修道院に隠れ住まう七人の魔女。その数は後に膨れ上がる。魔女たちの長的存在であった老婆の死で物語は幕を開ける。彼女は自分では投機しないが天才的相場師であり、かつ大金持ちであることが物語中盤で明かされる。象徴的だ。物語の語り手は唖で聾の老人ムディート。彼もまた老婆の一人。かつては別の顔があり、また終わることのない精神の混濁を抱えている。土地の名士が従妹と祝言を挙げ、やっとのことで生まれた赤ん坊(ボーイ)は冥府のような畸形。一度はボーイを自らの手で殺そうとした名士だが心を翻し、ボーイに見合った(美醜的)逆転世界の構築を目論む。その初代管理者が貧民ウンベルトであったところのムディートだ。
第一章で――後に集められた畸形たちを除く――一通りの登場人物が紹介される。以下、数多の混乱とともに、
第二章、老婆が語る昔話/黄色い牝犬の逸話について、
第三章、修道院について、
第四章、修道院に住まう孤児の妊娠及び父親を持たないその奇跡の赤ん坊について、
第六章、仮面を被った孤児の赤ん坊の父親について、
第七章、その仮面の破壊について、
第八章、老婆の赤ちゃん人形と孤児に見破られたムディートの正体について、
第九章、ウンベルトと名士の出会い及び畸形の村/屋敷について、
第十章、名士の過去について、
第十一章、名士の婚姻について、
第十二章、黄色い牝犬の逸話及び修道院に祭られる名士の妻と同じ名の福者/魔女について、
第十三章、名士の妻の乳母/召使について、
第十四章、迷宮的な屋敷を中心とした畸形の村について、
第十五章、ボーイ及び自身も畸形の天才的外科医について、
第十六章、ウンベルトが一行も書けない名士及び畸形の村に纏わる伝記について、
第十七章、ウンベルトの過去について、
第十八章、天才外科医が奪ったウンベルトの臓器八〇パーセントについて、
第十九章、こちらも迷宮的な修道院に人生を奪われた一人のシスターについて、
第二十章、修道院内保管物の競売と赤ん坊となったムディートについて、
第二十一章、失敗した列福の旅を終えた名士の妻の修道院への引越しについて、
第二十二章、名士の妻の修道院での暮らし振り及びおもちゃのドックレース/賭けについて、
第二十三章、名士の妻の夫への復讐手段について、
第二十四章、名士の妻の声色遊びについて、
第二十六章、名士の妻に仕組まれた精神病院送りについて、
第二十七章、畸形の村/屋敷崩壊の兆し及び真実を知ったボーイについて、
第二十八章、名士とボーイの対面及び名士の死について、
第二十九章、孤児の追放及びその奇跡の赤ん坊の老婆たちによる略奪について、
第三十章、修道院の解体及び老婆たちの移動について、語られる。
今更のようだが過去の種々作品を搾取して又は化学反応させて構成された本作品は以後の作品の格好たる搾取元ともなっている。よって現時点での熟読が――例えばポーやウェルズの小説群のように――明らかな物足りなさ若しくは詰めの甘さを感じさせてしまうのは致し方ない。おそらくそれも名著の証であるのだろう。
筆者はマジックリアリズムと相性が悪く、それで常に興味を惹かれつつもこれまで本作から逃げてきた。その筆者の心を動かしたのが一編の――同じ作者の別の小説の――書評であったことは偶然か、あるいは必然なのだろうか。
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夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード) 単行本 – 2018/2/1
- 本の長さ576ページ
- 出版社水声社
- 発売日2018/2/1
- 寸法19.8 x 13.5 x 4.3 cm
- ISBN-104801002676
- ISBN-13978-4801002678
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
望まれない畸形児“ボーイ”の養育を託された名家の秘書ウンベルトは、宿痾の胃病で病み衰え、使用人たちが余生を過ごす修道院へと送られる。尼僧、老婆、そして孤児たちとともに暮しながら、ウンベルトは聾唖の“ムディート”の仮面をつけ、悪夢のような自身の伝記を語り始める…。延々と続く独白のなかで人格は崩壊し、自己と他者、現実と妄想、歴史と神話、論理と非論理の対立が混じり合う語りの奔流となる。『百年の孤独』と双璧をなすラテンアメリカ文学の最高傑作。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ホセ/ドノソ
1924年、チリのサンティアゴのブルジョア家庭に生まれる。1945年から46年までパタゴニアを放浪した後、1949年からプリンストン大学で英米文学を研究。帰国後、教鞭を取る傍ら創作に従事し、1958年、長編小説『戴冠』で成功を収める。1964年にチリを出国した後、約十七年にわたって、メキシコ、アメリカ合衆国、ポルトガル、スペインの各地を転々としながら小説を書き続けた。1981年にピノチェト軍事政権下のチリに帰国、1990年には国民文学賞を受けた。1996年、サンティアゴにて没
鼓/直
1930年、岡山に生まれる。東京外国語大学卒業。法政大学名誉教授。専攻、ラテンアメリカ文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1924年、チリのサンティアゴのブルジョア家庭に生まれる。1945年から46年までパタゴニアを放浪した後、1949年からプリンストン大学で英米文学を研究。帰国後、教鞭を取る傍ら創作に従事し、1958年、長編小説『戴冠』で成功を収める。1964年にチリを出国した後、約十七年にわたって、メキシコ、アメリカ合衆国、ポルトガル、スペインの各地を転々としながら小説を書き続けた。1981年にピノチェト軍事政権下のチリに帰国、1990年には国民文学賞を受けた。1996年、サンティアゴにて没
鼓/直
1930年、岡山に生まれる。東京外国語大学卒業。法政大学名誉教授。専攻、ラテンアメリカ文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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登録情報
- 出版社 : 水声社 (2018/2/1)
- 発売日 : 2018/2/1
- 単行本 : 576ページ
- ISBN-10 : 4801002676
- ISBN-13 : 978-4801002678
- 寸法 : 19.8 x 13.5 x 4.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 601,898位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 227位スペイン文学
- - 331位スペイン・ポルトガル文学研究
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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ベスト500レビュアー
この小説の文章は短く畳み掛けてくる形で延々と続く印象だから、読みやすいし、その時々で語られている内容は悪魔的ではあるが、難解ではなくむしろ理解するのはやさしい。しかし、全体としてみると語り続ける”おれ”とは本当は誰でどういう人物なのか、揺れ動き判然とはしない、”おまえ”も同様である。語られている逸話も繰り返されるたびにずれていく。しかし、全体としては、主な舞台である修道院、由緒ある家系の最後の世代、奇形の人物たちの楽園、そして主人公であるかもしれない”おれ”、皆崩壊してしまうのだから、ストーリーは表面的には完結する。長い小説だが、小説好きには多いだろう分厚い小説こそ好みであるという方には大いにお勧めできる。とにかく面白い、そこらにはあまりない変な話が堪能できる。評者は読みながら、老婆の集団がおしゃべりを続けるところなど、中上健次の”日輪の翼”を思い出した。中上はこの小説を読んだのだろうか。中上つながりで言えば、この小説はフォークナーの読後感にある意味近い。というわけで、評者がこの本を購入した刊行後10ヶ月の時点で2刷となっているので、多くの翻訳小説好きの皆さんに好意的に迎えられているのだろう(なぜかこのページには定価5750円とあるが、実際は3500円である)。
ベスト1000レビュアー
手元になかったので、再度購入してしまいました。
読むのは4度目です。
あらすじはさすがに覚えているので、今回はいままで読みながら書きとめた登場人物の相関図は作りませんでしたが、約40年ぶりの復刊で、初めて読む人も多いと思うので、初読の方は覚書のようなものを残しながら少しずつ読むことをお勧めします。
と、ベテラン面をして書いてみましたが、巻末の、本書であったり、作者ホセ・ドノソであったりの、必ずしも順風満帆でない来歴についての寺尾隆吉氏の解説は、初めて知ることばかりで、読みごたえがありました。
また、自分は、福岡市内の某大型書店で見かけて、予告されて久しく時間が経過しての、実は半ば諦めかけていたところで復刊を知って、喜び勇んで即購入したのですが、数日後再び訪れると、すべて売り切れていました。
いろいろな意味で読む人を選ぶ作品ですが、これもまたいろいろな意味で1度は触れてみた方がよいと思います。
読むのは4度目です。
あらすじはさすがに覚えているので、今回はいままで読みながら書きとめた登場人物の相関図は作りませんでしたが、約40年ぶりの復刊で、初めて読む人も多いと思うので、初読の方は覚書のようなものを残しながら少しずつ読むことをお勧めします。
と、ベテラン面をして書いてみましたが、巻末の、本書であったり、作者ホセ・ドノソであったりの、必ずしも順風満帆でない来歴についての寺尾隆吉氏の解説は、初めて知ることばかりで、読みごたえがありました。
また、自分は、福岡市内の某大型書店で見かけて、予告されて久しく時間が経過しての、実は半ば諦めかけていたところで復刊を知って、喜び勇んで即購入したのですが、数日後再び訪れると、すべて売り切れていました。
いろいろな意味で読む人を選ぶ作品ですが、これもまたいろいろな意味で1度は触れてみた方がよいと思います。
2019年3月28日に日本でレビュー済み
前半から、何もかもがほこりっぽい。
登場人物、建物、雰囲気。
思わず、こほっと咳が出る。
閉め切られた環境での閉ざされた人生の話。
それが分厚い本の中で展開され、
何重もの埃っぽさがつきまとう。
一転、じめっとした生(なま)感を出してくる。
この対比は印象的だ。
その後は、埃と生の緊張感と言おうか、融合しそうで、
相容れないじれったさ、困惑、諦めが襲ってくる。
何度も途中で本を閉じ周囲を見渡し、
ふうーと現実に帰らざるを得ない息苦しさだ。
紙を隔てて、秘密の部屋をこそっと覗き込むような、
読書というか、覗きの体験ができるといえよう。
登場人物、建物、雰囲気。
思わず、こほっと咳が出る。
閉め切られた環境での閉ざされた人生の話。
それが分厚い本の中で展開され、
何重もの埃っぽさがつきまとう。
一転、じめっとした生(なま)感を出してくる。
この対比は印象的だ。
その後は、埃と生の緊張感と言おうか、融合しそうで、
相容れないじれったさ、困惑、諦めが襲ってくる。
何度も途中で本を閉じ周囲を見渡し、
ふうーと現実に帰らざるを得ない息苦しさだ。
紙を隔てて、秘密の部屋をこそっと覗き込むような、
読書というか、覗きの体験ができるといえよう。
ベスト1000レビュアー
前回読んだ時の、高熱に冒されたような不快な自己喪失感を鮮明に覚えているので、すこし躊躇われたのですが、現代企画室からの復刊を知り、二十数年振りの再読です。読後に味わった、全体の三割程度しか読み得てないという前回の敗北感は、今回も相変わらずなものの、この深い喪失感は他の作品ではなかなか得難い体験でした。
物語は、リンコナーダという屋敷とエンカルナシオン修道院を主な舞台に、ドン・ヘロニモとイネスの夫婦から発せられる縦軸横軸の人間関係を、その腹心の秘書、ウンベルト・ペニャローサの視点から語ると言えば言えるのですが、例えば、ウンベルト・ペニャローサがムディートという聾唖者や七人目の老婆、ドン・ヘロニモらの自我との境界線を無くし、他の登場人物も同様の混沌の中から語りかけてくるのですから、プロットを追うだけでも一苦労です。下層と上流、過去と現在、現実と非現実といった、様々な対比が出てきますが、今回読んで考えたのは、ここに「依存」という視点を持ち込むと、かなり整理された視界が開けてくるように思いました。ただ、そうすると、結果的に作品自体が、解説にあるように、リンコナーダとエンカルナシオン修道院が同じ場所といった結論に到ってしまい、登場人物が分裂気質の一人の人物に収斂してしまうという弊害もありますが。いずれにしろ、いつになるかはわかりませんが、まだまだ再読の必要を読後に残す、大きな作品です。
物語は、リンコナーダという屋敷とエンカルナシオン修道院を主な舞台に、ドン・ヘロニモとイネスの夫婦から発せられる縦軸横軸の人間関係を、その腹心の秘書、ウンベルト・ペニャローサの視点から語ると言えば言えるのですが、例えば、ウンベルト・ペニャローサがムディートという聾唖者や七人目の老婆、ドン・ヘロニモらの自我との境界線を無くし、他の登場人物も同様の混沌の中から語りかけてくるのですから、プロットを追うだけでも一苦労です。下層と上流、過去と現在、現実と非現実といった、様々な対比が出てきますが、今回読んで考えたのは、ここに「依存」という視点を持ち込むと、かなり整理された視界が開けてくるように思いました。ただ、そうすると、結果的に作品自体が、解説にあるように、リンコナーダとエンカルナシオン修道院が同じ場所といった結論に到ってしまい、登場人物が分裂気質の一人の人物に収斂してしまうという弊害もありますが。いずれにしろ、いつになるかはわかりませんが、まだまだ再読の必要を読後に残す、大きな作品です。
2018年7月31日に日本でレビュー済み
これは悪夢的な作品だが、悪夢そのものではない。なぜなら、悪夢はひたすら悪夢なのであって、登場人物への共感や同情といった地上的な感情の入り込む余地などないはずだが、この作品においては最後の方でボーイのあまりに悲痛な訴えを聞いた時、僕の中で悪夢は終わってしまったからである。
この作品には一切の感情移入もしてはいけない、我々は現実に生きているのだから。しかし、悪夢の中心にいるはずのボーイ自らが地上(現実)に降りてきてしまった。
老婆もムディートも、畸形たちも、伝説も魔女も、悪夢の中を現実として生きている、そこは美が醜であり、醜が美であり、常識と非常識が逆転し、なんでもありなのだ。その悪夢の中から五日間家出して本当の現実を知ったボーイは、つまり本当の悪夢を見たのである。彼は絶望し、二度と悪夢(人為的な偽の現実)から出なくてもいいように訴えるのである。ぼくはここで悲しくなった、ボーイに同情し、共感すらした。これは作者の主旨とは違うだろう。作者が提示したかったのは、疑念であり不安なのだから。
この作品には一切の感情移入もしてはいけない、我々は現実に生きているのだから。しかし、悪夢の中心にいるはずのボーイ自らが地上(現実)に降りてきてしまった。
老婆もムディートも、畸形たちも、伝説も魔女も、悪夢の中を現実として生きている、そこは美が醜であり、醜が美であり、常識と非常識が逆転し、なんでもありなのだ。その悪夢の中から五日間家出して本当の現実を知ったボーイは、つまり本当の悪夢を見たのである。彼は絶望し、二度と悪夢(人為的な偽の現実)から出なくてもいいように訴えるのである。ぼくはここで悲しくなった、ボーイに同情し、共感すらした。これは作者の主旨とは違うだろう。作者が提示したかったのは、疑念であり不安なのだから。
2013年4月20日に日本でレビュー済み
90年代の一時期、ラテンアメリカの小説をよく読んでました。
そのころ、G. ガルシア=マルケスの『百年の孤独』、
フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』など、
ラテンアメリカの傑作を続けて読みました。
これらの作品は、忘れられない読書体験となりましたが、
とりわけ、異様で強烈な印象を残してるのは、
この『夜のみだらな鳥』です。
作品の中に繰り返し登場する黄色い犬は、
いまでも何かの拍子に思い出すことがあります。
奇怪な妄想的世界が延々と描かれ、
視点は変わるし時点も変わる、
登場人物は変身するという、
ありえないような悪夢的・迷宮的な作品です。
だれにでも勧められるような本ではありませんが、
異様で強烈な読書体験をしたい人は、
なんとかして手に入れて読んでみてください。
そのころ、G. ガルシア=マルケスの『百年の孤独』、
フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』など、
ラテンアメリカの傑作を続けて読みました。
これらの作品は、忘れられない読書体験となりましたが、
とりわけ、異様で強烈な印象を残してるのは、
この『夜のみだらな鳥』です。
作品の中に繰り返し登場する黄色い犬は、
いまでも何かの拍子に思い出すことがあります。
奇怪な妄想的世界が延々と描かれ、
視点は変わるし時点も変わる、
登場人物は変身するという、
ありえないような悪夢的・迷宮的な作品です。
だれにでも勧められるような本ではありませんが、
異様で強烈な読書体験をしたい人は、
なんとかして手に入れて読んでみてください。