文化、それは自然を写す鏡(擬態)であり、言語はメタ自然としての文化の象徴です。
即ち、言語は自然の再象徴(メタシンボル・オブ・ネイチャー)なのです。
人間精神による自然の統合は自然~文化~言語という階層構造を経由します。
しかし、言語のみによっては文化は理解しえないのではないでしょうか。
だから、本書では言語学ではなくて言語人類学的に対象にアプローチしています。
言語学と言語人類学の違いは明瞭です。
即ち、言語学とは音韻、統語、意味の3分野から成り、
各言語の無意識的構造を分析し、ひいては一般言語学への編み上げに向かうものですが、
一方の言語人類学は対象とする人々が現地の自然とかかわりあいながら生活する中で、
鍛え上げられてきた認識態様そのものが当該言語の中にどう息づいているのかに注目し、
とりわけて一般化には向かわないのが常であります。
本書はその点、メラネシア・フィジー地域における首長交代劇について銘記した古文書をテクストとして、
言語人類学的な考察を施し、儀礼(祭り)の構造・機能を浮かび上がらせるのに成功しています。
文化人類学的には儀礼には当該社会の構造が埋め込まれており、
逆に儀礼を見ればその社会構造が分かるという関係です。
他方、その機能はいったいなんでしょうか。それは国内に残るいくつかの伝統儀礼間の比較を通じても、
ある程度は分かることですが、日常(ケ)における社会秩序の再生産です。
つまり、儀礼の施行を通じて王権は自らを再生産しますが、
それとともにその王権が及ぶ範囲(境域)内での社会秩序をも再生産するのです。
同じことが学校制度についてもいえるでしょう。
近代学校は特殊近代的な社会秩序を再生産する文化装置(P.ブルデュー)にほかならず、
かなりのイデオロギー性を帯びた社会的存在です。
本書からの示唆としてはオリジナルテクストの読解(正しい解釈)には、
言語人類学的方法が相応の有効性を発揮すること、つまり言語を文化ごと把握し、
その文化を直観的かつ包括的に理解すること、そのうえでの分析過程なのです。
理解にはそのような包括的理解(コンプリヘンション)と分析的理解(アナリシス)がありますが、
文化の統合的な理解にはまずは前者のほうが優先するようです。
以上まとめると儀礼は社会構造の象徴交換体系であり、その社会の再生産をもたらし、
自然人類学的な包括適応度を上げる方向に作用します。即ち、統合度の上昇を伴います。
また、メソドロジーとしての言語人類学は文化理解にとって有用であり、
さらにいえば自然性や身体性など生態人類学的考察と併せることでなお一層の効果が期待できましょう。
そんな向きに本書の解読をおすすめしておきます。
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