大東亜戦争は、太平洋でアメリカと戦った戦争、中国大陸で中国国民党と戦った戦争、東南アジアでイギリス・フランス・オランダと戦った戦争を網羅した戦いを示すが、ノンフィクション作家・門田隆将が全国を訪ね歩いて声を集め、知られざる戦慄の現実を追った「太平洋戦争最後の証言」シリーズ第2弾の本書内容は、「ガダルカナル、ニューギニア、インパール、サイパン、ルソン、レイテ、硫黄島、沖縄、占守島。。。日本軍は、圧倒的な火力を誇る米軍とどう戦ったのか。兵士たちの生の証言は、これまで画一的だった戦場の常識を根底からひっくり返すものだった。髪が抜け、やがて歯が抜ける極限の飢え、鼻腔をつく死臭。生きるためには敵兵の血肉をすすることすら余儀なくされた地獄の戦場とはー。」 このレビューは、象徴的な「白骨街道の屍」のインパール作戦中止命令日(昭和19年7月3日)の76周年(77回忌)の命日に、陸軍玉砕された全兵士のご冥福をお祈りし、尊敬と感謝の気持ちを心から捧げるために投稿するものです。
<<本書購読及び関連資料&ブログによる主なポイント&コメントの列挙>>
●著者によれば、「奇跡の生還を果たした老兵たちを証言へと駆り立てたのは、悔恨と鎮魂、そして使命感だった。その意味でこの作品は家族と祖国のために自らの命を捧げた若者たちに対する、後世の日本人としての尊敬と感謝を込めた鎮魂歌でもある。」に賛同する。 ●私見だが、運良く生き残った大正生まれの青年と、戦中に散った青年の霊魂が生れ変った戦後のベビーブーム世代が一緒に、がむしゃらに働きつづけ、ついには世界から“二十世紀の奇跡”あるいは“東洋の奇跡”と呼ばれる高度経済成長を成し遂げ、構築したのが世界第二位経済大国の日本であったが、その大正生まれの青年がリタイヤと共に、少子高齢化により次第に衰退傾向にある。本シリーズで証言した元兵士は、運よく九死に一生を得て生還しているが、生死を分けたのは何か、それぞれのご先祖様のご加護が強く働いたのか、本シリーズで取り上げていないが、非常に関心のあるテーマである。 ●本書に少し触れているが、旧日本軍将兵、特に陸軍将兵が捕虜となることを肯じえず敢えて玉砕・万歳突撃を敢行したのは、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」が徹底されていたためで、更に、戦意高揚の「鬼畜米英の洗脳」、米兵によって「凌辱された上で殺される」という噂が、渡嘉敷村民315名の老若男女の自決、沖縄のひめゆり部隊・民間人などの自決、サイパン島・グアム島等の日本民間人のバンザイクリフから飛び降り自決をもたらした。 ●戦陣訓自体は、軍人・武人の心構え・処世訓を訴える真っ当な内容であり、殊更に異とするに足りないものだ。要は、その運用・解釈の問題であり、責任は戦陣訓の一節に帰せるべきではない。戦陣訓の悪名高い虜囚云々は、「名を惜しむ」の一節であり、その全文は、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし、生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」である。これを捕虜禁止命令と解するべきなのか?旧日本軍が、戦時国際法に関する教育にかなり無頓着であったことは事実であり、捕虜についての知識が無かったのは大きな不幸であった。 ●旧日本軍の軍事科学技術の軽視・遅れ(例。通話不能の零戦、貧弱な通信設備の機動艦隊、自動小銃VS 38式歩兵銃の戦い)及び兵站軽視では、圧倒的な軍事科学技術・火力・兵站を誇る米軍とは最初から勝ち目なしの太平洋戦争であった。 ▼超短波無線の指向性八木アンテナは、日英米で特許成立したが、米国では暗夜の飛行機誘導やレーダー受信の有用性を確認した。日本では軍部が「自ら電波を発信するなど狂気の沙汰」と実験すら拒否し、特許局も真珠湾攻撃前に特許更新を拒否した。旧日本軍での八木アンテナ実用化があれば、軍艦&航空機同士の戦闘に負けることはなく、大東亜戦争も有利に展開していたのではないかと残念である。 ▼帝国海軍は、戦闘機3機積んで地球一周半無給油で航行出来る、「潜特型」まさに「潜水空母」と呼ばれる「伊400型潜水艦」を持つレベルだったから、もっと潜水艦戦力を拡充して敵艦隊&輸送船撃破と兵站等の輸送船護衛強化をすべきだった。尚、伊400型潜水艦は潜水艦空母としていまだに世界唯一で、終戦後に米国が撤収してその大きさと機能と装備にビックリして、写真撮り徹底的に調べて資料を作り、ソビエトに見つかったら大変だとして海に沈めた。 ●旧日本軍の兵站(軍事装備の調達,補給,整備,修理および人員・装備の輸送,展開,管理運用についての総合的な軍事業務)の軽視、統帥権の独立という観点からも判る様に、旧日本軍は作戦の研究(戦術的な研究)に没頭、実際、作戦研究には余念がなかった。その一方、日本や敵国の国力を考え大局的に戦争を考えるという戦略的視点がなかった。それまでの戦争が基本的に決戦場における指揮官の采配や軍隊の士気に勝敗を左右されていたのに対し、第2次世界大戦では必要な兵隊と物資を決戦場に送り続けることのできたほうが勝った。作戦の優劣以上に兵站術が大きかったという評価だ。正に、『素人は「戦略・戦術」を語り、プロは「兵站」を語る』というように、第2次世界大戦はグローバルロジスティクスの闘い「グローバル補給戦」だった。 ●ガダルカナル、ニューギニア、インパール、サイパン、ルソン、レイテ、硫黄島、沖縄、占守島。。。いずれも、髪が抜け、やがて歯が抜ける極限の飢え、鼻腔をつく死臭、生きるためには敵兵の血肉をすすることすら余儀なくされた地獄の戦場は、制空権、制海権を支配され、多くの護衛なき輸送船団がアメリカの潜水艦・爆撃機などの餌食となり、食料・武器・兵員等の補給が出来なかったからである。 従って、二度とこのような悲劇の敗戦を繰り返さないために、食料・武器・兵員等の兵站補給ナシの無謀な作戦を命令した当時の日本軍・陸軍上層部、例えば、兵站補給ナシの無謀な作戦命令を下したインパール作戦の「愚将」牟田口廉也司令官、辻政信陸軍参謀の独断専行によるニューギニア戦線の無謀な陸路山越えのポートモレスビー攻略作戦、その他の無謀な作戦命令を下した多くの司令官・参謀たちの責任を糾弾して名誉剥奪などの戦犯処罰のケジメを行い、今後の新しい日本軍では、軍事科学技術重視・兵站重視・戦力一挙投入などの先進国並み軍事思想に改革することが、先の大戦で戦死した二百万人を超える兵士たちの犠牲に報いる唯一の対策である。 ところで、辻政信陸軍参謀はなんら罪を問われることなく終戦を迎えたが、GHQの戦犯追及を逃れ、国会議員に転じ、最後は東南アジアのラオスで謎の失踪と波乱の生涯を歩んだ。更に、牟田口廉也司令官には重大な責任があるが、彼もなんら罪を問われることなく終戦を迎え、日本で77歳の天寿を全うしており、こんな理不尽なことは許されないのではないだろうか!と義憤を感じる。 ●元兵士によれば、「あと何か月か戦争が終わるのが早かったら、どれだけの命が助かっていたか」と言うものだった。言い換えれば、上層部に戦争を終結させる「勇気」がなかったために、死ななくてもいいどれほどの多くの「命」が失われたかということだ。作戦を決定するのは、エリート軍官僚たちだ。それは東京にある大本営、あるいは陸軍参謀本部の「机上」においてある。そこには“飢え”もなければ、“苦痛”もない。駒を図上で動かすがごとく部隊を配置し、戦争で最も重要な「補給」さえ軽んじられた無謀な作戦が軍官僚たちによって立案されていった。飢餓の戦場―敵と戦う以前に、飢えと病いで死んでいった元兵士たちが体験した戦争とは、果たしてどんなものだったのか、その一端を本書が伝えることができていたなら幸いであるとの著者の見解に全面的に賛同する。
【本書の目次 主なポイント&コメント】
<はじめに> ; ●本書は、「戦史」ではなく「体験」であり、「記録」ではなく「証言」である。これは、終戦から70年近く生き抜き、90代を迎えた老兵たちが、自身の記憶に基ずいて、その悲劇の戦争の実態をありのまま後世に伝えようとしたドキュメントである。著者は、玉砕の戦場から生還した元兵士たちに、「なぜあなたは生き残れたのですか」と問いつづけたが、誰もがその問いに「それは運命としか考えられない」と答えた。彼らの証言とは、戦死した二百万人を超える兵たちが、生き残った戦友の口を借りて著者に「遺言」を託しているのではないかと思われた。「悼む」と言う言葉には、「死者を記憶する」という意味が含まれているというが、戦場に散った二百万人を超える方々のことを忘れないことが、私たち後世の世代にとって最も大切なことではないだろうかの見解に賛同する。
<第一章> 悲劇の序章「ガダルカナル」の死闘 ; ●真珠湾奇襲攻撃に勝利し、豊富な天然資源を獲得するために電撃的な南方進出を果たした旧日本軍にとって、ガダルカナル島こそ「命運」をにぎる地だった。だが、マラリア蚊が生息するジャングルに覆われたこの島で、半年に渡る攻防の末、参加兵力およそ31,400名のうち、実に28,000名以上が戦死、もしくは餓死し、撤退を余儀なくされた。 ●歩兵だけで一気にルンガ飛行場奪還を目論んだ情報なき無謀な攻撃で全滅した一木支隊の第一梯団の後釜に、阿部彰梧が所属する青葉大隊石橋中隊が川口支隊と共にルンガ飛行場奪還戦に臨んだのである。旧日本軍の突撃の凄まじさは、米軍側の記録「海兵隊公刊戦史」によれば、人類が未だ「遭遇したことがない」ほどの猛烈な攻撃、あるいは「血染めの丘」という米軍の表現に、旧日本軍の攻撃がいかに強烈なものだったかが想像できる。この時、石橋中隊はわずか20人ほどになっていた。阿部彰梧は左足に被弾し、重傷を負い、満足な治療も出来ない中、やがて傷口からウジが湧き、化膿した。足を引きずって歩く阿部に、後方に下がって治療するように中隊長命令があり、お蔭でガダルカナルでは奇跡的に生き残った。 ●<文庫版あとがき>に記載されているが、仙台青葉大隊の阿部彰梧さんは2012年に他界されたが、「自分の骨をガダルカナルの血染めの丘に埋めてくれ」の遺言の願いを叶えるために、夫人と3人の娘さんはガダルカナルに飛んだ。夫人は「小さな袋を八つ編んで、それぞれに夫の骨と、陸軍志願した19才の時の写真、それに家でとれた米を入れて、“血染めの丘”に埋めました。おじいちゃんになった主人の写真を入れても、戦友にはわからないでしょう。だから19才の時の写真を入れたんですよ。米を入れたのは、あそこは餓死の島ですから。。末の娘が、その袋を見ながら、“お父さん、よかったね。お父さん、よかったね。”と泣いたんです。それを見ながら、私も涙が止まらなくなって。。」と著者に報告した。小生もこの逸話に感涙したが、ガダルカナルの全ての日本兵戦没勇者に合掌!
<第二章> 血肉をすすったニューギニア戦線 ; ●厚生省資料によれば、ニューギニア戦線に投入された旧日本軍の総兵力は161,000人、そのうち戦死、戦病死者はおよそ127,000人にのぼっている。 ●ニューギニア南岸のポートモレスビーはオーストラリア攻略の最大の拠点となるので、西村らの南海支隊にその攻略が命じられ、辻参謀の独断専行により十分な食料・弾薬補給なしでの陸路山越え案でポートモレスビー攻略が実行された。 ●敵と対峙する最前線で餓死寸前となった西村は、「ある時に敵兵の腹を割いて、はらわたを引っ張り出した時に汚れた手の血をなめたが、飢えた身体が何かを求めているから、血が甘く感じた。この頃は、もうかたいものはノドを通らないので、身体自体がげえっと吐いて受けつけません。だけど、柔らかい内臓の肝は吸えたのでなんとか生き抜いた。血の汁で塩分の補給もできたようだ。」赤土を舐め、敵の肝の汁と血をすすりながら、西村はかろうじて生命をつないだ。「よく兵隊同士が、“共食い”をしたという話があるが、兵隊は骨と皮に痩せて食うところなんてないですよ。同じ食うなら、それまでうまいもの食って、完全な身体をしている敵兵しかありません。肉は固形物だから、飢餓の兵隊のノドには通りません。ただ敵の内臓の汁をすすって、ノドへ流し込んだというのが本当ですよ。」
<第三章> インパール作戦「白骨街道」の屍 ; ●昭和19年援蒋ルート遮断等のため牟田口廉也司令官は、短期間で作戦決着させるため、将兵らは険しい道のりを素早く踏破できるようにできるだけ軽装にさせられ、食料も一人当たり米一升だけを持たせ、不足分は現地調達の補給ナシでのインパール作戦を命令し、旧日本軍と独立の意欲に燃えるインド国民軍の合計約10万名がアラカン山脈を超え、徒歩で進撃し、一時はコヒマを占領し、インパール周辺まで突入したが、弾薬、食糧の補給も途絶し、飢餓とマラリア感染が重なり、死の撤退を余儀なくされた。そのため旧日本軍参加将兵約86,000人の内、戦死者32,000人余り、戦病者は4万人以上、インド国民軍の犠牲者は数千名といわれ、そのほとんどが餓死者という大敗北を喫し、インパールから撤退する山野は草むす「白骨街道」と呼ばれるほど悲惨を極めたのでした。 ●劣悪な環境でマラリアに感染する兵士が続出し、食料・弾薬補給なき日本軍はついに作戦続行が不可能でインパール作戦中止となり、追撃してくる連合軍からの撤退は惨めなものだった。インパール作戦から生還した祭兵団・砲兵の井上誠氏によれば、「ハゲタカはこっちが死ぬのを待っており、じっと座っていたら、すぐに食いつきよんねん。ハゲタカは人間の目玉からどつきよんねん。顔が出てるから、それから頬をつついてな。生きてても、手でこれを追えなんだら、やられるわ。生きながら食われるもんもおるわけや。白骨になっているのはハゲタカに食われてしまうのや。」死体にはすぐウジが湧く。傷口にもウジが湧いた。ハエが止まったところから必ずウジ虫がでてくるのである。「食べるもんがあらへんやろ?元気なやつは、そのウジ虫を採って食うとんねん。わしは食べへんかったけどな。けど、見たで。負傷してケガしてるところに沸いたウジ虫を食うとったやつがおったやわ。死体がすぐに白骨になるんは、ハゲタカとウジのせいや。」
●「究極の敗戦利得者 外務省の隠蔽する満州建国の史実」鈴木荘一著によれば、「インパール作戦の日本軍敗走を追っていくと、突如、頭上から一発の銃声が響き、イギリス人中隊長が絶命している。樹上に日本兵を発見して軽機関銃を乱射して確認すると、樹上の日本兵は自分の身体を大樹に縛り付けて固定し、銃弾一発を放ってイギリス人中隊長を倒し日本兵の敗走を擁護したうえ、蜂の巣のようになって死んでいる。この日本兵は予備の銃弾を持っていなかったので一発入魂、一発必中を期したと判定された。日本人のこのメンタリティーはどこから来るのか?」というイギリス人駐在武官の素朴な疑問。 ⇒⇒⇒ 小生のコメントは次のようである。インパール作戦の退却において、仲間が一人でも多く退却できるように、自分の命を犠牲にして『捨て奸(すてがまり)』や『座禅陣』と呼称される決死の足止め役を担うために、自分の身体を大樹に縛り付けて固定し、追撃の隊長に一発入魂、一発必中の狙撃を行い、時間稼ぎをして仲間の退却を擁護したわけで、関ヶ原合戦時の『島津の退き口』の歴史的実話をもとに、このようなサムライ日本人の献身的な武勇と生き様をイギリス人駐在武官に説明すべきである。 つまり、関ヶ原合戦時の『島津の退き口』とは、島津軍(約1500)が東軍(約80,000)の追撃を食い止めるために文字通り捨身で東軍に襲いかかった『捨て奸(すてがまり)』や『座禅陣』と呼称される決死の足止め役の歴史的実話を知るべきである。この時の島津軍(約1500)が敗走する日本軍で、追撃する東軍(約80,000)がイギリス軍に相当するが、『捨て奸(すてがまり)』や『座禅陣』とは、火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが、ある程度の集団として本隊から離脱し、座禅を組み座り込んで火縄銃を構え、敵将を狙撃する。そして撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み死ぬまで戦うという時間稼ぎ戦法である。確実に追手は足止めを食らうが、捨て奸の兵士もほぼ確実に死ぬという、トカゲの尻尾切りも真っ青な壮絶極まりない戦法である。更に言うとこの役目、命ぜられた人数よりも自分からその役を買って出た人数の方が多かったとも言う。現代でいうところの、「ここは私が!」であり、「ここは俺に任せて先に行け!」もしくは「道連れだー!」である(或いはその両方)。この前代未聞の「前進する」撤退戦が、後に『島津の退き口』と呼ばれ、薩摩隼人の武勇を世に知らしめる事となった。大将である島津義弘は脱出に成功。大阪を経由(人質の妻などを奪還)し、堺の港から船で薩摩まで辿りついた。この時、義弘の周りにいたのは僅かに80名ばかりだったと伝えられる。 明治維新を成し遂げ、旧日本軍創設した長州・薩摩の軍事教育を受けた旧日本軍人には、この『島津の退き口』思想が脈々と受け継がれており、インパール作戦退却時の決死の足止め役の実話はその表れではないかと思われる。
<第四章> 玉砕の島「サイパン」の赤い花 ; ●太平洋戦争の勝敗を分けるサイパン攻防戦は、旧日本軍第43師団をはじめとする4万人近い将兵を潰滅させた米軍の圧勝に終わったが,サイパン守備隊は全部で3万2千人いて、日本に帰ったのがおよそ1200人、それがサイパンの玉砕戦だった。 ●悲劇の連隊として知られる歩兵第十八連隊はサイパンへの途上で輸送船が撃沈され、サイパン島にやっと上陸した兵士の伊藤真一は、サイパンの戦闘で「七発」も身体に敵の銃弾を受けながら、それでも生き抜いた。なぜ、玉砕の戦場で生き残れたかを聞くと、伊藤真一はひと呼吸おいて、こう答えた。「戦場では、死のうと思っても死ねるもんでもないし、生きようと思っても生きられるもんでもない。弾を一つも受けてないのに死んだ戦友もおれば、わしみたいに七発も受けて生き残ったのもおる。それぞれが持って生まれた自分の運命だったろうなあと、いま思うでね」
<第五章> レイテ島「八万人」の慟哭 ; ●第26師団独立歩兵11連隊の数少ない生還者の一人である64歳となった長坂正一は、昭和62年3月、激戦の地・パラナスを「レイテ島慰霊巡拝団」のメンバーの一人として訪れ、戦友に向かってこう語りかけた。「お前たちに、この俺の声が聞こえるか!その霊魂とやらがこの辺にいるのなら、俺のこの肩に、そして今日この地に慰霊参列されたそれぞれの方たちの、背中や胸に抱かれて、懐かしの故郷へ還ろうではないか、なあ、みんな!」レイテ島での旧日本陸軍の死者およそ八万人、そのすべての戦友に、長坂は万感の思いを込めてそう語りかけた。
<第六章> 二十万人戦死「ルソン島」の殺戮現場 ; ●日米の正規軍が激突した最大の戦場はフィリピンで、フィリピン決戦に参加した旧日本軍将兵は630,967名、戦没者総数は498,600名、軍属及び一般邦人約2万名が加わり、戦没者総数は518,000人に及ぶ。同時に、現地住民の犠牲者は、111万人に達している。 ●米軍司令官ダグラス・マッカーサーがフィリピン進攻に拘ったのは「不名誉な軍人」としての報復とフィリピン利権の再獲得だった。 ▼戦艦ミズーリ艦上の降伏文書調印式にて、2通の文書に2本のペンでそれぞれサインを終えたマッカーサーは、そのペンをフィリピン降伏のウエーンライト中将とシンガポール降伏のパーシバル将軍に渡した。正に、マッカーサーの執念の表れであった。 ▼ダグラス・マッカーサーが恨み骨髄に達する日本軍指揮官を戦犯として処刑し、日本を骨抜きにすることに拘ったのは、コレヒドール島から部下を見捨ててオーストラリアへ脱出するという行動を取った「不名誉な軍人」としての報復だったと思われる。 ▼ダグラス・マッカーサーの恨みは強く、日本がポツダム宣言を受諾してから、まず自分をフィリピンから追い落とした本間雅晴陸軍中将、終戦時のフィリピン防衛司令官山下奉行陸軍大将の二人を、まったく形式的な裁判の後、簡単に死刑にした。これはリンチであった。
<第七章> 玉砕「硫黄島」奇跡の生還者 ; ●小笠原兵団長・栗林忠道中将の「敢闘ノ誓」に代表される徹底的な抵抗戦術と兵たちの気迫によって、硫黄島では凄まじい攻防戦が繰り広げられた。旧日本軍は陸海あわせて21,000人の守備隊を配し、米軍は61,000人の大兵力を投じたが、旧日本軍の死傷者は20,900人、米軍は28,600人に及んだ。それは、太平洋戦争下の島嶼戦で、死傷者の数が唯一、アメリカが日本を上まわった闘いとなった。 ●栗林中将の信頼が厚く、硫黄島に唯一、連隊軍旗を奉じて乗り込み、硫黄島で最も激しい死闘を繰り広げた鹿児島の陸軍歩兵第145連隊(連隊長・池田増雄大佐)は、総員2727名で硫黄島に上陸し、戦死者は2565名、生還者はわずか162名だった。戦国時代の昔から兵の強さで名高い島津(薩摩)軍は薩摩隼人の誇りであり、関ヶ原合戦時の『島津の退き口』で薩摩隼人の武勇を世に知らしめ、その血を引き継ぎ、日米決戦の硫黄島の闘いで大日本帝国陸軍の主力として米国海兵隊第四師団を相手に勇猛果敢な死闘により世界に名を成さしめた陸軍歩兵第145連隊において、衛生隊に配属された向江松雄兵長は、島が制圧され、ゲリラ戦に移行してから、向江も食糧と水を確保するために何度も米兵のいる場所へ盗みに行っているが、一緒に行った兵が撃たれて死んでも、不思議にも向江には当たらなかった。やがて米軍の投降呼びかけが多くなり、意を決して壕から出て投降し、故郷の地を踏んだ。 尚、関連資料によれば、陸軍歩兵第145連隊長の池田増雄大佐は、保持していた連隊軍旗を米軍に渡さないために奉焼することにした。それは硫黄島にたった一つだけあった軍旗でもあった。昭和20年3月14日、6人で連隊軍旗が奉焼された。旗手と軍旗を守っていた直衛兵はそれをみて泣いていた。そして、3月26日に、栗林兵団長、市丸少将、池田増雄大佐等を先頭に残存の陸海軍約400名の総攻撃が行われ、米海兵隊、陸軍航空部隊の幕舎を急襲、約3時間にわたり死闘を展開し、ついに玉砕した。
<第八章> 癒えることなき「沖縄戦」の傷痕 ; ●沖縄戦は昭和20年3月から始まったが、アメリカはこの戦いに投入した総兵力は、実に陸海空あわせて55万人にのぼる。 旧日本軍の沖縄守備隊およそ10万人、九州各地から特攻機だけで全1900機を繰り出し、沖縄関連の神風特別攻撃だけで、3千名もの若者の命が喪われた。 ●沖縄では有名なひめゆり部隊をはじめ野戦病院での悲劇が多い。軍が退却することによって、当初、後方に位置していた野戦病院が「最前線」となり、取り残される事例が相次いで、そのたびに、逃げることができない重傷患者たちの命が喪われた。 ●沖縄での第32軍の組織的な抵抗が終わったのは、昭和20年6月19日である。牛島満司令官は部下将兵に最後の軍命令を出し、摩文仁の丘の洞窟で6月23日、長勇参謀長と共に自決した。慶良間諸島侵攻から始まった3ヶ月に及ぶ沖縄戦は、「死して悠久の大義に生くべし」という言葉と共に終結した。
<第九章> ソ連軍急襲「占守島」の激闘 ; ●「日米は誰と戦ったのか」江崎道朗著によれば、ヤルタ密約によりソ連軍の全千島列島侵攻のために、大量の食糧・燃料・資材支援し、更に軍艦供与して乗組員訓練もしたのはアメリカだったことを知り、その背信行為に愕然とした。 本書に記載ないが、満州・オトポール事件で多くのユダヤ人を救助してイスラエルのゴールデンブックに記載されている樋口棋一郎中将が、千島列島占守島の戦いでソ連軍撃退して時間稼ぎをしたお蔭で北海道が守られた事実、つまり「樋口棋一郎中将はソ連から北海道を守った救世主」を日本国民に広く周知徹底すべきですね。
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