1969年に出版されて、2008年に復刻された本。
著名な本は、きちんと復刻されて、手に入ると嬉しい。
菊竹清訓が、1958年から1967年の約10年間にわたり、書いてきた文章をまとめたもの。
日本の高度経済成長期にあり、1964年には東京オリンピックがあった。
1970年には、大阪万博があり、その前までの時期に書かれている。
1958年は、ちょうど神武景気から岩戸景気と言われる時代である。
一方で、公害問題が起こり、技術進歩が、幸福にならないのではないか?
というような問いかけの中で、
菊竹清訓は、「設計とは何か」を真摯に向かい合っている。
随分と熱い想いが、その中に込められている。
デザイン(設計)とは何か?
設計の方法論を武谷三男の理論に基づいて展開していることに
その時代の背景が見えてくるような気もする。
1970年前後は、理科系学生として、武谷三男の本を読み
その方法論のロジカル性に、随分と影響を受けた時期があった。
「現象ー実体ー本質」という科学方法論で、物事や事象を見ることがあった。
そのようなことを思い出しながら、
菊竹清訓が、設計において、「か・かた・かたち」という方法論に応用したのは、
非常に面白く感じる。「か」が本質であり、ビジョンや思想。
「かた」が実体であり、法則や技術。「かたち」が現象であり、形態である。
なんとなく、ダジャレ的な言葉の選び方であるが、伝えようとすることは、
意味があるように思える。こんな風に考えるからこそ、メタボリズムという
取り換え可能な建築という提案にも発展したのかもしれない。
丹下は、「美しきもののみ機能的である」と述べ、
ルコルビジェの「機能的なものは美しい」という機能主義的建築観を批判した。
また、「伝統的建築」に対しても、否定的であり、日本的モダニズムを確立した。
そのため、この本には、「伝統について」「目に見えるものの秩序」
「目に見えないものの秩序」という章が構成されている。
ルイカーンの「空間は機能を啓示する」という意見を受けて
この本では、「空間は機能を捨てる」と言い切っている。
空間は機能を捨てるという言葉は、ある意味では、謎のような問いかけでもある。
この商品をお持ちですか?
マーケットプレイスに出品する

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません 。詳細はこちら
Kindle Cloud Readerを使い、ブラウザですぐに読むことができます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
代謝建築論―か・かた・かたち 単行本 – 2008/4/1
購入を強化する
- 本の長さ233ページ
- 言語日本語
- 出版社彰国社
- 発売日2008/4/1
- ISBN-104395012086
- ISBN-13978-4395012084
この商品を買った人はこんな商品も買っています
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
商品の説明
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
菊竹/清訓
建築家/工学博士。日本建築士会連合会名誉会長。1928年福岡県久留米市生まれ。1948年広島平和記念カソリック聖堂競技設計3等入賞。1950年早稲田大学理工学部建築学科卒業。1953年菊竹清訓建築設計事務所開設。1961年“か・かた・かたち”の方法論発表。1964年第7回汎太平洋賞(AIA)、第15回日本建築学会賞(出雲大社庁の舎)。1970年日本建築学会特別賞(日本万国博覧会ランドマークタワー)。1971年アメリカ建築家協会(AIA)特別名誉会員、ハワイ大学客員教授、海上都市計画コアメンバー(アメリカ建国200年記念)。1975年久留米市文化章。1978年第8回オーギュスト・ペレー賞(UIA)。1991年国際建築アカデミー(IAA)アカデミシャン・アジア代表。日本マクロエンジニアリング学会二代目会長。1994年北京工業大学名誉教授、フランス建築アカデミー会員。1995年早稲田大学より工学博士学士取得。2002年日本建築士会連合会名誉会長。2006年春の叙勲「旭日中綬章」、早稲田大学芸術功労者賞。2007年日本建築栄誉賞(日本建築士会連合会)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
建築家/工学博士。日本建築士会連合会名誉会長。1928年福岡県久留米市生まれ。1948年広島平和記念カソリック聖堂競技設計3等入賞。1950年早稲田大学理工学部建築学科卒業。1953年菊竹清訓建築設計事務所開設。1961年“か・かた・かたち”の方法論発表。1964年第7回汎太平洋賞(AIA)、第15回日本建築学会賞(出雲大社庁の舎)。1970年日本建築学会特別賞(日本万国博覧会ランドマークタワー)。1971年アメリカ建築家協会(AIA)特別名誉会員、ハワイ大学客員教授、海上都市計画コアメンバー(アメリカ建国200年記念)。1975年久留米市文化章。1978年第8回オーギュスト・ペレー賞(UIA)。1991年国際建築アカデミー(IAA)アカデミシャン・アジア代表。日本マクロエンジニアリング学会二代目会長。1994年北京工業大学名誉教授、フランス建築アカデミー会員。1995年早稲田大学より工学博士学士取得。2002年日本建築士会連合会名誉会長。2006年春の叙勲「旭日中綬章」、早稲田大学芸術功労者賞。2007年日本建築栄誉賞(日本建築士会連合会)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Kindle化リクエスト
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
登録情報
- 出版社 : 彰国社; 復刻版 (2008/4/1)
- 発売日 : 2008/4/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 233ページ
- ISBN-10 : 4395012086
- ISBN-13 : 978-4395012084
- Amazon 売れ筋ランキング: - 134,796位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.1
星5つ中の4.1
27 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。

近代建築における機能主義の限界を実感した著者は、それを乗り越える新たな理論の必要性を唱え、「空間は機能をすてる」と主張し、機能変化に対する空間的アプローチを試みる。この発言は、ルイス・サリバン「形態は機能に従う」、丹下健三「美しきもののみ機能的である」、ルイス・カーン「空間は機能を掲示する」などを意識したものである。 <空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。(抜粋) 形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。(抜粋) その要点は以下のように解釈できる。 時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。 そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。 <かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。(抜粋) か:思考/原理/本質論的段階/構想 かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術 かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態 さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。 また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。 最後に本書のタイトルでもある「代謝」という言葉に注目する。菊竹氏は「建築は代謝する環境の装置である」と述べている。 空間組織にたいして時間の要素をいれると、かけがえのない空間と、取り替えることのできる空間のこのような二つに分けて考えることができるかもしれない。(中略)建築は、空間装置と生活装置の相互関係によってつくりだされ、空間装置は、生活装置を代謝させながら、人間生活に適応していくのである(抜粋) ここでは、かけがえのない空間を「空間装置」、とりかえることのできる空間を「生活装置」と定義し、さらに新たに重要な地位を占めつつあるものとして「設備装置」を加える。これらを総合して「装置の三角構造」を提唱している。 さらに近代建築(ミース)の唱えるユニバーサル・スペースを以下のように批判する。 ユニバーサル・スペースの最も重大な問題点は、この生活機能だけを強調して空間機能を同時に取り上げようとしないところにあると、わたくしには思われるのである。(中略)空間の基本的組織は、あくまで空間そのもので示されねばならないと、わたくしは考える。そして、空間機能と生活機能は、ここではじめて対立的に統一され融合することができるのではないかと思う。(抜粋) 機能主義を乗り越えるために時間的要素(四次元)を加え、生物学的用語である新陳代謝(メタボリズム)という言葉に注目した点は、画期的な発想だと思うが、時間的要素を計画可能なものとして考えたところに「メタボリズム」の限界があったのではないだろうか。それはつい最近、代謝されることなく取り壊された黒川紀章設計の「大阪ソニータワー」を見ても明らかだと思う。 これ(メタボリズム)は建築都市を生成発展する過程でとらえ、新陳代謝できる方法を、デザインに導入しようという考え方でありまして、ここから一つの秩序を見いだそうという考えかたをいうのであります。(中略)<とりかえる>ということを通じて、建築が社会に適応していく過程、つまり代謝を媒介として適応し、進化していくという、人間とともに進む環境としての建築あるいは都市を考えるに至るのであります。(抜粋) 最後まで読み通してみると、原広司の「有孔体理論」との共通部分が垣間見える。切り口は異なるものの、両者とも近代建築の中でも特にミースを越えることを強く意識しており、そのために全体に対して「個」性に注目しようとしていると言えるのではないだろうか? 建築とは、ある種の空間が、ある一つの組織によって結合したもの(抜粋)
このレビューの画像
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
ベスト500レビュアー
Amazonで購入
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2007年8月3日に日本でレビュー済み
近代建築における機能主義の限界を実感した著者は、それを乗り越える新たな理論の必要性を唱え、「空間は機能をすてる」と主張し、機能変化に対する空間的アプローチを試みる。この発言は、ルイス・サリバン「形態は機能に従う」、丹下健三「美しきもののみ機能的である」、ルイス・カーン「空間は機能を掲示する」などを意識したものである。
<空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。(抜粋)
形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。(抜粋)
その要点は以下のように解釈できる。
時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。
そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。
<かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。(抜粋)
か:思考/原理/本質論的段階/構想
かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術
かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態
さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。
また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。
最後に本書のタイトルでもある「代謝」という言葉に注目する。菊竹氏は「建築は代謝する環境の装置である」と述べている。
空間組織にたいして時間の要素をいれると、かけがえのない空間と、取り替えることのできる空間のこのような二つに分けて考えることができるかもしれない。(中略)建築は、空間装置と生活装置の相互関係によってつくりだされ、空間装置は、生活装置を代謝させながら、人間生活に適応していくのである(抜粋)
ここでは、かけがえのない空間を「空間装置」、とりかえることのできる空間を「生活装置」と定義し、さらに新たに重要な地位を占めつつあるものとして「設備装置」を加える。これらを総合して「装置の三角構造」を提唱している。
さらに近代建築(ミース)の唱えるユニバーサル・スペースを以下のように批判する。
ユニバーサル・スペースの最も重大な問題点は、この生活機能だけを強調して空間機能を同時に取り上げようとしないところにあると、わたくしには思われるのである。(中略)空間の基本的組織は、あくまで空間そのもので示されねばならないと、わたくしは考える。そして、空間機能と生活機能は、ここではじめて対立的に統一され融合することができるのではないかと思う。(抜粋)
機能主義を乗り越えるために時間的要素(四次元)を加え、生物学的用語である新陳代謝(メタボリズム)という言葉に注目した点は、画期的な発想だと思うが、時間的要素を計画可能なものとして考えたところに「メタボリズム」の限界があったのではないだろうか。それはつい最近、代謝されることなく取り壊された黒川紀章設計の「大阪ソニータワー」を見ても明らかだと思う。
これ(メタボリズム)は建築都市を生成発展する過程でとらえ、新陳代謝できる方法を、デザインに導入しようという考え方でありまして、ここから一つの秩序を見いだそうという考えかたをいうのであります。(中略)<とりかえる>ということを通じて、建築が社会に適応していく過程、つまり代謝を媒介として適応し、進化していくという、人間とともに進む環境としての建築あるいは都市を考えるに至るのであります。(抜粋)
最後まで読み通してみると、原広司の「有孔体理論」との共通部分が垣間見える。切り口は異なるものの、両者とも近代建築の中でも特にミースを越えることを強く意識しており、そのために全体に対して「個」性に注目しようとしていると言えるのではないだろうか?
建築とは、ある種の空間が、ある一つの組織によって結合したもの(抜粋)
<空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。(抜粋)
形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。(抜粋)
その要点は以下のように解釈できる。
時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。
そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。
<かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。(抜粋)
か:思考/原理/本質論的段階/構想
かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術
かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態
さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。
また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。
最後に本書のタイトルでもある「代謝」という言葉に注目する。菊竹氏は「建築は代謝する環境の装置である」と述べている。
空間組織にたいして時間の要素をいれると、かけがえのない空間と、取り替えることのできる空間のこのような二つに分けて考えることができるかもしれない。(中略)建築は、空間装置と生活装置の相互関係によってつくりだされ、空間装置は、生活装置を代謝させながら、人間生活に適応していくのである(抜粋)
ここでは、かけがえのない空間を「空間装置」、とりかえることのできる空間を「生活装置」と定義し、さらに新たに重要な地位を占めつつあるものとして「設備装置」を加える。これらを総合して「装置の三角構造」を提唱している。
さらに近代建築(ミース)の唱えるユニバーサル・スペースを以下のように批判する。
ユニバーサル・スペースの最も重大な問題点は、この生活機能だけを強調して空間機能を同時に取り上げようとしないところにあると、わたくしには思われるのである。(中略)空間の基本的組織は、あくまで空間そのもので示されねばならないと、わたくしは考える。そして、空間機能と生活機能は、ここではじめて対立的に統一され融合することができるのではないかと思う。(抜粋)
機能主義を乗り越えるために時間的要素(四次元)を加え、生物学的用語である新陳代謝(メタボリズム)という言葉に注目した点は、画期的な発想だと思うが、時間的要素を計画可能なものとして考えたところに「メタボリズム」の限界があったのではないだろうか。それはつい最近、代謝されることなく取り壊された黒川紀章設計の「大阪ソニータワー」を見ても明らかだと思う。
これ(メタボリズム)は建築都市を生成発展する過程でとらえ、新陳代謝できる方法を、デザインに導入しようという考え方でありまして、ここから一つの秩序を見いだそうという考えかたをいうのであります。(中略)<とりかえる>ということを通じて、建築が社会に適応していく過程、つまり代謝を媒介として適応し、進化していくという、人間とともに進む環境としての建築あるいは都市を考えるに至るのであります。(抜粋)
最後まで読み通してみると、原広司の「有孔体理論」との共通部分が垣間見える。切り口は異なるものの、両者とも近代建築の中でも特にミースを越えることを強く意識しており、そのために全体に対して「個」性に注目しようとしていると言えるのではないだろうか?
建築とは、ある種の空間が、ある一つの組織によって結合したもの(抜粋)

近代建築における機能主義の限界を実感した著者は、それを乗り越える新たな理論の必要性を唱え、「空間は機能をすてる」と主張し、機能変化に対する空間的アプローチを試みる。この発言は、ルイス・サリバン「形態は機能に従う」、丹下健三「美しきもののみ機能的である」、ルイス・カーン「空間は機能を掲示する」などを意識したものである。
<空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。(抜粋)
形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。(抜粋)
その要点は以下のように解釈できる。
時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。
そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。
<かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。(抜粋)
か:思考/原理/本質論的段階/構想
かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術
かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態
さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。
また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。
最後に本書のタイトルでもある「代謝」という言葉に注目する。菊竹氏は「建築は代謝する環境の装置である」と述べている。
空間組織にたいして時間の要素をいれると、かけがえのない空間と、取り替えることのできる空間のこのような二つに分けて考えることができるかもしれない。(中略)建築は、空間装置と生活装置の相互関係によってつくりだされ、空間装置は、生活装置を代謝させながら、人間生活に適応していくのである(抜粋)
ここでは、かけがえのない空間を「空間装置」、とりかえることのできる空間を「生活装置」と定義し、さらに新たに重要な地位を占めつつあるものとして「設備装置」を加える。これらを総合して「装置の三角構造」を提唱している。
さらに近代建築(ミース)の唱えるユニバーサル・スペースを以下のように批判する。
ユニバーサル・スペースの最も重大な問題点は、この生活機能だけを強調して空間機能を同時に取り上げようとしないところにあると、わたくしには思われるのである。(中略)空間の基本的組織は、あくまで空間そのもので示されねばならないと、わたくしは考える。そして、空間機能と生活機能は、ここではじめて対立的に統一され融合することができるのではないかと思う。(抜粋)
機能主義を乗り越えるために時間的要素(四次元)を加え、生物学的用語である新陳代謝(メタボリズム)という言葉に注目した点は、画期的な発想だと思うが、時間的要素を計画可能なものとして考えたところに「メタボリズム」の限界があったのではないだろうか。それはつい最近、代謝されることなく取り壊された黒川紀章設計の「大阪ソニータワー」を見ても明らかだと思う。
これ(メタボリズム)は建築都市を生成発展する過程でとらえ、新陳代謝できる方法を、デザインに導入しようという考え方でありまして、ここから一つの秩序を見いだそうという考えかたをいうのであります。(中略)<とりかえる>ということを通じて、建築が社会に適応していく過程、つまり代謝を媒介として適応し、進化していくという、人間とともに進む環境としての建築あるいは都市を考えるに至るのであります。(抜粋)
最後まで読み通してみると、原広司の「有孔体理論」との共通部分が垣間見える。切り口は異なるものの、両者とも近代建築の中でも特にミースを越えることを強く意識しており、そのために全体に対して「個」性に注目しようとしていると言えるのではないだろうか?
建築とは、ある種の空間が、ある一つの組織によって結合したもの(抜粋)
<空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。(抜粋)
形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。(抜粋)
その要点は以下のように解釈できる。
時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。
そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。
<かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。(抜粋)
か:思考/原理/本質論的段階/構想
かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術
かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態
さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。
また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。
最後に本書のタイトルでもある「代謝」という言葉に注目する。菊竹氏は「建築は代謝する環境の装置である」と述べている。
空間組織にたいして時間の要素をいれると、かけがえのない空間と、取り替えることのできる空間のこのような二つに分けて考えることができるかもしれない。(中略)建築は、空間装置と生活装置の相互関係によってつくりだされ、空間装置は、生活装置を代謝させながら、人間生活に適応していくのである(抜粋)
ここでは、かけがえのない空間を「空間装置」、とりかえることのできる空間を「生活装置」と定義し、さらに新たに重要な地位を占めつつあるものとして「設備装置」を加える。これらを総合して「装置の三角構造」を提唱している。
さらに近代建築(ミース)の唱えるユニバーサル・スペースを以下のように批判する。
ユニバーサル・スペースの最も重大な問題点は、この生活機能だけを強調して空間機能を同時に取り上げようとしないところにあると、わたくしには思われるのである。(中略)空間の基本的組織は、あくまで空間そのもので示されねばならないと、わたくしは考える。そして、空間機能と生活機能は、ここではじめて対立的に統一され融合することができるのではないかと思う。(抜粋)
機能主義を乗り越えるために時間的要素(四次元)を加え、生物学的用語である新陳代謝(メタボリズム)という言葉に注目した点は、画期的な発想だと思うが、時間的要素を計画可能なものとして考えたところに「メタボリズム」の限界があったのではないだろうか。それはつい最近、代謝されることなく取り壊された黒川紀章設計の「大阪ソニータワー」を見ても明らかだと思う。
これ(メタボリズム)は建築都市を生成発展する過程でとらえ、新陳代謝できる方法を、デザインに導入しようという考え方でありまして、ここから一つの秩序を見いだそうという考えかたをいうのであります。(中略)<とりかえる>ということを通じて、建築が社会に適応していく過程、つまり代謝を媒介として適応し、進化していくという、人間とともに進む環境としての建築あるいは都市を考えるに至るのであります。(抜粋)
最後まで読み通してみると、原広司の「有孔体理論」との共通部分が垣間見える。切り口は異なるものの、両者とも近代建築の中でも特にミースを越えることを強く意識しており、そのために全体に対して「個」性に注目しようとしていると言えるのではないだろうか?
建築とは、ある種の空間が、ある一つの組織によって結合したもの(抜粋)
このレビューの画像

2008年12月22日に日本でレビュー済み
祝、単行本化 こうして読み継がれていく本になったわけですね。
基本的には古い方の代謝建築論のレヴューが良く書かれているので、そちらを参考にして安い手に入り易い本書を買うのが良いように思う。
コンピュータが発達して来て、今まで処理出来なかった問題が処理出来るようになって来た今日、そしてリノベーション産業が少しずつ市場を広げていっている今日。本書はある意味では教師として、またある意味では反面教師として、一度は読む価値を持っている。
本文の中で、機能を捨てた空間こそ、もっとも良く機能を発見できる空間である。と書かれてあり、さらにそのような空間を機能啓次の媒体として奨励している。それは化学変化における触媒の存在のように、生活に創造性をもたらす仕組みとして考えている。このあたりはレム・クールハウスのvoidの考え方とも通じるところがあるだろう。また、体内での細胞やタンパク質がもたらす化学変化を起すシステムと同様に、建築のシステムにも主従関係が存在すべきであるとし、ネットワーク的な視点からシステムを考える可能性を示唆している。それにか・かた・かたちの物理学的時間を含んだ流れを被せてくるのだから、その視点の広さに驚かされる。
独自の建築理論で様々なことを語り尽くそうとする姿勢が熱く伝わってくる本書はコンペの菊竹のバイタリティの一面を垣間見させてくれる。本書を読んでいると伊東豊雄さんが菊竹スクール出身であることを納得させられる。特に最近の伊東さんの建築と本書は通じる部分がかなりあると思う。
この間もレム・クールハウスが菊竹先生の事務所を訪れたりと忘れられていない存在であるという事実はなかなか興味深いと思う。
基本的には古い方の代謝建築論のレヴューが良く書かれているので、そちらを参考にして安い手に入り易い本書を買うのが良いように思う。
コンピュータが発達して来て、今まで処理出来なかった問題が処理出来るようになって来た今日、そしてリノベーション産業が少しずつ市場を広げていっている今日。本書はある意味では教師として、またある意味では反面教師として、一度は読む価値を持っている。
本文の中で、機能を捨てた空間こそ、もっとも良く機能を発見できる空間である。と書かれてあり、さらにそのような空間を機能啓次の媒体として奨励している。それは化学変化における触媒の存在のように、生活に創造性をもたらす仕組みとして考えている。このあたりはレム・クールハウスのvoidの考え方とも通じるところがあるだろう。また、体内での細胞やタンパク質がもたらす化学変化を起すシステムと同様に、建築のシステムにも主従関係が存在すべきであるとし、ネットワーク的な視点からシステムを考える可能性を示唆している。それにか・かた・かたちの物理学的時間を含んだ流れを被せてくるのだから、その視点の広さに驚かされる。
独自の建築理論で様々なことを語り尽くそうとする姿勢が熱く伝わってくる本書はコンペの菊竹のバイタリティの一面を垣間見させてくれる。本書を読んでいると伊東豊雄さんが菊竹スクール出身であることを納得させられる。特に最近の伊東さんの建築と本書は通じる部分がかなりあると思う。
この間もレム・クールハウスが菊竹先生の事務所を訪れたりと忘れられていない存在であるという事実はなかなか興味深いと思う。
2012年2月20日に日本でレビュー済み
待望の復刻。
ここで展開されるユニークで論理的に明快な形態生成方法
―今風にいえばアルゴリズミック・デザイン―の着想を、
菊竹さんは、同郷マルクス主義物理学者・武谷三男氏から得たといわれる。
その背景には、倫理的に(詳細は割愛するが政治的にも)、ただならぬものが、ある。
この「方法」はいまでも通用すると思うけれども、
それは彼の執念の昇華だと考えられるので、
そこを弁えないで、三段階論だの環境だの、まして伝統など、
観念をこねたところでなんにもならないといえる。
ここで展開されるユニークで論理的に明快な形態生成方法
―今風にいえばアルゴリズミック・デザイン―の着想を、
菊竹さんは、同郷マルクス主義物理学者・武谷三男氏から得たといわれる。
その背景には、倫理的に(詳細は割愛するが政治的にも)、ただならぬものが、ある。
この「方法」はいまでも通用すると思うけれども、
それは彼の執念の昇華だと考えられるので、
そこを弁えないで、三段階論だの環境だの、まして伝統など、
観念をこねたところでなんにもならないといえる。