文庫版のあとがきで、訳者の宇野氏も注目する(p.392)下巻第12章「遊牧論あるいは戦争機械」にある、「戦争機械」について考えてみた。なぜなら、戦争や争いごとを防ぐ戦略があるなら、恐らくそれは道徳や理性などの意識的な努力では不可能と思えるからだ。
公理一;戦争機械は国家装置の外部に存在する。
公理二;戦争機械は遊牧民の発明である(それが国家装置の外部にあり軍事制度と区別されるかぎりにおいて)。
本書『千のプラトー』は、序でリゾームの説明から始まる。ドゥルーズ=ガタリのリゾーム(rhizome)とは、植物たちの地下茎(リゾーム)が縦横に走っているイメージである。地下茎はネットワークに組まれているが、始まりもなく終わりもない群れや徒党である。「群れや徒党はリゾーム型の集団であり、権力諸機関に権力を集中させる樹木状集団に対立する(p.27)」とあるように、地下にある根と地上の樹木が対比される。
そんな流動的なネットワークを、遊牧民(ノマド)たちは、器官(権力)によって統制されることのない身体のように、時に応じて自分の位置取りを決める。人の意識や情動はもっと世界を自由に駆け巡っていくはずなのだ。
「戦争機械」という文字は、戦争をする道具、つまり戦車や槍、鉄砲や戦闘機を連想させるが、戦争機械イコール戦争ではない。「機械」の使い方が独特であり、他でも多用されている。
人類は太古の昔から道具や器具をつくり続けてきた。その道具や器具とともに欲望を駆り立ててきた。欲望機械という用語も使われている。槍を手にすれば狩りがしたくなる。望遠鏡の発明は天体への興味をあおる。馬にひかれた二輪の戦車に乗れば競う相手が欲しくなる。物と身体と意識はくっついているのである。だからこそ、遊牧民が戦争機械の発明者なのだ(公理二)。しかし、それは国家の外にあることで無害である(公理一)。
この章の結論;「戦争機械は、戦争機械を所有して戦争を事業と目的にする国家装置に対抗して構成されるのであり、捕獲と支配の装置による大規模な接合に直面しつつ、さまざまな連結を対抗させるのである(p.151)」とあるので、戦争機械は国家に対抗するものということになる。ただしそれは遊牧民の戦争機械であり、国家機関により統制のとれた戦争機械ではない。「接合」とは国家に吸収されることを意味しよう。反対に「連結」とはリゾームのこと、遊牧民たちのリゾームということになろう。遊牧民の戦争機械は殺戮を目的とはしない。彼ら戦士の個人的な威信の獲得が目的となる。
以上だが、ドゥルーズ=ガタリの「戦争機械の反国家性」を説明できたかどうかは疑わしい。やはり、ドゥルーズ=ガタリは難しい。
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