原作 "TRUTH The Press,The President, and the Privilege of Power" は2005年に出版されたが、話題を呼んだのは、2015年の映画化によってだろう。ちなみに映画の邦題は『ニュースの真相』と冴えない名前だったが、せっかくロバート・レッドフォードが出演しているのだから、彼のヒット作『大統領の陰謀』と韻を合わせたタイトルにして欲しかった。その意味で2016年に邦訳された本書の題名『大統領の疑惑』は適切だと思う。ただし映画公開に合わせて急いだためか、ぶっつけ翻訳調で意味の取れ難い部分があるのに加え、こうした本に必須の「訳者解説」がないというのも、書籍としての体裁を欠いて残念である。
本書の衝撃的な点は、メディアが権力側からの幾多の妨害を乗り越えて真実を明かすといった、従来の予定調和的なストーリーが完全に裏返っているところにある。この本の著者でCBSテレビのプロデューサーのメアリー・メイプスが、同局の名物キャスターのダン・ラザーもろとも、報道内容に不備があったとして解雇されてしまうのである。それもCBSが作った「独立委員会」による一審のみでことは決まった。日本でも最近は不祥事が明るみに出る度に「第三者委員会」なるものが作られて審議の公正さを装う奇策が大流行だが、これもアメリカに倣ったものと判る。さらに、いま日本で騒がれている公文書の廃棄や隠蔽、ネット右翼や御用コメンテーターによる良心的メディア叩きなど、15年前の米国ですでに先鋭化していた実例のすべてが、この本に収まっている。
メアリーのワーキングチームは、2004年4月にイラクのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待の証拠写真を入手報道し、(翌年ピーポディー賞を受賞することになる)このおぞましい事件は世界中の注目を浴び、チームは一躍メディアの中央に躍り出ることになった。この高揚感を持ったまま、メアリーは、予てから調べていたブッシュ大統領の軍歴詐称問題を、報道番組で取り上げようと提案し受け入れられる。以前からテキサス州でこの噂は半ば公然化しており、ダラスに住むメアリーが、記者本能を発揮したのも自然な成り行きだった。彼女は「政治的な意図は全くなかった」と繰り返し述べている。
「風聞」の裏付けを求めていた彼女の元に、一つの情報がもたらされる。1968年にブッシュをテキサス州の民兵航空隊に入れる仲介をしたという、テキサス州元副知事のベン・バーンズが、ブッシュの州兵時代の「不可解な行動」を記した彼の上官キリアン中佐の文書を持っていると言う。当時の政財界の有力者たちは息子をベトナムに徴兵されるのを忌避するために、あらゆる手を尽くしていた。テキサス州兵に採用されることはその有力な選択肢であった。父ブッシュは当時テキサス州出身の上院議員だった。バーンズ元副知事はそんな州兵の実態を非難して職を追われていた。
不可解な行動とは、F-102戦闘機のパイロット訓練を受けてきたブッシュ中尉が、1972年に搭乗に必須な健康診断を拒否して飛行を禁じられた後、アラバマ州への転属を求めて認められる。しかし1年間のアラバマ転勤期間中にブッシュが勤務したという記録がなく、原隊に戻った3ヶ月後の1974年に早期退職を願いでて、これも認められたと言う事実である。2000年のブッシュ大統領候補は、かつてアメリカ沿岸を守った愛国的なパイロットであったという経歴で人気を集めた。キリアン中佐はそんなブッシュへの苦言を記した上官宛ての報告書を、自身の安全を図るために鍵のかかる金庫の中で保管していたという。キリアン中佐は1984年に死亡している。
9月2日の元副知事夫妻との会談の中で、バーケットは保管していた2通のキリアン文書を、入手元を詮索しないと言う条件で、メアリーに渡す。さらにチームは4通を入手する。全てタイプライターで打たれた文書のコピーである。メアリーは一瞬「はめられているかも」と疑問を抱くが、バーケットが危険を冒して見せていると信じ、内容も、当時の航空隊にいた人でなければ知り得ない事実があると確認して文書を受け取る。直ちに3人の鑑定士に真偽の判定を依頼する。複数の鑑定士から、原本でないのでインクや紙質は鑑定できず、100%断言はできないが、偽物とする証拠はないと言われる。さらにキリアンの上司だったボリス大将に電話で内容を読み聞かせ、「覚えている」ことを確認する。間違いはない。
当初9月26日を予定していた放送日が、急遽8日に決まる。文書を入手してから一週間しかない。もたもたして他社に出し抜かれるかもしれない。チームは不眠不休で期日に間に合わせる。スクープは大成功だった。社長を始め局の全員から祝福を浴びる。
一夜明けると状況は一挙に変わっていた。右派ブロガーが、タイプ文書はフォントや文字間のスペースの不均一さから、1970年代にタイプされたものでなく、2000年以降に「ワード」で書かれた偽物だと、一斉に声を上げたのだ。特に“th”の上付き文字は当時のタイプライターにはなかったと言う。チームは、公開された文字は繰り返しコピーされて変形していることや、件の上付き文字が1970年代の一部のタイプライターで使用されていた事実を繰り返し述べるが、無責任な「デマ」の拡散は想像を絶し、えげつない個人攻撃も加わり、さらにはニューヨーク・タイムスを含むメディアがブロガーの声を鵜呑みにして取り上げる。父親とは疎遠で州兵時代の彼を全く知らないと言っていたキリアン中佐の息子が「文書は偽物」と公言したり、電話で確認を取ったボリス大将までが偽物だと言い出すに至って、スタッフはブッシュ陣営の組織的な反撃を感じ、身も心も消耗して行った。
9月20日CBSは報道の謝りを認めて謝罪し、キャスターのダン・ラザーも、「偽物と認めないが、自信を失った」と述べるに到り、メアリーは報道陣と接触しないことと言う条件で、自宅待機を命じられる。それ以上に彼女を絶望させたのは、彼女のアル中の父親が、彼女を「急進的フェミニスト」とラジオ取材で叫んだこと。睡眠不足と精神安定剤服用の毎日。夫と時々電話してくる同僚の励ましがなかったら、生きることすら覚束なかった。なかには、ブッシュのテキサス州兵時代の大量の文書が何日間もシュレッダーで粉砕されているのを見たと言った貴重な進言もあったが、証言までには至らなかった。
10月末会社が依頼した弁護士からなる「独立委員会」の査問が始まる。報道関係者を欠いた素人集団は、文書の真偽を確認するより、メアリーの報道意図を問いただすことに血道を上げる。判決は最初から用意されていた。責任の全てを彼女になすりつけ、社を免責するという、報道よりも経営を重視した判断である。報告は、彼女に政治的な意図はなかった。文書の真偽は判らなかった。と記すが、これをもって2005年1月10日付で彼女は解雇される。
メアリーの本はここで終わる。本には彼女自身の怨嗟と自省、商業メディアへの心配が精一杯込められている。2015年の映画化は、そんな彼女の思いを真剣に受け止め、世に広めなければと考えるアメリカの良心の応答を、彼女ともども確認することになったと思う。
これを読んでいる私が深く懸念しているのが、暴走する強権政権に抗して東京新聞で活躍する一人の女性記者である。右翼ブロガーの集中攻撃を浴びて、朝日新聞までが奇妙に自粛している現在、商業新聞社である東京新聞が、彼女が身をもって堅持している、報道の自由と権利を、どこまで持ちこたえられるのか、そうならなくなった場合、読者はどうすれば良いのか。懸念はつきない。
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大統領の疑惑 単行本(ソフトカバー) – 2016/7/30
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2016年8月、ケイト・フランシェットとロバート・レッドフォード主演で公開になる映画「ニュースの真相」の原作。
2004年アメリカ大統領選挙で全米を揺るがせた大スクープ“ジョージ・W・ブッシュの軍歴詐称疑惑"はなぜ消えたのか?
報道の自由を改めて問う衝撃のレポート! !
スクープを報道した当時のCBSニュースプロデューサーによる迫真の手記。
2004年アメリカ大統領選挙で全米を揺るがせた大スクープ“ジョージ・W・ブッシュの軍歴詐称疑惑"はなぜ消えたのか?
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スクープを報道した当時のCBSニュースプロデューサーによる迫真の手記。
- 本の長さ462ページ
- 言語日本語
- 出版社キノブックス
- 発売日2016/7/30
- ISBN-104908059446
- ISBN-13978-4908059445
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
2004年大統領選の真っ只中、著者メアリー・メイプスがプロデューサーを務めるCBSの人気報道番組「60ミニッツ2」は、ブッシュの再選を脅かす軍歴詐称疑惑スクープを報道した。このスクープは大成功のはずだった。他局もすぐにこのスクープについて報道した。ところが、証拠として提示した書類は偽造されたものだと、保守派ブロガーを中心にインターネット上で大論争が巻き起こる。これに大手メディアも追随し、会社上層部は事態の収束を図るために内部調査委員会を設置。これによって肝心のブッシュの軍歴詐称問題はうやむやとなり、メアリーは「解雇」を言い渡された―。著者が製作し「60ミニッツ2」で報道したアブグレイブ収容所における捕虜虐待事件のスクープは、解雇後に「放送界のピューリツァー賞」とも称される「ピーボディ賞」を受賞。圧力に屈することなく、真実を伝えることを使命とするジャーナリストとしての矜持が伝わってくる1冊!
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
メイプス,メアリー
1956年生まれ。ワシントン大学でコミュニケーション学、政治学を学ぶ。現在はコンサルタント業、執筆活動に従事。テキサス州ダラス在住。ジャーナリストとして25年のキャリアを持つ。2005年までCBSで報道番組のプロデューサーを務めていた
稲垣/みどり
英日翻訳者。上智大学文学部英文学科卒。幼少時の大半をヨーロッパで過ごす。日本興業銀行(現みずほ銀行)を経て外資系金融会社に勤務(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1956年生まれ。ワシントン大学でコミュニケーション学、政治学を学ぶ。現在はコンサルタント業、執筆活動に従事。テキサス州ダラス在住。ジャーナリストとして25年のキャリアを持つ。2005年までCBSで報道番組のプロデューサーを務めていた
稲垣/みどり
英日翻訳者。上智大学文学部英文学科卒。幼少時の大半をヨーロッパで過ごす。日本興業銀行(現みずほ銀行)を経て外資系金融会社に勤務(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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登録情報
- 出版社 : キノブックス (2016/7/30)
- 発売日 : 2016/7/30
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 462ページ
- ISBN-10 : 4908059446
- ISBN-13 : 978-4908059445
- Amazon 売れ筋ランキング: - 563,684位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 403位アメリカのエリアスタディ
- - 7,533位政治入門
- - 57,773位ノンフィクション (本)
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