レビューは単行本版が優れていますので参照願います。
単行版が高騰していたので有難い文庫化(増補)であり幻の書ゲットであります。
名著『禅とオートバイ修理技術』と並んで賞されるべき一冊で学生気分を味わえる必須の書。
早く出会えていたら良かったと思わされる書で意識高い系や背伸びをしていて知らずに搾取
されている方には良い薬で無駄になりがちなファッションなどの追求をしなくて良くなり求める
ことに夢中でしょうが、ある種の気づきや悟りを得られます。分厚いですが繰り返し読むに耐え
うる良書で腑に落ちるまで何度も読むべきで、ある種の成熟さを得られるものと思います。
折角勉強をして良い大学や高校に入っても無自覚にインスパイアーされてカウンター気取りで
良い就職先の切符を失いかねないなどと老婆心ながらに思いもしました。人生の生き方やスタンス
への影響も計り知れないと思います。
またこの本を読みますと映画『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』
が一種のボボズを体現しているなぁと実感出来ました。多種多様な話題を振りまいていて現在の
消費社会を生きる上でのヒントが沢山あること間違いなしです。新しモノ好きやニッチ好きや
オルタナティブ志向の方はカモにされるのだなぁとしみじみ思いました。
追跡されてるならぬ包括されているといったところでしょうか。
映画『ファイトクラブ』や『カラー・オブ・ハート』の引用が多いのが特徴です。(特に前半)
余計なお世話ですがマーケッターなど最前線で活躍したい方にもおススメです。
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反逆の神話〔新版〕 「反体制」はカネになる (ハヤカワ文庫NF) Kindle版
「差異」への欲求こそが、資本主義を加速させる。カウンターカルチャーの欺瞞を暴いた名著。新たな序文を付す。解説:稲葉振一郎
- 言語日本語
- 出版社早川書房
- 発売日2021/10/5
- ファイルサイズ1661 KB
商品の説明
著者について
ジョセフ・ヒース(Joseph Heath)
1967年生まれ。哲学者。トロント大学哲学部教授。同大学ムンク国際問題・公共政策大学院教授。同大学倫理学センター元所長。著書に『ルールに従う』『資本主義が嫌いな人のための経済学』『啓蒙思想2.0』など。
アンドルー・ポター(Andrew Potter)
1970年生まれ。本書執筆当時、ジャーナリスト。トロント大学で哲学の博士号を取得。「オタワ・シチズン」紙の編集長を務めた後、現在マギル大学マックスベル公共政策大学院准教授。著書にThe Authenticity Hoaxなど。 --このテキストは、paperback_bunko版に関連付けられています。
1967年生まれ。哲学者。トロント大学哲学部教授。同大学ムンク国際問題・公共政策大学院教授。同大学倫理学センター元所長。著書に『ルールに従う』『資本主義が嫌いな人のための経済学』『啓蒙思想2.0』など。
アンドルー・ポター(Andrew Potter)
1970年生まれ。本書執筆当時、ジャーナリスト。トロント大学で哲学の博士号を取得。「オタワ・シチズン」紙の編集長を務めた後、現在マギル大学マックスベル公共政策大学院准教授。著書にThe Authenticity Hoaxなど。 --このテキストは、paperback_bunko版に関連付けられています。
登録情報
- ASIN : B09HGX1941
- 出版社 : 早川書房 (2021/10/5)
- 発売日 : 2021/10/5
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 1661 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 本の長さ : 484ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 62,082位Kindleストア (の売れ筋ランキングを見るKindleストア)
- - 53位ハヤカワ文庫 NF
- - 3,905位社会・政治 (Kindleストア)
- カスタマーレビュー:
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2021年10月26日に日本でレビュー済み
『THE REBEL SELL Why the Culture Can't Be Jammed』(2004年)の邦訳の文庫化。2014年『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』 の改題。序文(2020年のフランス語新版に寄せた)と解説(稲葉振一郎)を追加して。
カウンターカルチャーとは、主流文化にはならない文化のことで、反主流文化のことである。具体的には、ヒッピー、ボヘミアン、反消費主義、ある種の音楽などであるが、ツーリズムから禅や東洋医学などの代替医療まで広範に広がっていった反体制の運動である。
マルクス主義の発展は、いびつな形式で、フロイトの思想と結びつき、経済的な生産諸体制が、下部構造として、上部の文化・政治・思想を決定づけるというマルクス主義の前提は、逆転して、文化こそが、下部構造の地位を得た。
すべての根本に文化を見る姿勢は、カウンターカルチャーという、文化を変革すれば、すべてがうまくいくという発想を生み出した。しかし、その結果、左翼や知識人は、大衆批判を思想的・文化的にすることに熱中し、制度的な具体的な問題を扱うことができなくなった。経済的・政治的・法的な具体性のない哲学的な主張は、結果、政治的な影響力を欠いていった。
反官僚、反学校、反理性、反科学、反大企業、反グローバル化、極端な環境主義をもつカウンターカルチャーの信奉者は、極端な根本的な解決を要求するが、非現実的で到底受け入れることはできず、制度的な一歩ずつの協力による漸進的な改善を拒否しつづけた。
また、カウンターカルチャーの現実の行為は、消費を中心とする順応主義的な大衆社会に対して異議申し立てをするものであり、反消費社会であるが、しかしカウンターカルチャー的な文化的な逸脱が、そもそも差異を生み出して、経済を拡大する方向に推進するものでしかなく、多品種少量生産の現代の高度な生産体制は、見事に反逆する消費者を包み込んだ。アウトサイダーも一つの生き方として、予測可能になっていくーーある種のイノベータとして。
カウンターカルチャーがよく主張するような大衆社会の資本主義批判は、法学や経済学を全く勉強していなくてもできるような哲学的なお決まりの批判になっていく。イリイチ、ミシェル・フーコーやボードリヤール、ナオミ・クラインの大衆批判は人気を博しているが、ジャーナリズムのような落ち着かない次から次に目を向ける視線は、物事を解決へと導くというより、めちゃくちゃな既存の体制破壊のみであり、マルクス主義と同じく、次なる社会のあり方を提示できていない。
我々は、いい加減に、ナチズムの桎梏から解放されて、フロイト的な解釈を払いのけて、ある一定の個人の自由を制限する市民社会や国家のあり方を議論すべきだ。そこでは、国家や社会や文明、そのものを悪であるという思想的な見方をやめて、良き必要である制度に目を向けよう。フリライダーを許さず、情報の非対称性のない、市場の失敗のより少ないルール、軍縮を可能とするルールーー他者の欲求と自己の欲求を調和させるルールを。
カウンターカルチャーのような文化的な覚醒や目覚めによる個人的な戦いをやめてーーなぜ、自分だけは大衆社会から目覚めていると思えるのかーー、大衆と和解し、貧困・テロ・不平等などを大衆社会に原因を求めるお決まりの哲学的な分析を退けて、共同の社会にできる改善をしていこう。まだまだ、やるべきことはいくらでもある。
今の知識人には嫌われる考えかもしれないが、漸進的な前進による進歩のみが可能であり、根本的な破壊的な解決策はないし、ルールのない相対主義や多様性の社会はあり得ない。個人の自由の制限は、イコールで悪ではなく、それによって、数多くのメリットや善を共に獲得してきた。無秩序や中身のないユートピアの幻想を振りほどき、官僚制や市場、文明への嫌悪感から来る反社会的な行為を、社会抗議と見ずに、きちんと文明を信頼し、改善する意思を民主的に達成していこう。
反逆ほどは、面白くはないだろうけどーー。
【感想】
懐かしい名前が並びます。ジャン・ボードリヤール、ミシェル・フーコー、『脱学校の社会』のイヴァン・イリイチ、『スモール・イズ・ビューティフル』のエルンスト・シューマッハ、『宇宙船地球号 操縦マニュアル』のバックミンスター・フラー、ナオミ・クライン、『有閑階級の理論』のヴェブレンなど。
はじめは、マルクス、フロイト批判から始まり、順応主義的な大衆批判を否定し、ホッブス的な社会観を考察し、差異や局地財という経済的な財の解釈やヴェブレンの洞察を見て、カウンターカルチャー的な反逆の無価値さを主張します。第二部に移り、画一性のメリットへと焦点を移し、学校の制服論へ、そしてクールの流行と広告の影響力の脆弱さを指摘し、非難されやすいコカコーラ化のメリットを説明し、カウンターカルチャーで行われがちな他文化へ自分探しの旅をすることのジレンマ、代替医療の搾取性、環境意識の高まりから起こる運動の中身のなさを解説して、諸問題を解決するために現実的な社会を作ることを主張します。
この本も哲学者の著作なので、途中、経済の説明は意味不明な点はありますが、左翼が文化中心主義に陥って、デタラメに反資本主義・反体制ならば、なんでも良いという感じで結びついていった過程が分かります。そして、意識の変革に傾斜し続けたことが、孕む問題も理解できます。
政治や軍事において、右派に票が流れて、映画やインテリ的な評論や大学は、左派の牙城になったという形になりますね。
カウンターカルチャーとは、主流文化にはならない文化のことで、反主流文化のことである。具体的には、ヒッピー、ボヘミアン、反消費主義、ある種の音楽などであるが、ツーリズムから禅や東洋医学などの代替医療まで広範に広がっていった反体制の運動である。
マルクス主義の発展は、いびつな形式で、フロイトの思想と結びつき、経済的な生産諸体制が、下部構造として、上部の文化・政治・思想を決定づけるというマルクス主義の前提は、逆転して、文化こそが、下部構造の地位を得た。
すべての根本に文化を見る姿勢は、カウンターカルチャーという、文化を変革すれば、すべてがうまくいくという発想を生み出した。しかし、その結果、左翼や知識人は、大衆批判を思想的・文化的にすることに熱中し、制度的な具体的な問題を扱うことができなくなった。経済的・政治的・法的な具体性のない哲学的な主張は、結果、政治的な影響力を欠いていった。
反官僚、反学校、反理性、反科学、反大企業、反グローバル化、極端な環境主義をもつカウンターカルチャーの信奉者は、極端な根本的な解決を要求するが、非現実的で到底受け入れることはできず、制度的な一歩ずつの協力による漸進的な改善を拒否しつづけた。
また、カウンターカルチャーの現実の行為は、消費を中心とする順応主義的な大衆社会に対して異議申し立てをするものであり、反消費社会であるが、しかしカウンターカルチャー的な文化的な逸脱が、そもそも差異を生み出して、経済を拡大する方向に推進するものでしかなく、多品種少量生産の現代の高度な生産体制は、見事に反逆する消費者を包み込んだ。アウトサイダーも一つの生き方として、予測可能になっていくーーある種のイノベータとして。
カウンターカルチャーがよく主張するような大衆社会の資本主義批判は、法学や経済学を全く勉強していなくてもできるような哲学的なお決まりの批判になっていく。イリイチ、ミシェル・フーコーやボードリヤール、ナオミ・クラインの大衆批判は人気を博しているが、ジャーナリズムのような落ち着かない次から次に目を向ける視線は、物事を解決へと導くというより、めちゃくちゃな既存の体制破壊のみであり、マルクス主義と同じく、次なる社会のあり方を提示できていない。
我々は、いい加減に、ナチズムの桎梏から解放されて、フロイト的な解釈を払いのけて、ある一定の個人の自由を制限する市民社会や国家のあり方を議論すべきだ。そこでは、国家や社会や文明、そのものを悪であるという思想的な見方をやめて、良き必要である制度に目を向けよう。フリライダーを許さず、情報の非対称性のない、市場の失敗のより少ないルール、軍縮を可能とするルールーー他者の欲求と自己の欲求を調和させるルールを。
カウンターカルチャーのような文化的な覚醒や目覚めによる個人的な戦いをやめてーーなぜ、自分だけは大衆社会から目覚めていると思えるのかーー、大衆と和解し、貧困・テロ・不平等などを大衆社会に原因を求めるお決まりの哲学的な分析を退けて、共同の社会にできる改善をしていこう。まだまだ、やるべきことはいくらでもある。
今の知識人には嫌われる考えかもしれないが、漸進的な前進による進歩のみが可能であり、根本的な破壊的な解決策はないし、ルールのない相対主義や多様性の社会はあり得ない。個人の自由の制限は、イコールで悪ではなく、それによって、数多くのメリットや善を共に獲得してきた。無秩序や中身のないユートピアの幻想を振りほどき、官僚制や市場、文明への嫌悪感から来る反社会的な行為を、社会抗議と見ずに、きちんと文明を信頼し、改善する意思を民主的に達成していこう。
反逆ほどは、面白くはないだろうけどーー。
【感想】
懐かしい名前が並びます。ジャン・ボードリヤール、ミシェル・フーコー、『脱学校の社会』のイヴァン・イリイチ、『スモール・イズ・ビューティフル』のエルンスト・シューマッハ、『宇宙船地球号 操縦マニュアル』のバックミンスター・フラー、ナオミ・クライン、『有閑階級の理論』のヴェブレンなど。
はじめは、マルクス、フロイト批判から始まり、順応主義的な大衆批判を否定し、ホッブス的な社会観を考察し、差異や局地財という経済的な財の解釈やヴェブレンの洞察を見て、カウンターカルチャー的な反逆の無価値さを主張します。第二部に移り、画一性のメリットへと焦点を移し、学校の制服論へ、そしてクールの流行と広告の影響力の脆弱さを指摘し、非難されやすいコカコーラ化のメリットを説明し、カウンターカルチャーで行われがちな他文化へ自分探しの旅をすることのジレンマ、代替医療の搾取性、環境意識の高まりから起こる運動の中身のなさを解説して、諸問題を解決するために現実的な社会を作ることを主張します。
この本も哲学者の著作なので、途中、経済の説明は意味不明な点はありますが、左翼が文化中心主義に陥って、デタラメに反資本主義・反体制ならば、なんでも良いという感じで結びついていった過程が分かります。そして、意識の変革に傾斜し続けたことが、孕む問題も理解できます。
政治や軍事において、右派に票が流れて、映画やインテリ的な評論や大学は、左派の牙城になったという形になりますね。
VINEメンバー
他の方が栗本慎一郎を挙げていましたが、同様にアラン・ブルーム「アメリカンマインドの終焉」やテリー・イーグルトン「文学とは何か」あたりを読んできた方なら、ざっくり言うと同じような主張・趣旨だと思います。ヒッピー世代やポストモダン思想の隆盛と衰退を振り返る際に繰り返されてきた、反省・自省というイメージです。序文(一万字)で著者たちの言いたいことが大体要約されており、その後は様々な事象や文献の引用を踏まえて同じ内容の主張が繰り返されていく形です。
ウェブ上に溢れる乱雑な論理や文章にこのところ毒されていたので、きちっとしたロジックできちっとした日本語で翻訳された文章を読むだけでどこか新鮮でした。
個人的な事ですが、著者たちは自分とほぼ同世代で推薦者の東浩紀氏も同い年(2020年代時点で50歳前後)です。後の世代から今につながるネット隆盛は逐一見てきたものの積極的には関わりきれず、しかしながらバブル崩壊を若い時に経験し先行世代の恩恵にあずかれなかった、谷間の世代になります。環境運動や学際的分野に憧れコミットする若者を冷ややかに見ている世代です。
何となくですが、そういう世代にしか刺さらないような内容かもしれないと逆に不安になりました笑。
ウェブ上に溢れる乱雑な論理や文章にこのところ毒されていたので、きちっとしたロジックできちっとした日本語で翻訳された文章を読むだけでどこか新鮮でした。
個人的な事ですが、著者たちは自分とほぼ同世代で推薦者の東浩紀氏も同い年(2020年代時点で50歳前後)です。後の世代から今につながるネット隆盛は逐一見てきたものの積極的には関わりきれず、しかしながらバブル崩壊を若い時に経験し先行世代の恩恵にあずかれなかった、谷間の世代になります。環境運動や学際的分野に憧れコミットする若者を冷ややかに見ている世代です。
何となくですが、そういう世代にしか刺さらないような内容かもしれないと逆に不安になりました笑。
ベスト500レビュアー
生憎、私は栗本慎一郎氏を私淑していたせいで、この本が出版されるずっと以前(1989年)からこのことを分かっていた。さらに言えば、バブルが崩壊した年(1992年)でそのことを確信できた。この本は単行本で出されたのが2014年で、文庫になったのが2021年とは今更感が有り過ぎて読んでいて、「なるほどそうだよね」とは思ったが、デモや抗議運動が盛んなアメリカではまだ分かっていない人が多数見受けられるのでまだ有効な論旨なのだろう。アメリカで白人警官による黒人が亡くなった事件で、抗議が暴動、そしてテロにまで発展する過激さであるが、このことによって余計「黒人」が差別される土壌をさらに生み出しているとなぜ分からないのだろう。
文化的左翼の運動は、80年代後半の日本では徐々に相対化されていって、90年代にはカウンターカルチャーの凋落が著しく、2000年代に至ってはほとんど無力に近くなっている。逆に文化的右翼、自国礼賛主義が幅を利かせており、冷静な対話も議論も行われないまま変質していっている。
この本はアメリカでの出来事を中心に書かれているが、日本でも似た動きが見受けられるし、エコロジーや有機農業などなど、出せばキリが無いが、こういう人々に冷静な対話を繰り広げても「無駄である」。放置し、やがてそれらを支える<物語>が故障して、自然に崩壊するのを待った方が賢明だ。インターネットで炎上したコメントは「放置」するのが一番であるのと同様で、こういうものは対症療法的に解決出来るものではない。人間の無意識の前提の多くは、「快楽」に支えられている以上、その土台そのものが変であるところまで<自意識>を排除する必要があって、初めて対話が可能であると判断するべきだろう。
私にとって栗本慎一郎「 鉄の処女―血も凍る「現代思想」の総批評 」を読んだ方が得るところが大きかった印象だ。それにこの本は35年も前の本だ。しかも書かれている対処の方法論が今でも有効だ。政治に不満があるならば、選挙戦そのものでトトカルチョを行った方が良い。過激に選挙にのめり込むことで、根底で嘘と知りつつ「過剰」になったシステムを変質し、壊していく方が有効な戦略には違いない。根底での「虚偽」をあぶりだすだけでは駄目だ。「クソ真面目」に照れずにプロレス的に演技していくのだ。するとその土台そのものの「意味」が崩れていくのだ。
事例として有機農業にしても、化学肥料によって土壌が劣化して何ともならない実際的な問題よりも、イメージが良いから有機農業が普及しているに過ぎない。実態は、F1種による同一種の集約的大量生産が根底にあるし、耕すことも大規模に機械で行われているから結局は土壌が劣化している。そして二酸化炭素排出量は以前よりも増えている。不耕起による固定種で、有機農業、そして「小規模」でなければ本当のエコとまでは言えまい。さらに一気にF1種を排除すれば、穀物、果実、野菜などの価格が一気に上昇して世界経済に大打撃を受けることは必然だろう。私もモンサント(現在はデュポンの傘下であるが)とかの悪行は知っているが、では単なる反逆すれば良いという単純な問題ではない。デトロイトが廃墟ならその余った土地で農業でも始めれば良いのだが、ライフスタイルの変更を考える意識は、カウンターカルチャーの「反逆者」たちにはまあ思いつかないだろう。「クール」が優先される段階ならもう手の打ちようもない。
人はポリシーを持つとそれが足かせとなり、高齢化すればするほど仕事の選択をせずに過去にしがみつこうとする。従って余計、資本主義への反逆者たちは益々食い物にされる。だからそういう行為が本当に意味があるかどうかを冷静に考えてみるといいだろう。その意味で「この本」は今でも役には立つだろう。
著者ら(共著なので)はその辺が簡単な解決法があるとは考えていないらしいが、私はこの対処法を知っている。要は「倒錯」するのだ。蓮實重彦氏は「倒錯者の「戦略」」と呼んだが、今回のこの本とよく似た「気づき」が書かれたのは、実は日本の方が圧倒的に早かった。「 表層批評宣言 」が書かれたのは1979年のことだ。今回の内容の骨子は「神話」、「制度」、「装置」と言う用語で社会システムを読み解こうとする蓮實重彦氏の本は、とても難解に「わざと」書かれている。要はそのことを分かりやすく書かれようものなら、抗議だけではなく当時なら暴行ざたになりかねない時世だったので、知的防御行為としては有益だっただろう。今もって反対運動の「政治」や「宗教」的行為について一切の距離を取る私の意図はそこにある。それにそれらの「政治」と「宗教」的行為が、私は根底から大嫌いだからなのだが、何より、そんな「つまらないこと」では流石に死にたくはないからだ。
文化的左翼の運動は、80年代後半の日本では徐々に相対化されていって、90年代にはカウンターカルチャーの凋落が著しく、2000年代に至ってはほとんど無力に近くなっている。逆に文化的右翼、自国礼賛主義が幅を利かせており、冷静な対話も議論も行われないまま変質していっている。
この本はアメリカでの出来事を中心に書かれているが、日本でも似た動きが見受けられるし、エコロジーや有機農業などなど、出せばキリが無いが、こういう人々に冷静な対話を繰り広げても「無駄である」。放置し、やがてそれらを支える<物語>が故障して、自然に崩壊するのを待った方が賢明だ。インターネットで炎上したコメントは「放置」するのが一番であるのと同様で、こういうものは対症療法的に解決出来るものではない。人間の無意識の前提の多くは、「快楽」に支えられている以上、その土台そのものが変であるところまで<自意識>を排除する必要があって、初めて対話が可能であると判断するべきだろう。
私にとって栗本慎一郎「 鉄の処女―血も凍る「現代思想」の総批評 」を読んだ方が得るところが大きかった印象だ。それにこの本は35年も前の本だ。しかも書かれている対処の方法論が今でも有効だ。政治に不満があるならば、選挙戦そのものでトトカルチョを行った方が良い。過激に選挙にのめり込むことで、根底で嘘と知りつつ「過剰」になったシステムを変質し、壊していく方が有効な戦略には違いない。根底での「虚偽」をあぶりだすだけでは駄目だ。「クソ真面目」に照れずにプロレス的に演技していくのだ。するとその土台そのものの「意味」が崩れていくのだ。
事例として有機農業にしても、化学肥料によって土壌が劣化して何ともならない実際的な問題よりも、イメージが良いから有機農業が普及しているに過ぎない。実態は、F1種による同一種の集約的大量生産が根底にあるし、耕すことも大規模に機械で行われているから結局は土壌が劣化している。そして二酸化炭素排出量は以前よりも増えている。不耕起による固定種で、有機農業、そして「小規模」でなければ本当のエコとまでは言えまい。さらに一気にF1種を排除すれば、穀物、果実、野菜などの価格が一気に上昇して世界経済に大打撃を受けることは必然だろう。私もモンサント(現在はデュポンの傘下であるが)とかの悪行は知っているが、では単なる反逆すれば良いという単純な問題ではない。デトロイトが廃墟ならその余った土地で農業でも始めれば良いのだが、ライフスタイルの変更を考える意識は、カウンターカルチャーの「反逆者」たちにはまあ思いつかないだろう。「クール」が優先される段階ならもう手の打ちようもない。
人はポリシーを持つとそれが足かせとなり、高齢化すればするほど仕事の選択をせずに過去にしがみつこうとする。従って余計、資本主義への反逆者たちは益々食い物にされる。だからそういう行為が本当に意味があるかどうかを冷静に考えてみるといいだろう。その意味で「この本」は今でも役には立つだろう。
著者ら(共著なので)はその辺が簡単な解決法があるとは考えていないらしいが、私はこの対処法を知っている。要は「倒錯」するのだ。蓮實重彦氏は「倒錯者の「戦略」」と呼んだが、今回のこの本とよく似た「気づき」が書かれたのは、実は日本の方が圧倒的に早かった。「 表層批評宣言 」が書かれたのは1979年のことだ。今回の内容の骨子は「神話」、「制度」、「装置」と言う用語で社会システムを読み解こうとする蓮實重彦氏の本は、とても難解に「わざと」書かれている。要はそのことを分かりやすく書かれようものなら、抗議だけではなく当時なら暴行ざたになりかねない時世だったので、知的防御行為としては有益だっただろう。今もって反対運動の「政治」や「宗教」的行為について一切の距離を取る私の意図はそこにある。それにそれらの「政治」と「宗教」的行為が、私は根底から大嫌いだからなのだが、何より、そんな「つまらないこと」では流石に死にたくはないからだ。
ベスト500レビュアー
カウンターカルチャーの批判なのだが、論点は古臭い。主流文化批判で世の中なんか変わるわけない、なんてもうみんな知っている。その話の根拠として、いろんな話が出てくるが、どれにも興味が持てなかったので期待して読んだががっかりした。本にも野菜と同じで旬がある。ただし、この手のカウンターカルチャーがオシャレ化して広告屋の飯の種になっているのは今でも同じ。レジ袋を紙にするか、プラスチックにするか問題も、この観点から話題にされているのを見て、ああ変わっていないんだ、とも感じた。





