皇帝の離婚、満州の謀略――歴史を凌駕してゆく物語
『ポケモンGO』の世界的大ヒットで今年はバーチャルリアリティ(VR)元年だそうだ。けれど私にとってのVR初体験は、小説だった。今回取上げる『天子蒙塵(もうじん)』のシリーズ一作目の『蒼穹の昴』を読んだ時だ。古代から続く科挙と宦官の頂点を目指す主人公ふたりの物語に、北京租界の日本と米国の新聞記者が登場したのだ。近代と中世が混在する清朝末期を舞台にして、天命の御璽(みしるし)である龍玉を巡る壮大な物語が開帳した。あの時の衝撃は忘れられない。三国志や水滸伝の空想世界が、現実と陸続きになったかのように錯覚した。当時は、この感動を上手く表現できなかったが、今ならこう言う。
「自分の部屋にピカチュウが現れる『ポケモンGO』の感動とそっくり同じ」
いや、何千年と続く中華帝国の世界が現実とリンクするのだから、それ以上だった。
シリーズ最新作となる『天子蒙塵』でも、VRの感動は健在だ。一巻では、ラストエンペラー溥儀の離婚劇を離別する側妃・文繍の視点から描いている。離婚訴訟という法制度に組み込まれる中華皇帝の姿のなんと滑稽で哀れなことか。ファンタジーであった皇帝が離婚という現実に刻みつけられる様子は、レアポケモンを求めて深夜の公園に集まるプレーヤーの群れを見るかのような、奇妙なおかしさがある。そんな卑近な離婚劇が、最後には龍玉を巡る世界的謀略に結びついている。決してホームドラマでは終わらせない。
二巻では、その謀略に石原莞爾や後の総理大臣吉田茂ら、日本人が絡んでくる。いつのまにか、第二次大戦の足音がすぐ近くに聞こえているではないか。シリーズ冒頭では三国志や水滸伝のような中世を匂わせていた物語が、私の祖父母が生きていた現実と交わろうとしている。
シリーズがどこまで続くかはわからない。日中戦争で終わるのか。あるいは私の祖父母が経験した太平洋戦争も描くのか。もっと先の中国共産党の覇権や、父母が生きた日本の復興も……。現実の中にバーチャルが表現されるのではなく、浅田次郎氏の創るバーチャル(物語)が、現実さえも呑み込むのではないか。そんな予感がする。
ジェットコースターに乗る人間が、その構造力学や運動法則を理解できないように、私はこの物語の客観的な評者にはなれない。ひとつ言えるのは、浅田次郎氏はモンスターだということだ。
私にできるのは、バーチャルと現実が入り交じったモンスターのポケットの中を、心地よく彷徨うだけだ。
評者:木下 昌輝
(週刊文春 2017.01.02掲載)
清朝最後の皇帝・溥儀は、紫禁城を追われながらも、王朝再興を夢見ていた。イギリス亡命を望む正妃と、史上初めて中華皇帝との離婚に挑んだ側妃とともに、溥儀は日本の庇護下におかれ、北京から天津へ。そして、父・張作霖の力を継いだ張学良は失意のままヨーロッパへ。二人の天子は塵をかぶって逃げ惑う。ラストエンペラー・溥儀と二人の女。時代の波に呑み込まれた男女の悲劇と壮大な歴史の転換点を描く。
著者について
浅田 次郎
1951年東京都生まれ。1995年『地下鉄に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞、1997年『鉄道員』で第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞と第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞を受賞。2011年より日本ペンクラブ会長。2015年紫綬褒章受章。他の著書に『日輪の遺産』『霞町物語』『シェエラザード』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『獅子吼』『帰郷』など多数。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
浅田/次郎
1951年東京都生まれ。95年『地下鉄に乗って』で第十六回吉川英治文学新人賞、97年『鉄道員』で第百十七回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第十三回柴田錬三郎賞、2006年『お腹召しませ』で第一回中央公論文芸賞と第十回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第四十二回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第六十四回毎日出版文化賞をそれぞれ受賞。2015年紫綬褒章受章(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)