日本中、風景がおかしいことに
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失われた景観 (PHP新書 227) 新書 – 2002/11/1
松原 隆一郎
(著)
視線を遮る電線群、けばけばしい看板……戦後日本が築いた醜い日常景観。その実態を神戸、真鶴などのケーススタディ、欧米との比較を通して検証する。
視界を遮る電線、けばけばしい看板、全国均質なロードサイド・ショップ群……生活圏における景観が、これほど貧しく醜い国もない。まさに「清潔な廃墟」である。
著者は言う。その荒廃こそ経済発展を全てに優先させた戦後日本の姿ではないか。同時に、歴史・風土と断絶した景観は、人間から過去の記憶を抹殺し、「豊かさ」を奪ってきたのではないか、と。
昨今、騒音を拒否する主張が生活環境の実感として唱えられている。だが景観の場合、日常景観の荒廃に関する危機感は未だに低く、議論の大半は伝統的町並み、自然環境などについてのものである。
本書では、四つの事例(郊外景観の興亡、神戸の市政と景観、真鶴町「美の条例」の理想と現実、電線地中化問題)を通して、日常景観を汚しても省みない日本社会の実像を映し出す。同時に、世紀末的景観へ推移する現状へ警鐘を鳴らす。
活力ある未来をイメージするために景観保全が必須であると説く、異色の社会経済論。
視界を遮る電線、けばけばしい看板、全国均質なロードサイド・ショップ群……生活圏における景観が、これほど貧しく醜い国もない。まさに「清潔な廃墟」である。
著者は言う。その荒廃こそ経済発展を全てに優先させた戦後日本の姿ではないか。同時に、歴史・風土と断絶した景観は、人間から過去の記憶を抹殺し、「豊かさ」を奪ってきたのではないか、と。
昨今、騒音を拒否する主張が生活環境の実感として唱えられている。だが景観の場合、日常景観の荒廃に関する危機感は未だに低く、議論の大半は伝統的町並み、自然環境などについてのものである。
本書では、四つの事例(郊外景観の興亡、神戸の市政と景観、真鶴町「美の条例」の理想と現実、電線地中化問題)を通して、日常景観を汚しても省みない日本社会の実像を映し出す。同時に、世紀末的景観へ推移する現状へ警鐘を鳴らす。
活力ある未来をイメージするために景観保全が必須であると説く、異色の社会経済論。
- 本の長さ233ページ
- 言語日本語
- 出版社PHP研究所
- 発売日2002/11/1
- ISBN-104569622704
- ISBN-13978-4569622705
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登録情報
- 出版社 : PHP研究所 (2002/11/1)
- 発売日 : 2002/11/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 233ページ
- ISBN-10 : 4569622704
- ISBN-13 : 978-4569622705
- Amazon 売れ筋ランキング: - 206,002位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 261位都市開発・都市問題 (本)
- - 538位PHP新書
- - 2,616位社会一般関連書籍
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年6月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本の内容はとても良く参考になりました。中古本なのに価格が定価より高く、本の状態もイマイチでした。
2019年5月30日に日本でレビュー済み
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戦後の景観政策、まちづくりの多くの人が避けてきた本質的な課題に切り込んでいる。
2023年5月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
執筆されてから時代は進んでいるため、論文を書くため読みましたが内容が古いと思います。
2003年5月20日に日本でレビュー済み
裏づけのある論理的な文章の端々に見え隠れする、身近な景観の醜さに対する怒り。私は、著者とその怒りを共有する者である。うっとうしい電線、ド派手は量販店の看板、欧米と比してあまりに絵にならない街並…。なぜ、日本はこうなってしまったのか?経済優先の土地利用に抗して景観を守る理論的根拠は?実際に景観をよくする上で何が問題か?この本は、具体例を通じ、それらの疑問に答えようとする。
なぜ戦後日本の景観がひどいものになったかについての典型例として神戸市を例に挙げ、そこに、山を切り崩し埋立地を作るという作業の恒常化による雇用の創出・維持、本来そのの是非を問うべき議会や専門委員会、裁判所の機能不全、というパタンを見て取っている。一方、景観を守る理論的根拠としてロッ㡊??の所有権を挙げ、景観とはそこに住む人の人格の一部なのであるからその時間的空間的不連続は許されないという論理を、真鶴町の「美の条例」を題材に展開している。電柱地中化問題では、近年、政府・自治体や事業者(電力会社など)の意識が変わりつつあり、非常にゆっくりではあるが地中化は進んでいる。しかしながら、住民の意識の向上や理解・協力が不可欠であると論じている。
最後の電柱地中化問題でも見え隠れするが、景観問題は、結局は、日本人自身の意識の問題だと思う。しかしながら、悲しいかな多くの日本人は、自分の住んでいる社会を自分とは無関係なものと捉え、その結果、ごくごく狭い時空間範囲でしか利害を考えることはできない。日本の景観とは、そのような日本人の意識の狭さの産物だと私は考える。しかし、だからこそ、景観についての研究はより重要であろう。「美の条例」で謳われるような広い時空間利害を、建造物を建てる主体の直接の利害へと変換する理論・公式の構築こそ急がれねばならず、本書は、その端緒となった啓蒙書という評価を将来得るかもしれない。
なぜ戦後日本の景観がひどいものになったかについての典型例として神戸市を例に挙げ、そこに、山を切り崩し埋立地を作るという作業の恒常化による雇用の創出・維持、本来そのの是非を問うべき議会や専門委員会、裁判所の機能不全、というパタンを見て取っている。一方、景観を守る理論的根拠としてロッ㡊??の所有権を挙げ、景観とはそこに住む人の人格の一部なのであるからその時間的空間的不連続は許されないという論理を、真鶴町の「美の条例」を題材に展開している。電柱地中化問題では、近年、政府・自治体や事業者(電力会社など)の意識が変わりつつあり、非常にゆっくりではあるが地中化は進んでいる。しかしながら、住民の意識の向上や理解・協力が不可欠であると論じている。
最後の電柱地中化問題でも見え隠れするが、景観問題は、結局は、日本人自身の意識の問題だと思う。しかしながら、悲しいかな多くの日本人は、自分の住んでいる社会を自分とは無関係なものと捉え、その結果、ごくごく狭い時空間範囲でしか利害を考えることはできない。日本の景観とは、そのような日本人の意識の狭さの産物だと私は考える。しかし、だからこそ、景観についての研究はより重要であろう。「美の条例」で謳われるような広い時空間利害を、建造物を建てる主体の直接の利害へと変換する理論・公式の構築こそ急がれねばならず、本書は、その端緒となった啓蒙書という評価を将来得るかもしれない。
2014年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
歴史的景観や文化的景観への関心は日本でも徐々に高まりつつあるのはうれしいことだが、みぢかな日常的景観の荒廃への嘆きがあまり聞かれないことにかねて焦りを覚えていた。だからアレックス・カーの『美しい日本の残影』や『ニッポン景観論』を読んで、わが意を得た思いと外部の視点を持つ者にしか感受できないことなのかという寂しさも感じた。しかし、これは私の不明だった。松原氏はすでに10年以上前に本書を著して、日常的景観の荒廃とその原因を追究しておられた。「清潔で新しくはあっても秩序のないことにかけてはこれほど突出している景観を持つ国は、世界に類を見ないと感じている。そもそもそうした感覚、つまり景観が荒廃しているという共通の認識がないことじたいについても、絶望的な気分にさせられてしまう。」松原氏のこの言葉に出会ったとき、まれな同志を見つけたような喜びを感じた。というのも、このような感覚と問題意識を口にして周囲の者から共感を得られることはめったになく、松原氏と同じようにそれがさらに憂鬱の種になっていたからだ。
本書は4つの事例を取り上げて景観問題を論じる。まずは、日本の郊外景観がいわゆるロードサイドビジネスによって均質化していることが指摘される。そもそも田んぼや畑を潰して建物を建てるのであるから守るべき景観がないという意識のもと(田んぼが続くという景観こそ守られるべき景観なのであるが)、コスト優先で建物はチープなものとなり、チェーン店が多いから全国一律で、ドライバーに目立つような派手な色づかいと巨大な看板を林立させる全国どこへ行っても同じ味気ない風景で覆われてしまった。このような状況に至った経緯を戦後の経済成長と都市の膨張化の視点から説明される。欧米における都市計画が商業施設を規制しているのに対し、日本の大店法が都市計画の視点を持たず、関係者の経済的利益を調整するだけのものであったことが、郊外景観の荒廃をもたらした一因であることが語られる。
神戸は「山を削り海を埋める」開発を自治体として積極的に行ってきた。開発の論理と景観保全の論理が真向からぶつかったのが、「住吉川景観訴訟」であった。両者の主張をたどって問題点が検討される。経済的な利益を重視する立場からは、景観の保全は私的な趣味のように見えてしまう。また、景観の良し悪しについて共通の判断がないところで、景観権を認めると住民エゴになる可能性もある。これに対し、どのような景観が守られるべきかの原則は、そこに長年住んでいる住民の判断を基準にすべきだとする。エドワード・レルフの『場所の現象学』の論説をもって、この原則が理論づけられる。
<「住まう」とは、その場所の「内側」にあって、場所を自分の一部として生きることである。………「場所」は人間との相互依存性を断ち切らぬよう連続するものでなければならず、日常景観は、それを有する「場所」の「内側」に長年定住する住民によってこそ、存在意義が確認される>
場所と実存との相互依存性を説く理論は、私が景観にこだわる理由についても明らかにしてくれたようで感動した。慣れ親しんだ景観は、私の存在の一部を構成している。だから、景観を壊すことは実存を断たれるような痛みを覚えるのだ。
日本の都市計画法は中央主導で全国一律、規制も緩やかであるため、乱開発を防止できず街並みの形成にも役立たない。地域の実情に応じた開発と規制を進めるため、自治体が編み出したのは「要綱」による行政指導であった。
神奈川県真鶴町は、80年代のマンション建設ブームによる乱開発を防止するため、町独自の条例をもって対応した。なかでも「美の基準」を設定して、高さや形、色彩などの形態的な指標にとどまらない質的な景観の美を創出することに意を用いた。「美の基準」は場所がもつ伝統的な景観美をキーワードにして表現される。その実施にあたっては、開発主体、住民、行政の三者による「デュープロセス」を通して客観性と公共性をもたせるように工夫された。
美しい景観創出に着目した自治体の画期的な試みである。しかし、この高い理想も住民の無関心と行政の意欲の欠如もあって有効に機能しているとは言いがたいようだ。
電線の地中化問題も取り上げられる。地中化の障壁となるのがまずはコストである。かつては事業者が全部を負担するべきと考えられていたが、今は自治体も応分の負担に応じるようになった。観光客が増えたという地中化の成功事例が出てきたこともあり、新たな公共事業として着目する政治家も現れている。またコストを削減する技術も開発されている。しかし、住民の新たな負担や変圧器のスペース提供という問題もあり、その進捗状況は遅々たるものであるようだ。
日常的な景観の醜悪化の原因を、戦後の社会経済史のスパンの中に置いて、新全総や都市計画法、大店法などの政策と法律の絡みから追究する意欲的な一書だと思う。海外事情も紹介されているが、新書というスペースでは十分紹介しきれない憾みがあるようだ。
著者は1956年生まれで、筆者も同世代である。昭和30年代、40年代に成長期を過ごし、高度経済成長で景観が変容していく時期である。著者の人格に組み込まれた場所もそのような変容と喪失を体験しているから、景観への感受が育まれたのだろう。高度経済成長以後に生まれた失われるべき景観の記憶のない世代にとって、本書の問題意識がどこまでアペールするか悲観的にならざるを得ない。
本書は4つの事例を取り上げて景観問題を論じる。まずは、日本の郊外景観がいわゆるロードサイドビジネスによって均質化していることが指摘される。そもそも田んぼや畑を潰して建物を建てるのであるから守るべき景観がないという意識のもと(田んぼが続くという景観こそ守られるべき景観なのであるが)、コスト優先で建物はチープなものとなり、チェーン店が多いから全国一律で、ドライバーに目立つような派手な色づかいと巨大な看板を林立させる全国どこへ行っても同じ味気ない風景で覆われてしまった。このような状況に至った経緯を戦後の経済成長と都市の膨張化の視点から説明される。欧米における都市計画が商業施設を規制しているのに対し、日本の大店法が都市計画の視点を持たず、関係者の経済的利益を調整するだけのものであったことが、郊外景観の荒廃をもたらした一因であることが語られる。
神戸は「山を削り海を埋める」開発を自治体として積極的に行ってきた。開発の論理と景観保全の論理が真向からぶつかったのが、「住吉川景観訴訟」であった。両者の主張をたどって問題点が検討される。経済的な利益を重視する立場からは、景観の保全は私的な趣味のように見えてしまう。また、景観の良し悪しについて共通の判断がないところで、景観権を認めると住民エゴになる可能性もある。これに対し、どのような景観が守られるべきかの原則は、そこに長年住んでいる住民の判断を基準にすべきだとする。エドワード・レルフの『場所の現象学』の論説をもって、この原則が理論づけられる。
<「住まう」とは、その場所の「内側」にあって、場所を自分の一部として生きることである。………「場所」は人間との相互依存性を断ち切らぬよう連続するものでなければならず、日常景観は、それを有する「場所」の「内側」に長年定住する住民によってこそ、存在意義が確認される>
場所と実存との相互依存性を説く理論は、私が景観にこだわる理由についても明らかにしてくれたようで感動した。慣れ親しんだ景観は、私の存在の一部を構成している。だから、景観を壊すことは実存を断たれるような痛みを覚えるのだ。
日本の都市計画法は中央主導で全国一律、規制も緩やかであるため、乱開発を防止できず街並みの形成にも役立たない。地域の実情に応じた開発と規制を進めるため、自治体が編み出したのは「要綱」による行政指導であった。
神奈川県真鶴町は、80年代のマンション建設ブームによる乱開発を防止するため、町独自の条例をもって対応した。なかでも「美の基準」を設定して、高さや形、色彩などの形態的な指標にとどまらない質的な景観の美を創出することに意を用いた。「美の基準」は場所がもつ伝統的な景観美をキーワードにして表現される。その実施にあたっては、開発主体、住民、行政の三者による「デュープロセス」を通して客観性と公共性をもたせるように工夫された。
美しい景観創出に着目した自治体の画期的な試みである。しかし、この高い理想も住民の無関心と行政の意欲の欠如もあって有効に機能しているとは言いがたいようだ。
電線の地中化問題も取り上げられる。地中化の障壁となるのがまずはコストである。かつては事業者が全部を負担するべきと考えられていたが、今は自治体も応分の負担に応じるようになった。観光客が増えたという地中化の成功事例が出てきたこともあり、新たな公共事業として着目する政治家も現れている。またコストを削減する技術も開発されている。しかし、住民の新たな負担や変圧器のスペース提供という問題もあり、その進捗状況は遅々たるものであるようだ。
日常的な景観の醜悪化の原因を、戦後の社会経済史のスパンの中に置いて、新全総や都市計画法、大店法などの政策と法律の絡みから追究する意欲的な一書だと思う。海外事情も紹介されているが、新書というスペースでは十分紹介しきれない憾みがあるようだ。
著者は1956年生まれで、筆者も同世代である。昭和30年代、40年代に成長期を過ごし、高度経済成長で景観が変容していく時期である。著者の人格に組み込まれた場所もそのような変容と喪失を体験しているから、景観への感受が育まれたのだろう。高度経済成長以後に生まれた失われるべき景観の記憶のない世代にとって、本書の問題意識がどこまでアペールするか悲観的にならざるを得ない。
2013年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
都市計画の学習上、参考文献として購入しました。
まちづくり、景観行政などの分野を考える上で大変刺激を受けました。
示唆に富む優れた論考だと思います。
まちづくり、景観行政などの分野を考える上で大変刺激を受けました。
示唆に富む優れた論考だと思います。



