この商品をお持ちですか?
マーケットプレイスに出品する

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません 。詳細はこちら
Kindle Cloud Readerを使い、ブラウザですぐに読むことができます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
天照大御神は卑弥呼である -真説・卑弥呼と邪馬台国- (Shinkosha Selection―日本を識る) 単行本(ソフトカバー) – 2009/12/20
安本 美典
(著)
畿内説を打ち負かす!! 安本史学の集大成、決定版!!古代史最大の謎が解き明かされる!! 古代史研究の第一人者が、内容分析学・数理文献学など情報科学の手法を駆使して、単なる推測ではない「邪馬台国=九州」、「卑弥呼=天照大御神」を論証する。古代史ファンならずとも読まずにいられない決定的な一冊!!
吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡を含む最新の情報・データ、あらゆる古文献・発掘資料などを分析整理し、天照大御神と卑弥呼の活躍する時代を特定。天照大御神は卑弥呼の神話化した姿だったことを明らかにする。
吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡を含む最新の情報・データ、あらゆる古文献・発掘資料などを分析整理し、天照大御神と卑弥呼の活躍する時代を特定。天照大御神は卑弥呼の神話化した姿だったことを明らかにする。
- 本の長さ255ページ
- 言語日本語
- 出版社心交社
- 発売日2009/12/20
- ISBN-10477810868X
- ISBN-13978-4778108687
この商品を買った人はこんな商品も買っています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡を含む最新の情報・データ、あらゆる古文献・発掘資料などを数理文献学や内容分析学といった科学的な方法で分析整理し、天照大御神と卑弥呼の活躍する時代を特定。天照大御神は卑弥呼の神話化した姿だったことを明らかにする。
著者について
著者:安本美典(やすもとびてん)
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授をへて、現在、古代史研究に専念。「季刊邪馬台国」(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」を主宰。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、数理文献学、心理学。
おもな著書に『日本誕生記(1)(2)』『日本人はどこから来たか』(以上、PHP研究所)、『卑弥呼の謎』『倭の五王の謎』(以上、講談社)などのほか、心理学に関する著書も多い。
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授をへて、現在、古代史研究に専念。「季刊邪馬台国」(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」を主宰。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、数理文献学、心理学。
おもな著書に『日本誕生記(1)(2)』『日本人はどこから来たか』(以上、PHP研究所)、『卑弥呼の謎』『倭の五王の謎』(以上、講談社)などのほか、心理学に関する著書も多い。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授をへて、現在、古代史研究に専念。「季刊邪馬台国」(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」を主宰。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、数理文献学、心理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授をへて、現在、古代史研究に専念。「季刊邪馬台国」(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」を主宰。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、数理文献学、心理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Kindle化リクエスト
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
登録情報
- 出版社 : 心交社 (2009/12/20)
- 発売日 : 2009/12/20
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 255ページ
- ISBN-10 : 477810868X
- ISBN-13 : 978-4778108687
- Amazon 売れ筋ランキング: - 824,481位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 19,733位日本史一般の本
- カスタマーレビュー:
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
カスタマーレビュー
5つ星のうち3.9
星5つ中の3.9
10 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
殿堂入りベスト500レビュアー
Amazonで購入
箸墓古墳が卑弥呼の墓だったと発表された。一部マスコミの報道ぶりを見ると、旧石器
捏造事件を思い出した。性懲りがない。邪馬台国論争は、玄人、素人入り乱れた百家争
鳴の世界だが、マスコミを利用して大々的な宣伝をくわだてるやからがあとをたたない
のは寒心にたえない。
安本氏は、邪馬台国北九州説の論者だ。安本説の骨子は、記紀に記された皇室の歴代は
正しいと仮定し、皇室の先祖の在位年代を統計的手法によって客観的に推定する。つま
り在位の明確な天皇の在位年数は過去に行くほど短くなるが。その短くなり方はほぼ直
線である。その直線の傾きを最小二乗法によって正確に定める。在位年の不明な天皇の
在位はその延長線上にあると考える。すると、天照大御神の在位年代は卑弥呼の年代と
重なるのである。
一方、記紀に現れる地名を詳しく調べ、高天原は出雲の西に位置すると結論する。そし
て高天原の主要な地名が北九州朝倉の地に残存していることを示し、卑弥呼は天照大御
神であり、邪馬台国は北九州にあったと主張する。
安本氏の論証方法は仮説の検証であり、絶対的な正しさを保証するものではないが、中
国の古文献、わが国の古文献、考古学上の諸発見と矛盾しないところは認めなければな
らない。邪馬台国畿内説は、記紀の伝える神武東遷伝承と両立しない。
三国志の伝える倭女王卑弥呼と記紀の伝える天照大神の時代が一致するからと言って、
両者を同一視するのは速断にすぎると思うが、統計的手法を駆使して古代天皇および皇
祖神の在位期間を推定する安本氏の方法は注目に値する。
捏造事件を思い出した。性懲りがない。邪馬台国論争は、玄人、素人入り乱れた百家争
鳴の世界だが、マスコミを利用して大々的な宣伝をくわだてるやからがあとをたたない
のは寒心にたえない。
安本氏は、邪馬台国北九州説の論者だ。安本説の骨子は、記紀に記された皇室の歴代は
正しいと仮定し、皇室の先祖の在位年代を統計的手法によって客観的に推定する。つま
り在位の明確な天皇の在位年数は過去に行くほど短くなるが。その短くなり方はほぼ直
線である。その直線の傾きを最小二乗法によって正確に定める。在位年の不明な天皇の
在位はその延長線上にあると考える。すると、天照大御神の在位年代は卑弥呼の年代と
重なるのである。
一方、記紀に現れる地名を詳しく調べ、高天原は出雲の西に位置すると結論する。そし
て高天原の主要な地名が北九州朝倉の地に残存していることを示し、卑弥呼は天照大御
神であり、邪馬台国は北九州にあったと主張する。
安本氏の論証方法は仮説の検証であり、絶対的な正しさを保証するものではないが、中
国の古文献、わが国の古文献、考古学上の諸発見と矛盾しないところは認めなければな
らない。邪馬台国畿内説は、記紀の伝える神武東遷伝承と両立しない。
三国志の伝える倭女王卑弥呼と記紀の伝える天照大神の時代が一致するからと言って、
両者を同一視するのは速断にすぎると思うが、統計的手法を駆使して古代天皇および皇
祖神の在位期間を推定する安本氏の方法は注目に値する。
2011年5月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古代史を覗き始めた新人の私だが、大和朝廷のルーツが九州の筑後川流域にあったとは、目からウロコの驚きだった。特に奈良盆地周辺の地名がほとんどそのまま福岡県の朝倉市周辺に集中している事実は、邪馬台国の東遷が史実であることを思わせ、また卑弥呼が天照大御神であるとする大胆な仮説も、科学的手法により分析し導き出された結論であれば、もはや仮説ではなくなってしまう。この本を読み進めていきながら、印画紙のうえに古代という画像が突然浮かび上がってくる現像写真を見るようであった。
2011年6月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『三国志』「斉王記」は卑弥呼を「俾弥呼」と記すが、
著者が言うように人偏が付いている分、まだ良いと見るべきか。
さて、邪馬台国九州説の泰斗である著者は
・神功皇后が討伐された新羅の建国は4世紀で卑弥呼(247−248頃崩御)の時代にはまだ存在しないこと
・肖古王・仇首王の即位年(346・375)
・神功皇后の4代前、第十一代垂仁天皇が殉死を禁じていること
から「卑弥呼=神功皇后」説を退け、
同様に時代的齟齬から内藤湖南の「卑弥呼=倭姫(第十二代景行天皇同母妹)」説も否定。
倭迹迹日百襲媛命(第七代孝霊天皇皇女)説も採らない。
まぁ畿内説論者が幾ら必死になったところで
邪馬台国は普通に考えれば北九州のどこかにあったのであろう。
09年5月31日の歴博による「箸墓=卑弥呼の墓」説は
考古学協会理事らによって「聞くに堪えない戯言」と一蹴された。
発表に先立ちマスメディアを動員して一般大衆を惑わしたところで、
学問的には何ら価値のないことは論を俟たない。
邪馬台国が九州なら『魏志倭人伝』の1里は約100mの「短里」である。
(1里=4kmとしているのは日本のみで、シナでは中華民国に至るまで1里=500mであった。)
評者も九州説を支持する者であるが
卑弥呼=天照大神であると言われるとどうだろう。
記紀に一切記述のない邪馬台国は大和朝廷と不連続な一地方政権に過ぎなかったという説もあり
評者としては現在は判断を留保したい。
著者が言うように人偏が付いている分、まだ良いと見るべきか。
さて、邪馬台国九州説の泰斗である著者は
・神功皇后が討伐された新羅の建国は4世紀で卑弥呼(247−248頃崩御)の時代にはまだ存在しないこと
・肖古王・仇首王の即位年(346・375)
・神功皇后の4代前、第十一代垂仁天皇が殉死を禁じていること
から「卑弥呼=神功皇后」説を退け、
同様に時代的齟齬から内藤湖南の「卑弥呼=倭姫(第十二代景行天皇同母妹)」説も否定。
倭迹迹日百襲媛命(第七代孝霊天皇皇女)説も採らない。
まぁ畿内説論者が幾ら必死になったところで
邪馬台国は普通に考えれば北九州のどこかにあったのであろう。
09年5月31日の歴博による「箸墓=卑弥呼の墓」説は
考古学協会理事らによって「聞くに堪えない戯言」と一蹴された。
発表に先立ちマスメディアを動員して一般大衆を惑わしたところで、
学問的には何ら価値のないことは論を俟たない。
邪馬台国が九州なら『魏志倭人伝』の1里は約100mの「短里」である。
(1里=4kmとしているのは日本のみで、シナでは中華民国に至るまで1里=500mであった。)
評者も九州説を支持する者であるが
卑弥呼=天照大神であると言われるとどうだろう。
記紀に一切記述のない邪馬台国は大和朝廷と不連続な一地方政権に過ぎなかったという説もあり
評者としては現在は判断を留保したい。
2010年9月4日に日本でレビュー済み
前提となる知識、学説などが平易な言葉で丁寧に説明がなされており、大変分かりやすい。
また、古事記や日本書紀についての緻密な統計的分析は称賛に値すると思う。
しかし、自説の主張において、時折、強引なものが見られて残念であった。例えば、次の通りである。
「高天の原に氷木たかしりて」という文章は、「高天の原にもとどくほど」という意味の文学的表現が定型化して、いろいろな土地で宮殿をつくるときに用いられるようになったもののようである。文例の(10)と(15)とは、出雲の国に宮殿を定めるとき、文例の(18)は、九州の高千穂に宮殿を定めるときにのべられている。〜(中略)〜
なぜなら、『古事記』上巻において、「高天の原にもとどくほど」という意味のことばは、かならず出雲とか、高千穂とか、北九州以外の地で用いられている。〜(中略)〜それは、「高天の原」が北九州であるためと考えられる」(P.153)
そのような表現がとられていないことが「高天の原」であることの根拠になるのであれば、出雲と高千穂以外の地が全て候補となる。また、北九州で正式な宮殿が定められた記述がないのだから、北九州の地でそのような表現がなくても至極当たり前であり、むしろ、正式な宮殿が作られた上でそのような表現がとられていない大和の地の方が「高天の原」の候補地として相応しいことになってしまう。
そもそも、「高天の原にもとどくほど」という表現が、北九州などの特定の地を意識してのものという考えに無理があるであろう。
また、魏志倭人伝に記載された1里を実際の距離から100m弱と算出し、著者の邪馬台国北九州説の根拠としていて、著者の説明のみを読むと一見説得力がある。しかし、同じ魏志倭人伝には、伊都国から水行10日、陸行1月などという記述があり、邪馬台国が北九州であるならばそんな日数がかかるわけがない。このような記述には一切触れず、何の説明もなそうとしていないのは残念であった。
また、古事記や日本書紀についての緻密な統計的分析は称賛に値すると思う。
しかし、自説の主張において、時折、強引なものが見られて残念であった。例えば、次の通りである。
「高天の原に氷木たかしりて」という文章は、「高天の原にもとどくほど」という意味の文学的表現が定型化して、いろいろな土地で宮殿をつくるときに用いられるようになったもののようである。文例の(10)と(15)とは、出雲の国に宮殿を定めるとき、文例の(18)は、九州の高千穂に宮殿を定めるときにのべられている。〜(中略)〜
なぜなら、『古事記』上巻において、「高天の原にもとどくほど」という意味のことばは、かならず出雲とか、高千穂とか、北九州以外の地で用いられている。〜(中略)〜それは、「高天の原」が北九州であるためと考えられる」(P.153)
そのような表現がとられていないことが「高天の原」であることの根拠になるのであれば、出雲と高千穂以外の地が全て候補となる。また、北九州で正式な宮殿が定められた記述がないのだから、北九州の地でそのような表現がなくても至極当たり前であり、むしろ、正式な宮殿が作られた上でそのような表現がとられていない大和の地の方が「高天の原」の候補地として相応しいことになってしまう。
そもそも、「高天の原にもとどくほど」という表現が、北九州などの特定の地を意識してのものという考えに無理があるであろう。
また、魏志倭人伝に記載された1里を実際の距離から100m弱と算出し、著者の邪馬台国北九州説の根拠としていて、著者の説明のみを読むと一見説得力がある。しかし、同じ魏志倭人伝には、伊都国から水行10日、陸行1月などという記述があり、邪馬台国が北九州であるならばそんな日数がかかるわけがない。このような記述には一切触れず、何の説明もなそうとしていないのは残念であった。