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・ ・ ・ 二十歳の私は自分の性質が孤児(みなしご)根性で歪んでいると厳しい反省を
重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。
「伊豆の踊子」
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川端康成の「青春の記念碑」とも言うべき作品「伊豆の踊子」は、1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』に「伊豆の踊子」、「続伊豆の踊子」として発表され、翌1927年(昭和2年)に金星堂より単行本として刊行された小説である。 川端が旧制一高在学時に、伊豆を旅した20歳の時の実体験を元にしているとされる。
多数回にわたる映画化が示すように、平明なストーリーと、有数の観光地が舞台となった美しい青春の息吹が感じられる抒情的な作品であるため、その時代の人気スターたちが競って「薫(かおる)=踊り子役」を演じており(美空ひばり・吉永小百合・山口百恵等)、さながら若手女優の登竜門としての定番作品の感さえある。
この作品は少年時代の初読から、かなりの時間を空けながら三回拝読させて頂いた。
そして、初回の「清純な純愛物語」といった印象から、二回目には美しい踊子の清楚な印象にも増して 主人公のラスト・シーンの涙の叙述に関心が移り(⇒「青春のリリシズム」といった感想を持った)、今回は三回目として他の初期作品と共にあらためて拝読すると、川端自身が幼少時に両親と死別し、「孤児(みなしご)」の自意識を強く持っていたことなどが作品と共に強く私の心に迫り、多感な青年の 「 人生との和解 ・ ・ ・ 自分という存在の肯定の喜び 」 が ひとしお強く感じられた。
幼年期から青年期にかけて両親を早く亡くしたがゆえに、兄弟姉妹が散り々々に親類に引き取られて生育するという川端の幼少期の生い立ちの経緯は、川端自身に限らず、その子が優秀で 多感であればあるほど、その後の人格形成や世界観に大きな影響を与えずにはおかぬ事実であるに相違ない。
川端の初期作品には、この「孤児意識」を克服するために川端自身が自然に身に付けたと思われる 「 第三者的諦観 」 が常に存在する と感じるが、そのような自分に対する青年期特有の「自己嫌悪」が この作品において ” カタルシス・・・精神の浄化 ” により救済され得ていることは、川端の他の作品には見られない「伊豆の踊子」という作品の大きな特色であり、魅力でもある。
「 そんなに強がらなくてもいいのよ。 あなたは、” いいひと ” なんですから・・・ 」
こんな自己肯定のメッセージを、傷心の一人旅で偶然知り合った、無辜で可憐な乙女である 薫(踊子) から告げられた事実は、多感な若き川端の、傷付いた心の奥底を揺るがしたに違いない出来事であったろう。
その喜びと 流した涙の清冽さは、読者自身が青春時代の混沌とした精神に思いを馳せる時、深く共感出来るものである。
「伊豆の踊子」は、多感な青年が自己を偽らずにその内面を綴った青春期の小説であり、作品構成の美しさと相俟って、万人の心に迫る力を持つ 若い生命力にあふれた作品と評し得よう。
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