大東亜戦争は、太平洋でアメリカと戦った戦争、中国大陸で中国国民党と戦った戦争、東南アジアでイギリス・フランス・オランダと戦った戦争を網羅した戦いを示すが、ノンフィクション作家・門田隆将が全国を訪ね歩いて声を集め、知られざる戦慄の現実を追った「太平洋戦争最後の証言」シリーズ第3弾の本書内容は、「大和が沈む時は、帝国が沈む時」と謳われた巨艦は、昭和20年4月7日午後2時23分、沖縄への水上特攻作戦の末に、東シナ海で永遠の眠りについた。乗組員3332人のうち、生還したのはわずか276人に過ぎなかった。作戦参謀、設計者、主砲や高角砲、そして機銃を担当した乗組員ら多数の証言から、戦艦大和の実像を浮き彫りにする。なぜ戦艦大和は今も「日本人の希望」でありつづけるのか。戦争ノンフィクション3部作の完結編。
このレビューは、戦艦大和沈没&乗組員殉職75周年(76回忌)の命日に、ご冥福をお祈りし、尊敬と感謝の気持ちを心から捧げるために投稿するものです。
<<本書の購読及び関連資料&ブログによる主なポイント&コメントの列挙>>
●本書によれば、「奇跡の生還を果たした老兵たちを証言へと駆り立てたのは、悔恨と鎮魂、そして使命感だった。その意味でこの作品は家族と祖国のために自らの命を捧げた若者たちに対する、後世の日本人としての尊敬と感謝を込めた鎮魂歌でもある」ことに賛同する。 ●私見だが、運良く生き残った大正生まれの青年と戦中に散った青年の霊魂が生れ変った戦後のベビーブーム世代が一緒に、がむしゃらに働きつづけ、ついには世界から“二十世紀の奇跡”あるいは“東洋の奇跡”と呼ばれる高度経済成長を成し遂げ、構築したのが世界第二位経済大国の日本であったが、その大正生まれの青年と戦後のベビーブーム世代がリタイヤと共に、少子高齢化により次第に衰退傾向にある。本シリーズで証言した元兵士は、運よく九死に一生を得て生還しているが、生死を分けたのは何か、それぞれのご先祖様のご加護が強く働いたのか、本シリーズで取り上げていないが、非常に関心のあるテーマである。●連合艦隊作戦参謀の三上作夫・元中佐によれば、「大和の沖縄特攻作戦の裏には、大和を敵に戦利品として渡したくない、最後の一艦まで戦っていたいという海軍軍人の精神があった。それが帝国海軍の精神です。当時は、戦争とは最後の一人までしゃにむに戦って死ぬもんだと考えられていたわけで、1億総特攻が唱えられ、戦争に負ければ何もなくなるという「オール・オア・ナッシング」の状況だったわけです。あの戦争は、ものが尽きて負けたということです。大和も、もう燃料がないから、出たんですよ。そこまで帝国海軍は戦ったということです。大和が沈んだ時、文字通り帝国海軍は沈んだわけですよ。」 ●ミッドウエー海戦では、米海軍は帝国海軍の暗号書をほとんど解読し、三隻の空母を中心とする米機動艦隊が、南雲機動艦隊を虎視眈々と待ち構えていたのだ。真珠湾攻撃に参加して空襲部隊を指揮した淵田大佐によれば、大和は、ミッドウエー北方海上にいる米空母の呼出信号(コールサイン)の傍受に成功しているが、無線封鎖中の為に、これを南雲機動艦隊に伝えていない。四隻の空母が不意打ちを受け、沈没するのはその翌日のことだ。空母の脆弱性は無線兵装にあった。空母の背中は飛行甲板であるが、その周辺に高い無線マストなどは禁物である。かくも空母の無線機能は貧弱だから、南雲機動艦隊のように赤城を旗艦とする場合、最高指揮官の指揮中枢としては不十分である。空母部隊の脆弱性と通信機能の貧弱さを具体的に指摘した上で、山本長官が大和に乗艦したまま遥か後方にいたことを痛烈に批判している。 ●空母を世界初で作ったのは日本で、空母機動艦隊を発案したのも大日本帝国海軍で、戦艦と駆逐艦、潜水艦と輸送船で空母を守りながらの機動艦隊は択捉島に集まり、真珠湾に向かい「トラトラトラ作戦」を実行したのです。そして、超短波無線の指向性八木アンテナは日英米で特許成立したが、米国では暗夜の飛行機誘導やレーダー受診の有用性を確認した。日本では軍部が「自ら電波を発信するなど狂気の沙汰」と実験すら拒否し、特許局も真珠湾攻撃前に特許更新を拒否した。このような最先端軍事技術があったのにうまく活用できなかったのは、日本陸海軍上層部には軍事技術無知をカバーすべく精神論優先の軍事思想があり、第一次世界大戦以後の欧米の軍事技術・兵器・兵站等の急激な発展を知らず「井の中の蛙」になっていたことが原因であり、少なくとも帝国海軍での八木アンテナ実用化があれば、軍艦&航空機戦闘に負けることはなく、大東亜戦争も有利な展開になっていたのではないかと残念である。 ●私見だが、太平洋戦争の大日本帝国海軍側の主役は、山本五十六連合艦隊司令長官、南雲忠一機動艦隊司令官、源田実参謀、栗田健男機動艦隊司令官だったが、いずれも、ここ一番の最も重要作戦実行時に、リーダーシップを取る気概がなく責任判断を回避して、軍人として、またサムライ日本人としての矜持を疑われる行動であったが、これは凡将の証明か、臆病者か、特に、山本五十六はハーバード大に2年間留学し、アメリカ大使館付駐在武官であったので、アメリカのスパイ疑惑説もある。 結局、太平洋戦争は、能力・実績ではない陸大・海大卒業成績順位、年功序列の階級制度弊害を打破できない帝国陸海軍の宿痾による敗戦だったと思われるが、例えば、真珠湾攻撃とミッドウエー島攻略戦では南雲忠一中将の代わりに勇将山口多門少将を機動艦隊のトップに、レイテ湾攻撃では栗田健男中将の代わりに智将小沢治三郎少将を機動艦隊のトップにしておれば、局面が大きく好転していたのではないかと思われる。 ▼山本五十六司令長官の場合 ; 山本司令長官は「是非やれと言えば、初めの半年や一年は随分と暴れてみせます」と宣言し、狭く浅い真珠湾内の軍艦攻撃のために、鹿児島湾で零戦の魚雷攻撃訓練を徹底的にやった後に出撃したが、この日本の命運を賭けた真珠湾攻撃では、本来の山本司令長官は旗艦「長門」に座乗のまま、南雲機動艦隊の陣頭に立って、これを指揮すべきだった。さらに、ミッドウエー島攻略戦においても、山本司令長官が旗艦「大和」に座乗のまま、南雲機動艦隊の陣頭に立って、これを指揮すべきだった。ところが、山本司令長官は、真珠湾攻撃では遠く離れた瀬戸内海の連合艦隊柱島泊地の旗艦・長門に鎮座し、ミッドウエー島攻略戦では南雲機動艦隊の遠い後方に控え、赤城・加賀などの航空母艦4隻撃沈報告を受けても、将棋指しを止めなかった。この辺に、山本司令長官に対する凡将論が湧くのである。ちなみに、日本の命運を賭けた日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎司令長官は連合艦隊旗艦の戦艦「三笠」に座乗し、先頭に立って有名な“T字戦法”により連合艦隊の指揮を執ってロシアのバルチック艦隊を撃破したが、同様に、太平洋戦争中期以後のアメリカ機動艦隊においても、第三艦隊のハルゼー長官、第五艦隊のスプルアンス長官といい、みんな戦艦に座乗して、空母群を基幹とする機動艦隊の指揮を執ったのである。そして、山本司令長官は、真珠湾攻撃で第三次攻撃をやらせなかったことについて、本来は、臨時軍法会議で南雲司令官と源田参謀を処罰すべきであった。更に、ミッドウエー島攻略戦で「赤城と加賀は絶対に魚雷攻撃以外は考えるな」の厳命に対して、源田参謀の「無謀な魚雷から爆弾への付け替え」の命令違反について、本来は、臨時軍法会議で南雲司令官と源田参謀を処罰すべきであった。この辺にも、軍隊組織維持で最も重要な命令違反処罰のマネージメントが欠けている山本司令長官に対する凡将論が湧くのである。 ▼南雲司令官・源田参謀の場合 ; 機動艦隊の南雲司令官と源田参謀が、真珠湾攻撃において戦艦用・航空機用油タンクの第三次攻撃をやらせなかったが、これは軍法会議での処罰対象の命令違反である。更に、ミッドウエー島攻略戦において、山本五十六司令長官から、「赤城と加賀は絶対に魚雷攻撃以外は考えるな」と厳命されていたが、源田参謀は「無謀な魚雷から爆弾への付け替え」を指示し、その作業で現場は大混乱中に、1号偵察機が報告しなかった敵の急降下爆撃機ドーントレスに不意打ち爆撃されて、飛行機のまわりに転がっていた魚雷や爆弾が誘爆して航空母艦4隻が火だるまになって沈没していった。南雲司令官と源田参謀は軍法会議での処罰対象の命令違反である。 ▼栗田司令官の場合 ; レイテ沖海戦の捷一号作戦とは帝国海軍がこの時点で動員可能な海軍兵力をすべて投入した作戦で、その最終目標は、レイテ湾に上陸中のアメリカ陸軍部隊と敵艦隊を一挙に殲滅することで、小沢部隊を囮にして多大な犠牲をもとに突入を果たすべきだった大和旗艦の栗田艦隊は、連合艦隊司令部の強い命令電文「天祐を確信し全軍突撃せよ」を無視し、不確かな電報情報により敵正規空母部隊を追うためにレイテ湾突入を中止して北に向かっている。この時にレイテ湾では、マッカーサー司令官は艦上に在り、船団は今揚陸中であり、海岸の揚陸物資は山積していた。大和の主砲がこの時、マッカーサーら上陸部隊に向かって、「もし、火を噴いていたら」と、多くの戦史研究家によって、今も悔やまれつづけているのも無理はない。大和主砲の威力が最も発揮されるべき千載一隅のチャンスは、こうして「未来永劫」に去ったのである。栗田艦隊がレイテ湾突入しなかったので、マッカーサー司令官指揮のアメリカ陸軍部隊上陸&軍事物資揚陸を阻止できず、レイテ島の帝国陸軍が玉砕した。もしも、栗田艦隊がレイテ湾突入しておれば、レイテ島・ルソン島での日米フィリピン決戦も帝国陸軍はもっと善戦したと思われる。栗田司令官に変針を決断させたとされる電報は、敵の謀略電報ではなかったか、あるいは、栗田司令官と参謀たちによる捏造ではなかったかと言われている。当事者がついに口を開くことのなかったこの電報は、栗田艦隊のほかの艦ではどこも受信されなかった実に不思議なものであった。栗田司令官とその参謀は軍法会議での処罰対象の命令違反である。 ●私見だが、初戦の英国の東洋艦隊壊滅・シンガポール陥落後の東南アジア・南アジア・インド洋・アフリカ東部には日本の敵は存在していなかったので、帝国海軍はミッドウエー海戦をせずに、海軍主力の一部をインド洋に展開して制空権・制海権を握っておれば、インド・ビルマの英国軍、インドネシアのオランダは駆逐されてインド・ビルマ・インドネシアの早期独立、中国援蒋ルート遮断による蒋介石国民党軍へのダメージ、アフリカ諸国の早期独立、中近東地域の英国軍ダメージによるドイツ・ロンメル軍団の北アフリカ戦線への援護が可能だったわけで、ひょっとしたらヨーロッパ戦線はドイツ勝利だったかもしれない。そして、真珠湾攻撃時の第三次攻撃による石油タンク・海軍工廠の破壊、ついでにハワイ占領、更に、順次サンディエゴ海軍工廠破壊とパナマ運河占領しておれば、アメリカは手が出せず、後年 帝国陸軍が大きな被害を蒙ったガダルカナルの戦い、ニューギニア作戦、インパール作戦、フィリピン作戦もなかったわけで、太平洋戦争も、そして最終的な大東亜戦争も勝っていたと思われる。大本営の致命的な戦略作戦ミスは痛い!
【本書の目次 主なポイント&コメント】
<はじめに> ; ●「大和が沈む時は、帝国が沈む時」そう謳われた人類未曾有の巨艦「大和」は、帝国海軍の誇りだった。大和に携わった人は誰もがそう語り、実際にそれを信じて疑わなかった。全長263メートル、横幅38.9メートル、満載排水量七万二千トンというこの巨艦は、十分な燃料もなく、航空支援もない中、無謀とも言える沖縄への水上特攻作戦により、昭和20年4月7日午後2時23分、その期待と夢に応えることなく、多くの若者がこの人類未曾有の巨艦と共に東シナ海に沈み、永遠の眠りについた。大和に乗り込んでいた3332人のうち戦死者は3056人で、死亡率は91.7%に達し、文字通り九死に一生を得て生還したのは、わずか276人に過ぎなかった。大和の沈没から四ケ月後、大日本帝国は「大和が沈む時は、帝国が沈む時」の言葉通り、ポツダム宣言を受諾してこの世から消えた。その意味では、「戦後日本」は戦艦大和の命と引き換えに生まれ出たものでもあった。
<第一章> 重い口を開いた作戦参謀 ; ●かって連合艦隊作戦参謀の三上作夫・元中佐によれば、 ▼「大和の沖縄特攻作戦の裏には、大和を敵に戦利品として渡したくない、最後の一艦まで戦っていたいという海軍軍人の精神があった。それが帝国海軍の精神です。当時は、戦争とは最後の一人までしゃにむに戦って死ぬもんだと考えられていたわけで、1億総特攻が唱えられ、戦争に負ければ何もなくなるという「オール・オア・ナッシング」の状況だったわけです。」 ▼大和の特攻は決して無意味なものではなかった。大和の水上特攻に呼応した菊水一号作戦では、持っていた航空機七百数十機も参加し、陸軍の航空機も加わり、絶対猛烈な特攻攻撃をやり、敵も悲鳴をあげるくらいの戦果をあげており、大和が沈んだことが全く無意味であったわけではない。 ▼あの戦争は、ものが尽きて負けたということです。大和も、もう燃料がないから、出たんですよ。そこまで帝国海軍は戦ったということです。「大和が沈んだ時、文字通り帝国海軍は沈んだわけですよ。」
<第二章> 極秘建造された巨大戦艦 ; ●昭和12年11月4日に起工した戦艦大和は、2年10ヶ月という年月をかけて昭和15年8月8日に進水に至る。戦艦の場合、建造における「進水」とは船体を完成させただけに過ぎず、艦橋、主砲、副砲、高角砲・・・等の艤装はまったく行われおらず、ただ巨大な船体が海に浮かんだだけである。一番艦の戦艦大和は呉海軍工廠の「ドック建造」方式、二番艦の戦艦武蔵は三菱重工長崎造船所の「船台建造」方式で建造された。「ドック建造」は、造船所の中に海と繋がった巨大なドックを掘り、海との仕切りにあたる「ドックゲート」を閉め、水を抜いてから、この中で船を建造する。船が出来上がった時に再び水を入れて船を浮かせ、仕切りを開けて海に引き出す方式だ。
<第三章> 姿を現わした大和 ; ●戦艦大和は、およそ1年をかけて艤装が行われた。第一主砲塔、第二主砲塔を艦の前部に、第三主砲塔を後部に置いた。ひとつの砲塔の重量は約2800トンで、それを二基も前部に置いたのでバランス上、第一艦橋が艦の真ん中あたりに位置し、そのうしろには巨大な煙突、そのうしろには第二艦橋、そして第三主砲塔が位置するという特徴を有し、艦のバランスとして「前方が長く後方が短くなっている」のである。46センチ三連装の主砲塔を搭載する艦として、“最小”の大きさを目指したのが戦艦大和である。 ●海上公式試運転では、荒天の中で、約七万トンの重量を持つ大和が速力27.4ノット(時速50.74キロ)を記録し、波を切り裂く大和の威容に関係者は息を呑んだが、海軍幹部たちは大いに満足した。 ●昭和16年12月7日(真珠湾攻撃の前日)、主砲の艦上射撃の公試が周防灘にて行われた。主砲・副砲の威力、これらが発射する時の爆風も想定通りだったが、最上甲板にいる人間は「避難」しなければならないことが改めて証明された。そして、主砲と副砲は同時に撃つことが出来ず、敵艦隊への砲撃と波状攻撃してくる敵機の大編隊に立ち向かう対空戦闘に対して、それは一抹の不安を残した実験結果でもあった。
<第四章> 痛恨のミッドウエー海戦 ; ●海戦前日の6月4日、大和の敵信傍受班は、ミッドウエー北方海上にいる米空母の呼出信号(コールサイン)の傍受に成功しているが、無線封鎖中の為に、大和はこれを南雲機動部隊に伝えていない。四隻の空母が不意打ちを受け、沈没するのはその翌日のことだ。大和以下の主力は遥か後方に位置していたので、傍受能力も含めた空母の護衛力は十分と言えず、そのため日本は虎の子の空母4隻を失ってしまった。 ●真珠湾攻撃に参加して空襲部隊を指揮した淵田大佐によれば、空母の脆弱性は無線兵装にあった。空母の背中は飛行甲板であるが、その周辺に高い無線マストなどは禁物である。かくも空母の無線機能は貧弱だから、南雲機動部隊のように赤城を旗艦とする場合、最高指揮官の指揮中枢としては不十分である。空母部隊の脆弱性と通信機能の貧弱さを具体的に指摘した上で、山本司令長官が大和に乗艦したまま遥か後方にいたことを痛烈に批判している。山本司令長官が大和に座乗のまま、南雲機動部隊の陣頭に立って、これを指揮すべきだった。この辺に、山本司令長官に対する凡将論が湧くのである。 ●第三主砲の砲塔にいた滝本保男が聞いていたミッドウエー作戦は、まず日本の航空機攻撃でミッドウエー島とアメリカの飛行機、それから空母を叩き、その翌日に大和が主砲でミッドウエー島を攻撃する。その翌日には、後続の輸送船に乗せていた陸軍1個連隊、海軍特別陸戦隊3千人がミッドウエー島上陸する順番の作戦と聞かされていた。つまり、最初から大和は、ほぼ「安全」になってから、戦場に赴き、主砲を撃つつもりだったことになる。しかし、ミッドウエー作戦は初日に頓挫し、大和は出番なく、温存されたまま、なんの力も発揮せず、初陣が終わり、日本に引き返した。
<第五章> 「鉄の城」と「大和ホテル」 ; ●海軍の各艦艇が米軍と死闘を繰り広げている中、大和の主砲が火を噴くことはなく、全体を指揮するためのみに存在していたといってよく、海軍関係者の間で、大和が「大和ホテル」、武蔵は「武蔵旅館」と揶揄されたのも無理はない。源田実は、「大和の建造で飛行機千機をつくることができた」と語っているが、大和と武蔵で計二千機の航空機が製造できたことになり、この大和・武蔵の運用の仕方は、戦争の遂行上、とても有効とは言い難かった。
<第六章> マリアナ沖海戦 ; ●マリアナ諸島で米軍を迎撃する「あ号作戦」が発令され、大和と武蔵がついに最前戦に立った。しかし、空母から発艦した第一次攻撃隊が大和ら前衛部隊になんの味方識別の合図も送らないまま近ずいたため、艦隊から敵だと判断され、大和はじめ前衛部隊は一斉に編隊に向かって砲撃を開始した。これは、数々の戦いで優秀なパイロットを失っていた日本の航空兵力の劣化を露呈した結果であった。マリアナ沖海戦の航空戦で、次々と日本の航空機を撃墜していったさまをアメリカは“マリアナの七面鳥撃ち”と表現している。
<第七章> レイテ決戦「巨砲」の咆哮 ; ●レイテ沖海戦の捷一号作戦とは帝国海軍がこの時点で動員可能な海軍兵力をすべて投入した作戦で、その最終目標はレイテ湾に上陸中のアメリカ陸軍部隊と敵艦隊を一挙に殲滅することであり、小沢部隊を囮にしたこの作戦により、絶対優勢の米海軍は数々の錯誤を起した。第一に、ハルゼー機動部隊全力が完全に小沢部隊の囮に誘致せられ、シブヤン海に一艦一機も残さず引き揚げてしまい、難関サンベルナルディノ海峡を栗田艦隊をして無碍に通過させてしまった。第二に、スプラ―グ少将率いる護送空母群がハルゼー機動部隊の掩護を過信して無警戒にレイテに航進中に栗田艦隊に奇襲され周章狼狽した。第三に、キンケード第七艦隊がレイテ上陸作戦で3日間の陸上攻撃と、西村支隊との砲撃戦で、戦艦の残弾ゼロ、巡洋艦・駆逐艦の残存魚雷27本という、全く膚にあわを生ぜしむるが如き状態であった。 ●このように、捷一号作戦は、日本側に大きなチャンス、つまり「天祐」を生みつつあったが、連合艦隊司令部の強い命令電文「天祐を確信し全軍突撃せよ」をもってしても栗田長官を動かすことができず、栗田艦隊がレイテ湾突入しなかったので、マッカーサー司令官指揮のアメリカ陸軍部隊上陸&軍事物資揚陸を阻止できず、レイテ島の帝国陸軍が玉砕した。もしも、栗田艦隊がレイテ湾突入しておれば、レイテ島・ルソン島でのフィリピン決戦も帝国陸軍はもっと善戦したと思われる。
<第八章> 人生最後の帰郷 ; ●昭和19年12月7日、尾鷲市沖およそ20キロを震源としてマグ二チュード8(推定)の東南海大地震が起こり、死者行方不明者1223名を出した巨大地震は、東海地方の軍需施設にも莫大な損害を与えたが、戦時下であったこともあり、その被害の実態は隠蔽された。 ネット情報によれば、真珠湾攻撃の報復としてちょうど3年後の同じ日に、アメリカ軍による人工地震攻撃で、東海地方の軍需施設の潰滅を狙った軍事行動であったとしている。
<第九章> 來る者、去る者 ; ●大和の一番副砲の大砲員の柴垣宗吉は、横須賀の海軍砲術学校普通科に入学するために大和退艦を命じられたが、入り替わりに、呉海兵団の補充分隊教班長をしていた彼の兄・柴垣政三が大和に乗り込んできた。これは、兄と弟の永遠の別れだった。
<第十章> 温情の「最後の上陸」 ; ●大和決死の出撃が迫った時、身辺の整理や最後の別れを各々にさせるため、有賀艦長は乗組員に上陸を許可した。この温情あふれる指揮官の決断が、兵士たちにとってどれほどありがたかっただろうか。
<第十一章> 出撃を見送った桜 ; ●沖縄水上特攻の目的は、沖縄の敵泊地に突入し、敵輸送船団を撃滅し、艦そのものを沖縄にのし上げて、陸の砲台となって上陸した敵に砲撃を加えることだったが、航空支援のない、燃料片道切符の突撃だった。その夜は、無礼講の飲み会となった。死出の旅路の「壮行会」である。それぞれの部署で飲み会が行われたが、人生最後を飾る無礼講の宴会だった。そして当日、豊後水道に入る時、九州の大分側と四国の佐多岬の先端のところに桜が見えたが、出撃を見送った見納めの桜であった。
<第十二章> 猛火の中で ; ●駆逐艦・雪風は、“神宿る艦”とも称され、数々の激戦を生き抜いた稀有な艦で、代々、操艦術に長けた艦長が就任して来たことで知られる雪風であるが、特にこの沖縄特攻時の”だるまさん“と呼ばれた大酒のみで豪傑の寺内艦長は、魚雷を避ける操艦術は抜群だった。沖縄に着けばそのまま砲台になるということで、350人分以上の糧食と酒を積むほど酒好きの艦長だったが、この多くの糧食と酒は救助した大和などの乗組員に役立った。この沖縄水上特攻で沈没を免れたのは、雪風、冬月、初霜、涼月の四隻だけだったが、大和の乗組員を最も多く助けたのは駆逐艦・雪風で、“神宿る艦”は、沖縄特攻作戦でも生き残った。
<第十三章> 奇跡の脱出 ; ●大和の生存者は、最上甲板より上にいた人間がほとんどである。そこから下にいた人間はまず助かっていない。総員退去の命令が遅かったことと、電源が失われ、真っ暗闇となった艦の中から、迷路のような複雑なルートを辿って上まであがってくる時間がなかったからである。艦橋の比較的高い地点にいた兵士たちにとって、助かる確率はほかの兵士に比べ、それでも大きかったと言える。 ●七番高角砲の鶴谷が今も不思議に思う“火の玉”があるが、意識が朦朧とした鶴谷は、自分に向かってくる“火の玉”を見たというのである。おそらく水中で大爆発を起こした大和の“火の玉”の一部が、鶴谷を海面まで押し上げたと思われる。助かった多くの乗組員が不思議な力によって、海面に押し上げられるという経験をしている。こうして、鶴谷は、重油の海から生還している。
<第十四章> 鎮魂の海 ; ●兄・政三が自分の身代わりになってくれたと思う柴垣宗吉にとって、それは悲願ともいうべき慰霊の旅だったが、あれほど鎮魂のためにこの海に来たい、と思っていたのに、実際に現場で遺品を目のあたりにしたら、立っていられないほどのショックを受けてしまった。
<おわりに> ; ●戦場では、ひたすら前進を繰り返し、戦後は、その闘志と使命感、そして責任感で、日本の復興と高度経済成長を成し遂げた元兵士の方々に、尊敬と感謝の気持ちを捧げたいと思う。
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