漱石といえば、国民的作家といわれ、弟子の
内田百間が書いた『漱石先生臨終記』を読むと、
その並々ならぬ尊敬のされ方に、少々引いて
しまうほど、熱烈なお弟子さんが、沢山いた
ことで知られている。
そのことが、却って、漱石についてについての
エピソードを美化してしまい、実像迫り難く
しているように思える。
例えば、『英国留学』であるが、一般的に留学と
いうと、現地の大学で勉強することだが、漱石は
英国人の個人指導を受けていたに過ぎない。今で
言うなら、語学留学プラスαといった所であった
ことを指摘している評伝は少ない。
漱石は、胃潰瘍が悪化して亡くなった事は、
広く知られているが、その原因となった
ストレスについて、弟子に見せる顔と家族に
見せる顔は全然違い、奥さんには暴力ふるい、
子供がなつかないことを嘆いていたと書か
れると、今まで喧伝されてきた漱石像の
メッキが剥げて来る
著者は、あくまでも、地域雑誌『谷中・根津・
千駄木 (谷根千) 』の編集者として、冷静に、
ご近所にかって住んでいた有名人の実像迫って
いて、若い頃、漱石を読んで、どうも腑に落ち
なかった点と線が、繋がって見えてきます。
学生時代に漱石を読まされて、「何かなあ?」と
思った方ほど、一読を勧めたい評伝です。
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千駄木の漱石 単行本 – 2012/10/1
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- 本の長さ253ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2012/10/1
- ISBN-104480815147
- ISBN-13978-4480815149
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
いたちが跋扈し、木々の葉がそよぎ、泥棒が忍び足で入り、先生は石油ランプの下で執筆した。―イギリス留学より帰国後、一高・帝大への徒歩通勤、『吾輩は猫である』の予想外の反響、次々に押し寄せる災難など、明治の千駄木と漱石の暮らしを描き出す。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
森/まゆみ
1954年東京都生まれ。84年、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』創刊。近代建築の保存や上野不忍池保全などにも関わり、NTT全国タウン誌大賞、サントリー地域文化賞、建築学会賞を受賞。また、文化庁文化審議委員として文化財保存に努める。主な著書に、『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学賞)などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1954年東京都生まれ。84年、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』創刊。近代建築の保存や上野不忍池保全などにも関わり、NTT全国タウン誌大賞、サントリー地域文化賞、建築学会賞を受賞。また、文化庁文化審議委員として文化財保存に努める。主な著書に、『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学賞)などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : 筑摩書房 (2012/10/1)
- 発売日 : 2012/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 253ページ
- ISBN-10 : 4480815147
- ISBN-13 : 978-4480815149
- Amazon 売れ筋ランキング: - 883,777位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 88,717位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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明治37年――1904年、日露戦争の時代――本郷区駒込千駄木町の界隈に住まう人士の多彩なエピソードを愉しめる。
・夏目家の内情が面白い。アッパーミドルでありながら金策に労苦を費やした理由、書物・学問優先の夫婦関係、ノイローゼによる暴力、宅地裏手の学校への燦々たる思い(「猫」のエピソードを生んだ)、等々。
・「猫」が売れたためか、舞台とした千駄木に腰を据えて住む気になったのが面白い(p204)
・「余は余一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れるのみである」(p313)ロンドンで培われたこの精神があってこその漱石だと思う。
文庫版オリジナル「千駄木以降の漱石」は、透明な諦観に満ちた人間社会に触れる件が良い(p330)。
英語教師から国民的作家"漱石"の誕生へ。その時代の空気感を存分に味わえる一冊である。
・夏目家の内情が面白い。アッパーミドルでありながら金策に労苦を費やした理由、書物・学問優先の夫婦関係、ノイローゼによる暴力、宅地裏手の学校への燦々たる思い(「猫」のエピソードを生んだ)、等々。
・「猫」が売れたためか、舞台とした千駄木に腰を据えて住む気になったのが面白い(p204)
・「余は余一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れるのみである」(p313)ロンドンで培われたこの精神があってこその漱石だと思う。
文庫版オリジナル「千駄木以降の漱石」は、透明な諦観に満ちた人間社会に触れる件が良い(p330)。
英語教師から国民的作家"漱石"の誕生へ。その時代の空気感を存分に味わえる一冊である。
2013年5月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何と云っても、推定は最小限に止めて、地元で長年暮らした著者によって、千駄木時代の漱石に関する事実が詳細に記述されている点が最も素晴らしいと思います。「道草」冒頭を取り上げて、イラストでは健三と島田がばったりとであった場所として「根津権現の裏門の坂」を上って「一炉庵」を右に曲がる辺りとして描かれています。
しかし、2013年4月14日現地を歩き回った上で、この解釈に疑問があります。
道草一
健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋さびし味みさえ感じた。
彼の身体からだには新らしく後に見捨てた遠い国の臭がまだ付着していた。彼はそれを忌いんだ。一日も早くその臭を振ふるい落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。
彼はこうした気分を有もった人にありがちな落付おちつきのない態度で、千駄木から追分へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。
ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を上がって、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼めをわきへ外そらさせたのである。
こうした無事の日が五日続いた後あと、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆ほとんどこの前と違わなかった。その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人なんびとをも不安にしなければやまないほどな注意を双眼そうがんに集めて彼を凝視した。隙すきさえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇どんよりした眸ひとみのうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍そばを通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。 「とてもこれだけでは済むまい」 しかしその日家うちへ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。
道草冒頭です。
「千駄木から追分へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。」
このルートとしては二通り考えられ、千駄木の家から「南」に進んで「根津権現の裏門の坂(都道437号線)」に出た後
1.そのまま「根津権現の裏門の坂」を横切って、「南」へ進んで、西行寺を過ぎて右折、西に歩いて、現農学部で本郷通りに出て左折、「南」へ本郷追分まで歩いて、帝国大学校内に入った。 あるいは
2.明治36年創業の和菓子屋「一炉庵」を右手に見ながら右折、「根津権現の裏門の坂」を「西」に進み、本郷通りに出て左折、「南」へ本郷追分まで進んで、帝国大学校内に入った。
私は、1.のルートではないかと感じました。
その上で、次の記載ですが、
「何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。「その人は根津権現の裏門の坂を上がって、彼と反対に北へ向いて歩いて来た」ものと見えて、
このくだりですが、健三の朝の通勤を思わせる記載です。「根津権現の裏門の坂」は東西方向なので「坂を上あがって、彼と反対に北へ向いて」という記述が理解しかねます。健三が「南に向かって歩いていた」とすると、二人がすれ違ったのは「根津権現の裏門の坂」ではなくて「千駄木の家と西行寺を結ぶ道」になります。もし、「その人は根津権現の裏門の坂を上がって、彼と反対に「東」へ向いて歩いて来たものと見えて」と書かれていれば、「根津権現の裏門の坂」の途中、「一炉庵」と「本郷通り」の間で、西に向かう健三と東に向かう島田の二人がすれ違ったと解釈できます。
あるいは
「根津権現の裏門の坂」を(西に)上がって、(一炉庵のところで右折して)彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、と解釈すれば
千駄木の家から一炉庵のある十字路に到達する、おそらく200m前後の間で遭遇したことになります。
ここで、森まゆみ著『千駄木の漱石』17ページの記載によると「(千駄木の家跡地は)現在は日本医大同窓会館となっており、右脇に昭和四十八年、川端東成揮毫による「夏目漱石旧居跡」の石碑が「鎌倉漱石の会」によって建てられた。高度成長期の昭和四十年代には建物の保存を求めるのはごく小さな声にすぎず、現地保存はならずして、関係者の奔走で明治村に移築された。この家は庭をふくめて敷地が四百坪ほどあり、『南隣は(畑を挟んで)車屋』で、その二軒ほど先に小さな癲狂院があった。高台で庭も広く、神田や本郷に近かったから阿具のいうように「役人や学者」にとってはぜひとも住みたい家であった。」
千駄木の家の南隣が(畑を挟んで)車屋とすると、健三は家を出て、南へ200m先の「根津権現の裏門の坂」の方角に歩き出したところ、南隣の車屋を過ぎて間もなく、距離にすると10間、約20m先で、思いがけず、北に向かう島田と出くわしたことになります。
細かい説明を挿入すると
ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを「南へ」「根津権現の裏門の坂の方角に」本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると「千駄木の家の畑を挟んで南隣の」車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を「西に」上がって、『一路庵のある十字路を右に曲がって』彼と反対に北へ向いて(約180m程)歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間(約20m)位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼めをわきへ外そらさせたのである。
すなわち、「健三は、自宅を出た途端に、島田に遭遇した」という印象で、健三の驚きが強調された文章です。したがって、島田が、南に180m手前にある「根津権現の裏門の坂を上がって」来たかどうかは本質的な要件ではなく、また、遭遇した場所から、「根津権現の裏門の坂」の辺りの様子をうかがい知るのも困難であったはずです。
恐らく、直感が働いて、あるいは、思わぬ再会の重々しい雰囲気を伝えるため、「根津権現の裏門の坂を上がって」という表現が持ち出された可能性が高いと思われます。実際に「根津権現の裏門の坂」を歩いてみても、膨大な敷地の神社で、裏門周辺には得体のしれない不気味さが感じられました。6日後の二度目の殆ど同じ場所での遭遇の場面についての記載にも「根津権現の裏門の坂」という表現が出てきます。六年あまり暮らした土地柄、方角は勘違いではなく、その通りに書かれていると思われます。
以上の通り、森まゆみ氏は、千駄木の家の『南隣は(畑を挟んで)車屋』と記載されているにもかかわらず、イラストでは「健三と島田がばったりとであった場所として『根津権現の裏門の坂を上って「一炉庵」を右に曲がる辺り』を描かれていることに疑問があります。
しかし、2013年4月14日現地を歩き回った上で、この解釈に疑問があります。
道草一
健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋さびし味みさえ感じた。
彼の身体からだには新らしく後に見捨てた遠い国の臭がまだ付着していた。彼はそれを忌いんだ。一日も早くその臭を振ふるい落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。
彼はこうした気分を有もった人にありがちな落付おちつきのない態度で、千駄木から追分へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。
ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を上がって、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼めをわきへ外そらさせたのである。
こうした無事の日が五日続いた後あと、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆ほとんどこの前と違わなかった。その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人なんびとをも不安にしなければやまないほどな注意を双眼そうがんに集めて彼を凝視した。隙すきさえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇どんよりした眸ひとみのうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍そばを通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。 「とてもこれだけでは済むまい」 しかしその日家うちへ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。
道草冒頭です。
「千駄木から追分へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。」
このルートとしては二通り考えられ、千駄木の家から「南」に進んで「根津権現の裏門の坂(都道437号線)」に出た後
1.そのまま「根津権現の裏門の坂」を横切って、「南」へ進んで、西行寺を過ぎて右折、西に歩いて、現農学部で本郷通りに出て左折、「南」へ本郷追分まで歩いて、帝国大学校内に入った。 あるいは
2.明治36年創業の和菓子屋「一炉庵」を右手に見ながら右折、「根津権現の裏門の坂」を「西」に進み、本郷通りに出て左折、「南」へ本郷追分まで進んで、帝国大学校内に入った。
私は、1.のルートではないかと感じました。
その上で、次の記載ですが、
「何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。「その人は根津権現の裏門の坂を上がって、彼と反対に北へ向いて歩いて来た」ものと見えて、
このくだりですが、健三の朝の通勤を思わせる記載です。「根津権現の裏門の坂」は東西方向なので「坂を上あがって、彼と反対に北へ向いて」という記述が理解しかねます。健三が「南に向かって歩いていた」とすると、二人がすれ違ったのは「根津権現の裏門の坂」ではなくて「千駄木の家と西行寺を結ぶ道」になります。もし、「その人は根津権現の裏門の坂を上がって、彼と反対に「東」へ向いて歩いて来たものと見えて」と書かれていれば、「根津権現の裏門の坂」の途中、「一炉庵」と「本郷通り」の間で、西に向かう健三と東に向かう島田の二人がすれ違ったと解釈できます。
あるいは
「根津権現の裏門の坂」を(西に)上がって、(一炉庵のところで右折して)彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、と解釈すれば
千駄木の家から一炉庵のある十字路に到達する、おそらく200m前後の間で遭遇したことになります。
ここで、森まゆみ著『千駄木の漱石』17ページの記載によると「(千駄木の家跡地は)現在は日本医大同窓会館となっており、右脇に昭和四十八年、川端東成揮毫による「夏目漱石旧居跡」の石碑が「鎌倉漱石の会」によって建てられた。高度成長期の昭和四十年代には建物の保存を求めるのはごく小さな声にすぎず、現地保存はならずして、関係者の奔走で明治村に移築された。この家は庭をふくめて敷地が四百坪ほどあり、『南隣は(畑を挟んで)車屋』で、その二軒ほど先に小さな癲狂院があった。高台で庭も広く、神田や本郷に近かったから阿具のいうように「役人や学者」にとってはぜひとも住みたい家であった。」
千駄木の家の南隣が(畑を挟んで)車屋とすると、健三は家を出て、南へ200m先の「根津権現の裏門の坂」の方角に歩き出したところ、南隣の車屋を過ぎて間もなく、距離にすると10間、約20m先で、思いがけず、北に向かう島田と出くわしたことになります。
細かい説明を挿入すると
ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを「南へ」「根津権現の裏門の坂の方角に」本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると「千駄木の家の畑を挟んで南隣の」車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を「西に」上がって、『一路庵のある十字路を右に曲がって』彼と反対に北へ向いて(約180m程)歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間(約20m)位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼めをわきへ外そらさせたのである。
すなわち、「健三は、自宅を出た途端に、島田に遭遇した」という印象で、健三の驚きが強調された文章です。したがって、島田が、南に180m手前にある「根津権現の裏門の坂を上がって」来たかどうかは本質的な要件ではなく、また、遭遇した場所から、「根津権現の裏門の坂」の辺りの様子をうかがい知るのも困難であったはずです。
恐らく、直感が働いて、あるいは、思わぬ再会の重々しい雰囲気を伝えるため、「根津権現の裏門の坂を上がって」という表現が持ち出された可能性が高いと思われます。実際に「根津権現の裏門の坂」を歩いてみても、膨大な敷地の神社で、裏門周辺には得体のしれない不気味さが感じられました。6日後の二度目の殆ど同じ場所での遭遇の場面についての記載にも「根津権現の裏門の坂」という表現が出てきます。六年あまり暮らした土地柄、方角は勘違いではなく、その通りに書かれていると思われます。
以上の通り、森まゆみ氏は、千駄木の家の『南隣は(畑を挟んで)車屋』と記載されているにもかかわらず、イラストでは「健三と島田がばったりとであった場所として『根津権現の裏門の坂を上って「一炉庵」を右に曲がる辺り』を描かれていることに疑問があります。
VINEメンバー
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著者による谷根千3部作の最後の作品。明治36年から明治39年まで千駄木に住んだ夏目漱石について、その人柄を作者に馴染みの地域を通して透かして見た、愛の籠もった本である。
最初の方に載っている、初期に書かれた古い文章では、妻や子どもに暴力を振るいつつ、弟子たちには優しく接する漱石の身勝手さが、ホモソーシャルな明治社会を見据えながら、女性目線で鋭く批判されている。しかし後に続く文章を読むと、漱石先生の身勝手に見える行動のなかに彼特有の真面目さや滑稽さなどが温かく記されるようになり、著者も齢を重ねるにつれて(?)、漱石先生と一緒に楽しんで文章を書く余裕が生まれたのかなと勝手なことを思った。
千駄木で書かれた『吾輩は猫である』はあくまでも馬鹿馬鹿しく愉快であり、「船へ乗って月を見て美人の御酌でビールが飲みたい」と手紙に書いてしまう脳天気な漱石は、この当時、本当に幸せであったに違いない。それが伝わったのか、私にとっても、とても幸福な読後感であった。
最初の方に載っている、初期に書かれた古い文章では、妻や子どもに暴力を振るいつつ、弟子たちには優しく接する漱石の身勝手さが、ホモソーシャルな明治社会を見据えながら、女性目線で鋭く批判されている。しかし後に続く文章を読むと、漱石先生の身勝手に見える行動のなかに彼特有の真面目さや滑稽さなどが温かく記されるようになり、著者も齢を重ねるにつれて(?)、漱石先生と一緒に楽しんで文章を書く余裕が生まれたのかなと勝手なことを思った。
千駄木で書かれた『吾輩は猫である』はあくまでも馬鹿馬鹿しく愉快であり、「船へ乗って月を見て美人の御酌でビールが飲みたい」と手紙に書いてしまう脳天気な漱石は、この当時、本当に幸せであったに違いない。それが伝わったのか、私にとっても、とても幸福な読後感であった。