金枝篇は壮大な野心をもった本であって、そして野心的な活字とは必ずこういう形になる。
それは 「一冊の中に世界を閉じ込める」 という野心だ。
詩集であっても、文学であっても、科学書であっても、数学の論文であっても、哲学書であっても、
偉大な本においては、必ず野心の内容は一致する。
フレーザーはこの野心のために二つのことをしている。
ひとつ、壮大は人類史を叙述する。
ふたつ、膨大な事例を集める。
このうち、ひとつめ、人類史の理論については完全に賞味期限が切れている。
同じ頃に日本で書かれた活字に柳田国男によってなされた諸々の研究があるが、こんにち、民俗学者が柳田に言及することはあっても、
人類学者がフレーザーに言及することはまずありえない。
金枝篇を読むさいは、人類史の叙述とキリスト教の解釈には眉に唾をつけて読むことになっている。
ふたつめの膨大な事例ついては、おそらく永遠に残る偉大な仕事だと思う。
さらに隠し要素として、フレーザーは文体が神がかって美しい。これだけ面白い文体で書く学者というのはまずいない。
たとえば一章、一節の書き出しからしてすでに学術書の風ではない。
ターナーの絵画「金枝」を知らないものがいるだろうか。一面の情景を覆っているのは黄金色に輝く想像力である。
(中略)小さな森の湖ネミ、古代の人々が「ディアナの鏡」と呼んだその湖の、夢のようなヴィジョンである。アル
バノの丘陵の緑の谷間に抱かれた、鎮静とした水面を目にしたものは、これを決して忘れることができない。土手に
まどろむ―(以下略)
このように実在しない世界の細かな風景描写が延々と続く。
これはフレーザーが古典学の研究で学者のキャリアをスタートさせたことと関係がある。
文学書として読んでも面白い、という点も金枝篇の素晴らしさだと思う。
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