ知り顔に、正義の味方づらして当事者の切実な問題に要らぬ介入をすべきではないというわけですな。
よく知られたエピソードですが、かつて同じ社会学者の宮台真司との雑誌対談で、男の性的「弱者」について著者が、概略「モテたければコミュケーション・スキルを磨け、それができなければどうかマスターベーションでもしていてください」と言い放ったゆえんでもあります。
まあこうした「すれっからし」(?)ふうの言い方もいかにも著者ならではですが。)
いっぽうで、もとよりフェミニズムなどピンと来ないというか、生来自分が女であることをまるごと積極的に肯定でき、なんで自分が女で「しか」ないのかという自己嫌悪に突きあたらず生きてきた、また生きている女性もたぶんいることはいるでしょうね。
男にも、生来自分が男であることをまるごと積極的に肯定でき、自己嫌悪なく生きている男がたぶんいるのと同じく。
「強姦と同じくセクハラの加害者は、性欲からではなく、ミソジニー(女性蔑視)からセクハラをする」
これはなるほどと思いました。
追記メモ:
アメリカにおける人種差別問題において、上で挙げた格差是正措置であるアファーマティブ・アクションにたいして自分たちには逆差別となるという主張が一部白人側からなされたことはよく知られていますが、現在どうやら同じくアメリカでは、「ミソジニー」にたいして、「ミサンドリー」という用語で「男性嫌悪/男性憎悪」が社会にあると指摘する議論もあるようですね。うーん、しかしここまでくると、だんだんなんとも言えなくなってきますなあ…
もうひとつ追記メモ:
著者がかつてどこかでみずからの父親との関係を語っていたのを読んだことがあるのですが、本書ではみずからの母親との関係について何か葛藤があったことを口ごもりながら、というかちょっと言いよどむようにほんの少しだけ暗示的に語る箇所があります。もし著者がそのことを「書くこと」によってそれに向きあうようなことがあれば、現在スッパスッパ対象を切りつけ「攻め」一点ばりのスタイルが変わって、またちがった上野千鶴子があらわれるのではないかと思うのですが、さてどうなのでしょう。いつか著者は母親とのあいだにあった関係を語りだすことがあるのでしょうか。
まあでもそれは著者自身のなかの問題ということでは余計なお世話というもので他人があれこれいうべきことではないかもしれませんが…(もとより著者は、自分は「思考」で勝負する人間なので自分の「感情」を切り売りしたりすることは絶対しない、と語るひとのようでもあります)
さらにもうひとつ追記メモ:
フェミニズムの本はほとんど読んだことがなかったので、本書をきっかけに少し関連書などを見ていたら、レベッカ・ソルニット著『説教したがる男たち』という本、そしてそこで提示されている「マンスプレイニング(manとexplainの合成語)」ということばがあるらしいことを知りました。これは、男たちは「相手が女性と見るや、講釈を垂れたがる」ことを指すことばのようです。
ちなみに、上に書いたような評者のレビューもそういう傾向をまぬかれていないということになるのでしょうかね。ともあれ、男がフェミニズムに足を踏み入れようとすると、たちまちさまざまなイニシエーション、あるいは教育を受けることになりますなあ…
まあ、ミソジニーからなる男中心の社会では女がつねに有標化される(しるしづけられる)としたら、フェミニズムでは逆に男が有標化される(しるしづけられる)ことになるというわけで、これはこれでそういうことなのかなと思いますが。
女ぎらい (朝日文庫) (日本語) 文庫 – 2018/10/5
上野千鶴子
(著)
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本の長さ392ページ
-
言語日本語
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出版社朝日新聞出版
-
発売日2018/10/5
-
寸法14.8 x 10.5 x 1.5 cm
-
ISBN-104022619430
-
ISBN-13978-4022619433
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
ミソジニー。男にとっては「女性蔑視」、女にとっては「自己嫌悪」。皇室、婚活、DV、自傷、モテ、東電OL…社会の隅々に潜み、家父長制の核心である「ミソジニー」を明快に分析した名著。文庫版に「セクハラ」と「こじらせ女子」の二本の論考を追加。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
上野/千鶴子
1948年富山県生まれ。社会学者。東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。1994年、『近代家族の成立と終焉』でサントリー学芸賞、2011年朝日賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1948年富山県生まれ。社会学者。東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。1994年、『近代家族の成立と終焉』でサントリー学芸賞、2011年朝日賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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2018年10月20日に日本でレビュー済み
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2018年11月27日に日本でレビュー済み
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ミソジニー(男の女嫌い 女の女嫌い)
とても面白いテーマで興味深く読みました。著者の、鋭く容赦なく畳み掛ける分析に圧倒されながら、ミソジニーとは男の負惜しみなのか?とも思いました。男性は女性より優位でなければならないプライドの高さと、その反動としての傷つきやすさ。「優位」が優位であるためには「劣位」であることに甘んずる者の存在に依存しなければならない。
身心二元論による分析では、男性は自分の身体を他者化し、心を「優位」、身体を「劣位」とする。その身体の対象となる女性はさらに「劣位」であり、その女性がなければ生きて行けない。(子孫を残したいという本能は男性に固有。)
その仕組みを熟知した男性が女性を憎む…ここまでは面白かったです。
しかし、男性が「ミソジニー」を超えるためには、
「身体の他者化」をやめ、女性の身体性に関わるところに参加せよ、
つまり、もっと出産や育児に関わりなさい、との著者の結論には、かなり拍子抜けしました。
面白い論理展開をしてきたのに、なんて平凡なところに落ち着いてしまったのかと。
また著者は、女性自身のミソジニーは女性の自己嫌悪、としていますが、現実には女性はそんなに自己嫌悪していないと思います。
著者のいうとおり、女性が劣位の性(選ばれる性)であるとするならば、自分こそが選ばれたい。つまり「女の敵は女」これが女性のミソジニーという見方も出来ると思います。
とても面白いテーマで興味深く読みました。著者の、鋭く容赦なく畳み掛ける分析に圧倒されながら、ミソジニーとは男の負惜しみなのか?とも思いました。男性は女性より優位でなければならないプライドの高さと、その反動としての傷つきやすさ。「優位」が優位であるためには「劣位」であることに甘んずる者の存在に依存しなければならない。
身心二元論による分析では、男性は自分の身体を他者化し、心を「優位」、身体を「劣位」とする。その身体の対象となる女性はさらに「劣位」であり、その女性がなければ生きて行けない。(子孫を残したいという本能は男性に固有。)
その仕組みを熟知した男性が女性を憎む…ここまでは面白かったです。
しかし、男性が「ミソジニー」を超えるためには、
「身体の他者化」をやめ、女性の身体性に関わるところに参加せよ、
つまり、もっと出産や育児に関わりなさい、との著者の結論には、かなり拍子抜けしました。
面白い論理展開をしてきたのに、なんて平凡なところに落ち着いてしまったのかと。
また著者は、女性自身のミソジニーは女性の自己嫌悪、としていますが、現実には女性はそんなに自己嫌悪していないと思います。
著者のいうとおり、女性が劣位の性(選ばれる性)であるとするならば、自分こそが選ばれたい。つまり「女の敵は女」これが女性のミソジニーという見方も出来ると思います。
2021年3月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
男に依存していた男嫌いです。
過去の自分と重なる部分があり、今の自分にとって励みになる一冊でした。
日頃から感じていたモヤっとした怒りや不快感が明瞭に書き上げられています。
男性はなぜ自分に告白してきたわけでもない女性に向かって「アリ」「ナシ」などと品評するのか?
それは見下しているわけでも勘違いしているわけでもなく、「自分という男を求めていてほしい」というチンケなプライドからなのだと腑に落ちました。
一人の男性が数多の女性を値踏みしているとき、女性たちは男性を見てもいない。作中にもある通り、滑稽な一人芝居なのだとわかりました。
これからはそうした男性たちのことを生暖かい目で見てあげようと思います。
過去の自分と重なる部分があり、今の自分にとって励みになる一冊でした。
日頃から感じていたモヤっとした怒りや不快感が明瞭に書き上げられています。
男性はなぜ自分に告白してきたわけでもない女性に向かって「アリ」「ナシ」などと品評するのか?
それは見下しているわけでも勘違いしているわけでもなく、「自分という男を求めていてほしい」というチンケなプライドからなのだと腑に落ちました。
一人の男性が数多の女性を値踏みしているとき、女性たちは男性を見てもいない。作中にもある通り、滑稽な一人芝居なのだとわかりました。
これからはそうした男性たちのことを生暖かい目で見てあげようと思います。