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人はなぜ物語を求めるのか (ちくまプリマー新書) 新書 – 2017/3/6
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人は人生に起こる様々なことに意味付けし物語として認識することなしには生きられない。それはどうしてなのか?その仕組みとは?
- 本の長さ220ページ
- 言語日本語
- 出版社筑摩書房
- 発売日2017/3/6
- ISBN-104480689796
- ISBN-13978-4480689795
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商品の説明
メディア掲載レビューほか
人はなぜ物語を求めるのか
人は真実を手に取ることができない。ましてやその手触りを他者と共有することは不可能である。そこで、思考の枠組みとして導入されるのが「物語」だ。そう、本書の指す「物語」はしばしば「演劇」や「小説」ではなく、事実の羅列に因果関係を見いだそうとする人間の思考癖についてである。
物事を「わかる」というのは知的な行為に思われるが、実は感情的かつ受動的なもので、脳に快楽をもたらす。例えば〈王が死んで、それから女王が死んだ〉よりも〈王が死んで、それから女王が悲しみのあまり死んだ〉のほうが小気味好い。
物語化とはあくまで仮説。「信仰がないから天罰が降った」となれば怪しげな壺を購入しかねない。物語からあぶれた事実──「『なにを知らないか』を知らない」ことの危うさを知ることが真実への第一歩だろう。
評者:福永奈津美
(週刊朝日 掲載)内容(「BOOK」データベースより)
人の思考の枠組みのひとつである「物語」とはなんだろう?私たちは物語によって救われたり、苦しめられたりする。その仕組みを知れば、人生苦しまずに生きられるかもしれない。物語は、人生につける薬である!
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
千野/帽子
パリ第4大学博士課程修了。文筆家。公開句会「東京マッハ」司会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
パリ第4大学博士課程修了。文筆家。公開句会「東京マッハ」司会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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カスタマーレビュー
5つ星のうち3.8
星5つ中の3.8
55 件のグローバル評価
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年11月14日に日本でレビュー済み
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Amazonで購入
物語に囚われて苦しんでいる人が、気持ちや頭の中を整理するにはある程度役立つかと思いますが、巻末リストを見ても、ちゃんとした学術というより自己啓発の色が強く、脱物語を果たしたからといって、その先の人生の支えになる本かというとそこまでの厚みはないと思いました。他人の怒りの相手をしてはいけない、ということが本書で書かれますが、本書の著者の方のツイッターを見たら、他の研究者のことを乱暴な言葉で貶していて、本書での印象と全く違ったのでがっかりしてしまいました。自分で実践できないことを説教されてもなあ、という印象を受けました。
76人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2019年5月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今まで、自分がアンラッキーと思ってきたこと、つらいと思ってきたことは、自分がそのようなストーリーを描いてきたからだ、と捉えるととても楽しくなる。むしろ、自分が紡いできたストーリーはなぜそのようなストーリーになったのか、という事に純粋な興味関心が湧いてくる。ストーリーは創りたいように作れる、という事が分かると、人生楽しく過ごせるストーリーを選べばよいだけで、すごく価値のある本です。
2021年11月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
世界や歴史や人生を物語以外の方法で理解することができるのかも知れない。しかし、人はつい世界を物語で捉えてしまう。これを知っただけで少し自由になれる気がする。
ベスト500レビュアー
タイムリーでレトロな話題。
ドラマ、マンガ、小説、アニメ、映画、神話、音楽、古典、同人誌と質問わずに物語が量産されている昨今で
何かしらの物語やつながりに関与、消費しなければならない世の中になってしまいました。物語は知られたくてピカピカしていて無視できずにいつも何かしら話題の中心を占めています。毎日サブスク的にサプリメントを摂取する感覚で物語を自分の中に取り入れている便利な現代社会であります。逆に避けて暮らすのは難しくて敢えて摂取しないと修行僧みたいな生活を想起してしまいます。
物語の参与強制、囚われることは人類に古今東西に普遍的なのか、脳が本能的に欲しているのか、
または何か物語で自分を埋め合わせように欲し、空虚で孤独な自分に向き合うのが嫌で無意識に逃げているからかもしれません。答えの無いような回答で永遠の謎のようにも感じます。
また「定本 物語消費論」など古い本ですが、読めば相乗的に理解が早い気もします。
ただ多くの人が通過した思索の足跡(スタンプラリー)を踏んでいるだけの郷愁を帯びている回顧趣味(鉄ヲタ)な気がして感慨深く、先人が創り出した知的なサロン的な集いの場みたいで大変有難いです。
ドラマ、マンガ、小説、アニメ、映画、神話、音楽、古典、同人誌と質問わずに物語が量産されている昨今で
何かしらの物語やつながりに関与、消費しなければならない世の中になってしまいました。物語は知られたくてピカピカしていて無視できずにいつも何かしら話題の中心を占めています。毎日サブスク的にサプリメントを摂取する感覚で物語を自分の中に取り入れている便利な現代社会であります。逆に避けて暮らすのは難しくて敢えて摂取しないと修行僧みたいな生活を想起してしまいます。
物語の参与強制、囚われることは人類に古今東西に普遍的なのか、脳が本能的に欲しているのか、
または何か物語で自分を埋め合わせように欲し、空虚で孤独な自分に向き合うのが嫌で無意識に逃げているからかもしれません。答えの無いような回答で永遠の謎のようにも感じます。
また「定本 物語消費論」など古い本ですが、読めば相乗的に理解が早い気もします。
ただ多くの人が通過した思索の足跡(スタンプラリー)を踏んでいるだけの郷愁を帯びている回顧趣味(鉄ヲタ)な気がして感慨深く、先人が創り出した知的なサロン的な集いの場みたいで大変有難いです。
2017年7月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「物語に縛られるのはよくない」全くその通りで、
他のレビュアーの方が書いている個々の主張自体にも異論はないのである。
まあ因果関係の存否の超越的基準がないところで「物語にすぎない」という言明が意味を持つのかという疑問はあるにしても。
しかし、読後感としてはこの著者との相性は良くなかった、というものになる。
もうこれは文章の感触とか、もっと言えばこちらが近親憎悪を勝手に投影しているとかいう話なのかもしれない。
ただ理由を求めてはいけない、物語に縛られてはいけないと言われるたびに、
日常の些事にとらわれて感情の激流に呑まれてきた著者の過去が想像せられて、
なんだか精神がずいぶん疲弊してしまった。
それはおいておくとしても、
「物語からの解放」という方面を強調して、
そのために他人や世の中の物語る行為を例に出して束縛されていると認定し、
あまつさえ聖書の放蕩息子の帰還のエピソードの解釈に関して
「この読み方を『浅い』と思う人がいたとしたら、その人は、
人間が自分のストーリーメイキングを捨てることの難しさを、よほど甘く見ているのでしょう(p.209)」
などと狭量にも書けてしまうところを見ると(この話に自己物語の編集という観点でのみ含蓄があるとでもいうのだろうか?)、
「物語との格闘」がいまだ重要なテーマとして位置を占めていると考えてよさそうだ。
もちろんこれも私の作ったストーリーどころか憶測でしかないのだが。
物語が人を傷つけ、自らを腐らせるということは確かにある。
降ってわいた出来事に実存的意味を見つけようというのも徒労なのかもしれない。
しかし世界と自己に意味を与え、出来事に作用因を超えた目的因を垣間見せ、
人に未来への行動の活力をもたらすのも物語の作用である。
仏教でいう「空」とは例えば存在の否定ではなく、「ある」と「ない」から等しく中立であるのだという。
物語に関しても、因果の存否を判定する上位の枠組みを認めない上は、
そのように両側から考えて物語ることと付き合っていくほうが、個人的には好みである。
また、他人が物語に縛られているのか物語を主体的に生きているのかを判別する手段はないのだから、
そのことを指摘するのは訴えかけとしては意味があっても理路としては筋が良くないし、
怒ったり悲しんだりしていることをもって「公正世界の誤謬」に陥って闇雲に期待していると断ずることもできない。
自らの中にある物語の作用を止滅させた状態に留まるよりはむしろそれを生かし、
相手や世界に期待するとかしないとかいうレベルを超えて、世の不正に憤り行動するということもある。
もちろんそれは個人の信念に基づき偏りもあるから、異なる意見の人どうしで諸々摩擦や衝突も生まれようが、
いろんな人が自らの物語と付かず離れずで互いにコミュニケートする社会のダイナミズムの可能性を信じたい。
以上、読んだ印象をもとに本書の趣旨を超えて針小棒大に語ったきらいもあり恐縮ではあるが、
あえて思い感じたところをそのまま書かせてもらった。
他のレビュアーの方が書いている個々の主張自体にも異論はないのである。
まあ因果関係の存否の超越的基準がないところで「物語にすぎない」という言明が意味を持つのかという疑問はあるにしても。
しかし、読後感としてはこの著者との相性は良くなかった、というものになる。
もうこれは文章の感触とか、もっと言えばこちらが近親憎悪を勝手に投影しているとかいう話なのかもしれない。
ただ理由を求めてはいけない、物語に縛られてはいけないと言われるたびに、
日常の些事にとらわれて感情の激流に呑まれてきた著者の過去が想像せられて、
なんだか精神がずいぶん疲弊してしまった。
それはおいておくとしても、
「物語からの解放」という方面を強調して、
そのために他人や世の中の物語る行為を例に出して束縛されていると認定し、
あまつさえ聖書の放蕩息子の帰還のエピソードの解釈に関して
「この読み方を『浅い』と思う人がいたとしたら、その人は、
人間が自分のストーリーメイキングを捨てることの難しさを、よほど甘く見ているのでしょう(p.209)」
などと狭量にも書けてしまうところを見ると(この話に自己物語の編集という観点でのみ含蓄があるとでもいうのだろうか?)、
「物語との格闘」がいまだ重要なテーマとして位置を占めていると考えてよさそうだ。
もちろんこれも私の作ったストーリーどころか憶測でしかないのだが。
物語が人を傷つけ、自らを腐らせるということは確かにある。
降ってわいた出来事に実存的意味を見つけようというのも徒労なのかもしれない。
しかし世界と自己に意味を与え、出来事に作用因を超えた目的因を垣間見せ、
人に未来への行動の活力をもたらすのも物語の作用である。
仏教でいう「空」とは例えば存在の否定ではなく、「ある」と「ない」から等しく中立であるのだという。
物語に関しても、因果の存否を判定する上位の枠組みを認めない上は、
そのように両側から考えて物語ることと付き合っていくほうが、個人的には好みである。
また、他人が物語に縛られているのか物語を主体的に生きているのかを判別する手段はないのだから、
そのことを指摘するのは訴えかけとしては意味があっても理路としては筋が良くないし、
怒ったり悲しんだりしていることをもって「公正世界の誤謬」に陥って闇雲に期待していると断ずることもできない。
自らの中にある物語の作用を止滅させた状態に留まるよりはむしろそれを生かし、
相手や世界に期待するとかしないとかいうレベルを超えて、世の不正に憤り行動するということもある。
もちろんそれは個人の信念に基づき偏りもあるから、異なる意見の人どうしで諸々摩擦や衝突も生まれようが、
いろんな人が自らの物語と付かず離れずで互いにコミュニケートする社会のダイナミズムの可能性を信じたい。
以上、読んだ印象をもとに本書の趣旨を超えて針小棒大に語ったきらいもあり恐縮ではあるが、
あえて思い感じたところをそのまま書かせてもらった。