他の人が良いレビューをしているので、敢えて解説は避けたい。この本は1回目読んで5年間放置していて、最近再読したにもかかわらず、私個人にとってはもう「必要の無い」本になってしまった。理由は、過去にこだわりを捨てたからだ。個人的に思ったことを書きたい。
こういう大学教授は専門を抱えると、その分野の用語でもって論理を展開しないといけない無意識的な<不自由>を抱えてしまう。もっと相対化して、現代思想とか哲学的用語とかのタームを捨てきってしまえば、もっとわかりやすい内容に出来たはずだ。それをなぜ出来なかったのか?
リチャード・ローティはすでに亡くなっているので、それももう叶わないが、正しくあろうとすることと、共同体の中で正義と善を違うものとして考え、私的な小さな幸福と、メタファーを使い直接的な説得を避け、残酷にならないように努めて、一貫した正しさなど必要なく、小さくとも幸せを感じれば良いと、こう書けば多くの人が納得出来たはずだ。
著者はマルセル・プルーストやナボコフ、オーウェルなどの小説家を遡上に挙げて、そこから垣間見える<偶有性>に対して意識的であろうとし、その偶然の「出会い」を大切にし、必然性によるごりごりの論理を破綻させてやろうとする戦略の様だ。だが、それをするあまりに、言い回しがかなりまどろっこしくなっている気がする。個人的にこの辺は読むに堪えない。★を減らした理由の大部分はここにある。
私の「嫌い」な哲学者(とも認めないが)ジャック・デリダの様に論理をずらす(脱構築)などして、「偶有性」でもって哲学的必然性を解体していこうと目論んでいる感じがする。このやり方は、日本なら自称・デリダリアンの東浩紀氏が自らのオタク性でもって、デリダや思想の「ツール」を使ったて切り刻んだ「批評料理」の拘りに近い。こういうやり方は、スラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの理論でもってヒッチコックやスティーヴン・キングなどを取り上げ、ラカンの理論と思想を「ツール」として使って、矛盾や論理的破綻を浮上させ「方法」が有名である。
古くは、蓮實重彦氏が提案した「倒錯者の戦略」(参照:「
表層批評宣言
」)と呼ばれるもので、徹底的にその「虚偽」を過剰に「演技」してその論理的矛盾を浮上させて破綻させる方法だ。もっとわかりやすく言えば村松友視「
」の様な本にあるプロレス的方法の方がもっと良い。
「物語」、共同体内にある「共同幻想」、忖度すること、「不自由」な「演技」を強いられたリチャード・ローティなりの「遊び」なのだろう(この場合の「遊び」は<遊戯>という意味と思索と表現の「あいだ」にある本質的空隙も意味する)。
けれど、私はこういう本を読む前に、故郷や言語などの正真正銘、過去の拘りを捨てた反哲学者・シオランを読んでしまったが故に、もっとはっきり言いたかったことがあるのがわかってくる。シオランを読むと、晩年には多幸感に包まれたニーチェに愛想を尽かして、徹底的な最悪主義を貫いていき、リベラルなユートピアなど唾棄している。非常に貧困に苦しんだシオランは、一方では論壇など全く考えなくて良い立場にあったことが大きい。
リチャード・ローティは、そこまで何故「希望」を持とうとするかと、疑問に思う。逆にそれ故にアイロニー(表面的な立ち居振る舞いによって本質を隠すこと、無知の状態を演じること)に満ちているとも思われる。本来は絶望していたのかもしれないが、職業上それは難しかったのだろう。リチャード・ローティもある意味可哀そうな気になる。何より論壇「政治」に巻き込まれると「本当に思っていること」が実は言えなくなるのだ。
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