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冷泉家 八○○年の「守る力」 (集英社新書) 新書 – 2013/8/21
冷泉 貴実子
(著)
藤原俊成、定家を祖とする、京都「和歌の家」が伝授する
時代に流されない方法
冷泉家は藤原俊成・定家の血を引く「和歌の家」として、その伝統と文化を京都の地で今日まで守り続けている。冷泉家の長女として生まれた著者によれば、冷泉家には「大事にせんとバチが当たる」「相変わらずで結構」など、独特な伝統・文化継承の秘訣があるという。当主夫人でしか語りえない代々のエピソードをもとに、急速に変化する現代社会の中で、我々が時代に流されず生きるためのヒントとなる公家の知恵、冷泉家八〇〇年の「守る力」を明かす。
[著者情報]
冷泉貴実子(れいぜい きみこ)
一九四七年、藤原俊成・定家を祖とする「和歌の家」冷泉家二四代為任の長女として生まれる。二五代当主・為人夫人。公益財団法人冷泉家時雨亭文庫常務理事、事務局長。著書に『京の八百歳 冷泉家歌ごよみ』(京都新聞出版センター)、『花もみぢ 冷泉家と京都』(書肆フローラ)など。
時代に流されない方法
冷泉家は藤原俊成・定家の血を引く「和歌の家」として、その伝統と文化を京都の地で今日まで守り続けている。冷泉家の長女として生まれた著者によれば、冷泉家には「大事にせんとバチが当たる」「相変わらずで結構」など、独特な伝統・文化継承の秘訣があるという。当主夫人でしか語りえない代々のエピソードをもとに、急速に変化する現代社会の中で、我々が時代に流されず生きるためのヒントとなる公家の知恵、冷泉家八〇〇年の「守る力」を明かす。
[著者情報]
冷泉貴実子(れいぜい きみこ)
一九四七年、藤原俊成・定家を祖とする「和歌の家」冷泉家二四代為任の長女として生まれる。二五代当主・為人夫人。公益財団法人冷泉家時雨亭文庫常務理事、事務局長。著書に『京の八百歳 冷泉家歌ごよみ』(京都新聞出版センター)、『花もみぢ 冷泉家と京都』(書肆フローラ)など。
- 本の長さ192ページ
- 言語日本語
- 出版社集英社
- 発売日2013/8/21
- ISBN-104087207048
- ISBN-13978-4087207040
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
冷泉家は藤原俊成・定家の血を引く「和歌の家」として、その伝統と文化を京都の地で今日まで守り続けている。冷泉家の長女として生まれた著者によれば、冷泉家には「大事にせんとバチが当たる」「相変わらずで結構」など、独特な伝統・文化継承の秘訣があるという。当主夫人でしか語りえない代々のエピソードをもとに、急速に変化する現代社会の中で、我々が時代に流されず生きるためのヒントとなる“公家の知恵”、冷泉家八〇〇年の「守る力」を明かす。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
冷泉/貴実子
1947年、藤原俊成・定家を祖とする「和歌の家」冷泉家二四代為任の長女として生まれる。二五代当主・偽人夫人。公益財団法人冷泉家時雨亭文庫常務理事、事務局長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1947年、藤原俊成・定家を祖とする「和歌の家」冷泉家二四代為任の長女として生まれる。二五代当主・偽人夫人。公益財団法人冷泉家時雨亭文庫常務理事、事務局長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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登録情報
- 出版社 : 集英社 (2013/8/21)
- 発売日 : 2013/8/21
- 言語 : 日本語
- 新書 : 192ページ
- ISBN-10 : 4087207048
- ISBN-13 : 978-4087207040
- Amazon 売れ筋ランキング: - 292,251位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 281位和歌・俳諧
- - 575位集英社新書
- - 9,438位エッセー・随筆 (本)
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年10月18日に日本でレビュー済み
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Amazonで購入
冷泉家説明会へ出席するために使いました。著者ご当主にお会いでき、参考になりました。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2019年9月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
TV番組で御屋敷内と行事の様子を拝見して、購読。
拝読しながら、次第に拝聴している感覚で読み進めた。
淀みなく読み終えて、藤原俊成・定家親子や和歌に距離感が縮まった感がした。
翌日、『新古今和歌集』の解説を再度読み直すと、
やはり浸透が違い、理解が早いのである。
受験のための古典文学から始まった私だが、
古今・新古今は早くに鑑賞することが好きになった。
『古今和歌集』の仮名序を読んだ時の驚きと感銘は、今でも忘れられない。
約千百年以上前の古文が、心に入って来るとは思わなかった頃の事だ。
“和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。”
この一文で、理屈抜きに傾倒した。
しかし、だからと言って、和歌が現代語訳や解説なしで分かるものではないのだ。
唯、不思議なもので、「呼ばれる」と言えばよいのか、
頁を何気にめくり眺めていると、何故か気になる一首に出会う。
後で調べてみると、その時の真情や情況などに一致しているのだ。
『新古今和歌集』は、息子が使用した高校教科書「国語総合」の単元で、
「折々のうた」で次の2首が取り上げられていた。
藤原定家「梅の花匂いをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ」(44)
藤原家隆「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づる有明の月」(639)
この2首では、
息子が「今日は月がきれい。」と伝えてくる時は満月、
一方、私は月なら繊月が好きな為、
家隆の歌に感銘を受けたが、
この家隆の師は定家の父俊成である。
息子の定家と門下生の家隆、
二人の歌人の才能を大きく開花させた、俊成の教育者としての才能も類いまれである。
歌道の大権威と本書で紹介されており、至極当然だと感じた。
最も首肯し、教授されたところは、
第五章「歌の力、型の力」に於いて、
和歌といわゆる現代短歌は本質的に違うということだった。
“それは、概念としては明治以降入ってきた西欧近代詩の一ジャンルというほうが近いのであって、
伝統の型で表現しようとする和歌とはスタンスが違う、ということです。”
(139頁より抜粋)
今まで、私個人の趣味嗜好の範疇の事だと思っていたが、
本書で違いが明らかにされていた。
同じ形の五七五七五七で表された詩歌なのに、
和歌には手応えや前述の様な不思議な力があるのに、
短歌はいまひとつ感動も関心も薄かったのだ。
何故なら、私は日本近代詩が殆ど苦手で、
数人の詩人の作品以外は、積極的に読もうと思えない傾向があるのだ。
端的に言えば、何を表現しているか解りづらいゆえ、
鑑賞のポイントが、好き嫌いに著しく偏るからで、
勿論、趣味嗜好が合わないということでもある。
“「やっぱり、和歌はエエなあ」。
と言いつつも、誰も和歌の意味を正確には把握していない。
それでも「エエなあ」なのだ。
何故なのか。読み上げる調べが心地いいのか。
理解できないまま単語が美しいのか。
不思議だ。
私は日本人だからだと思う。日本で教育を受けたからだろう。”
(186頁、おわりに より抜粋)
和歌に収斂され、集約された、日本人の感性。
回帰する度に深まりゆく共感。
歌聖 藤原定家の祥月命日(1241年9月26日)に 。
拝読しながら、次第に拝聴している感覚で読み進めた。
淀みなく読み終えて、藤原俊成・定家親子や和歌に距離感が縮まった感がした。
翌日、『新古今和歌集』の解説を再度読み直すと、
やはり浸透が違い、理解が早いのである。
受験のための古典文学から始まった私だが、
古今・新古今は早くに鑑賞することが好きになった。
『古今和歌集』の仮名序を読んだ時の驚きと感銘は、今でも忘れられない。
約千百年以上前の古文が、心に入って来るとは思わなかった頃の事だ。
“和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。”
この一文で、理屈抜きに傾倒した。
しかし、だからと言って、和歌が現代語訳や解説なしで分かるものではないのだ。
唯、不思議なもので、「呼ばれる」と言えばよいのか、
頁を何気にめくり眺めていると、何故か気になる一首に出会う。
後で調べてみると、その時の真情や情況などに一致しているのだ。
『新古今和歌集』は、息子が使用した高校教科書「国語総合」の単元で、
「折々のうた」で次の2首が取り上げられていた。
藤原定家「梅の花匂いをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ」(44)
藤原家隆「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷りて出づる有明の月」(639)
この2首では、
息子が「今日は月がきれい。」と伝えてくる時は満月、
一方、私は月なら繊月が好きな為、
家隆の歌に感銘を受けたが、
この家隆の師は定家の父俊成である。
息子の定家と門下生の家隆、
二人の歌人の才能を大きく開花させた、俊成の教育者としての才能も類いまれである。
歌道の大権威と本書で紹介されており、至極当然だと感じた。
最も首肯し、教授されたところは、
第五章「歌の力、型の力」に於いて、
和歌といわゆる現代短歌は本質的に違うということだった。
“それは、概念としては明治以降入ってきた西欧近代詩の一ジャンルというほうが近いのであって、
伝統の型で表現しようとする和歌とはスタンスが違う、ということです。”
(139頁より抜粋)
今まで、私個人の趣味嗜好の範疇の事だと思っていたが、
本書で違いが明らかにされていた。
同じ形の五七五七五七で表された詩歌なのに、
和歌には手応えや前述の様な不思議な力があるのに、
短歌はいまひとつ感動も関心も薄かったのだ。
何故なら、私は日本近代詩が殆ど苦手で、
数人の詩人の作品以外は、積極的に読もうと思えない傾向があるのだ。
端的に言えば、何を表現しているか解りづらいゆえ、
鑑賞のポイントが、好き嫌いに著しく偏るからで、
勿論、趣味嗜好が合わないということでもある。
“「やっぱり、和歌はエエなあ」。
と言いつつも、誰も和歌の意味を正確には把握していない。
それでも「エエなあ」なのだ。
何故なのか。読み上げる調べが心地いいのか。
理解できないまま単語が美しいのか。
不思議だ。
私は日本人だからだと思う。日本で教育を受けたからだろう。”
(186頁、おわりに より抜粋)
和歌に収斂され、集約された、日本人の感性。
回帰する度に深まりゆく共感。
歌聖 藤原定家の祥月命日(1241年9月26日)に 。