最初の30-50ページくらいはかなり単調で読むのをやめようかと思った。
しかしそこを超えるとどんどん内容が濃くなり、結局一気に読み終えてしまった。まさにこの人物の101年に及ぶ人生そのものが「尻上がり」だったのではないか、そんな風に思えた。
入念なマスコミチェックを行ったというエピソードや、複数の自伝を書いてることから、生前に書かれたこの評伝も中曽根さん自身の意向が少なからず反映されたものであろうことは考慮しなくてはいけないが、それでも公正な視点と論理的な文章が感じられる素晴らしい一冊だった。
内務省入省と同時に第二次世界大戦を経験し、多くの部下や弟を失った末に生き残り、野党から政治家としてキャリアをスタートした。その最初の時点から明確に総理を目指して政治をしてきたことが窺い知れる。
野党、そして派閥政治の真っ只中の自民党第4派閥の領袖から念願の首相に至るまでは、「風見鶏」と揶揄されながらも自身の核たる部分を見失わないよう、内外に確認するかのように多数の本を出版している。
そして首相以後は、積極的外遊をはじめとする巧みな外交力を発揮して、日中提携と対米協調を両立させた稀有な指導者となり得た。
内政においてはブレーン政治を積極的に取り入れて大統領式官邸主導政策に取り組み、憲法改正や靖国公式参拝など大胆で意外性を伴う不敵なことをやりつつ5年の長期政権を築いた。最終的にはかつてのライバルたちよりも首相としてずっと多くのことを成し遂げて、85歳で小泉純一郎の議員として引退勧告を受けるまで、いやそれ以後も「暮れてなお 命ある限り 蝉しぐれ」として政治の第一線に立ち続けた。
多くの人より長く生きたが故に、自身が主導した原子力発電の事故も全て見納めることとなった。
老いてなお明晰な政治家、哲学者の頭脳は、本心の部分でどんなことを考えていたのだろうか?
コロナの最中に国葬を行う必要があったのどうかは個人的には疑問を感じる。
しかし、中曽根康弘という政治家の生涯を読み解くなかで、この人物が近代日本を代表する深い認識力と明晰な洞察力をもつ稀有な人物であったのは間違いないと認識することができた。
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中曽根康弘 「大統領的首相」の軌跡 (中公新書) Kindle版
自主憲法制定を訴えるタカ派、主張を変える「風見鶏」、首相就任時も、田中角栄の影響下「田中曽根内閣」と批判された中曽根康弘。だが「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根は「大統領的首相」の手法によって、国鉄などの民営化を推進、中韓と蜜月関係を築き、レーガン米大統領やサミットを通し、日本の国際的な地位を大きく上昇させる。本書は中曽根の生涯を辿り、日本が敗戦から1980年代、戦後の頂点へと向かう軌跡を追う。
- 言語日本語
- 出版社中央公論新社
- 発売日2015/12/20
- ファイルサイズ14141 KB
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
自主憲法制定を訴えるタカ派、主張を変える「風見鶏」、首相就任時も、田中角栄の影響下「田中曽根内閣」と批判された中曽根康弘。だが「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根は、「大統領的」手法によって国鉄などの民営化を推進、レーガン米大統領や中韓と蜜月関係を築き、サミットを通じて、日本の国際的地位を大きく上昇させる。本書は中曽根の半生を辿り、日本が敗戦から1980年代、戦後の頂点へと向かう軌跡を追う。 --このテキストは、paperback_shinsho版に関連付けられています。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
服部/龍二
1968(昭和43)年東京都生まれ。92年京都大学法学部卒業。97年神戸大学大学院法学研究科単位取得退学。博士(政治学)。現在、中央大学総合政策学部教授。日本政治外交史・東アジア国際政治史専攻。著書『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918‐1931』(有斐閣、2001年、吉田茂賞受賞)、『日中国交正常化―田中角栄、太平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年、大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞特別賞受賞)ほか多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、paperback_shinsho版に関連付けられています。
1968(昭和43)年東京都生まれ。92年京都大学法学部卒業。97年神戸大学大学院法学研究科単位取得退学。博士(政治学)。現在、中央大学総合政策学部教授。日本政治外交史・東アジア国際政治史専攻。著書『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918‐1931』(有斐閣、2001年、吉田茂賞受賞)、『日中国交正常化―田中角栄、太平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書、2011年、大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞特別賞受賞)ほか多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) --このテキストは、paperback_shinsho版に関連付けられています。
登録情報
- ASIN : B081398LBK
- 出版社 : 中央公論新社 (2015/12/20)
- 発売日 : 2015/12/20
- 言語 : 日本語
- ファイルサイズ : 14141 KB
- Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) : 有効
- X-Ray : 有効
- Word Wise : 有効にされていません
- 本の長さ : 390ページ
- Amazon 売れ筋ランキング: - 233,288位Kindleストア (の売れ筋ランキングを見るKindleストア)
- - 1,819位中公新書
- - 2,135位日本史 (Kindleストア)
- - 10,882位日本史一般の本
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中曽根康弘。大勲位。この政治家の特徴は、とにかく何冊も「自叙伝」を書いていることである。普通、自叙伝は書いたとしても一冊である。「自分で書くと、どうしても自分を飾ってしまうので書かない」という政治家さえいる。ところが中曽根康弘は違う。既に何冊も書いている。私の記憶では1992年に出した『政治と人生』が最初だった。次が1996年の『天地有情』。1997年『リーダーの条件』、1998年に『日本人にいっておきたいこと』。2000年に『21世紀日本の国家戦略』。2004年に『自省録 歴史法廷の被告として』を出して「もうこれで打ち止めか」と思っていたら2012年に『保守の遺言』、そのほか対談集、句集も入れると軽く20冊くらいになりそうな勢いである。政治学者の御厨貴曰く「中曽根さんほど、自叙伝を書いている政治家はいない。しかも、新しく自叙伝を書くたびに自分がどんどん偉くなっていく」と評していた。
中曽根康弘は幼少期より学業に秀で、旧制高崎中学から旧制静岡高校へと進学し、東京帝国大学法学部に進んでいる。静岡高校は旧制第一高等学校に比べれば数段落ちるが、それでも中曽根は高崎中学4年次に合格した四修組である。帝大では近衛文麿のブレーンであった矢部貞治に師事し、戦前は強大な権力を誇った官庁の中の官庁であった内務省に就職している。内務省の席を温める間もなく、彼は海軍経理学校に進んでいる。高等文官試験受験と同時に中曽根は難関中の難関の海軍経理学校も受験し合格していたのである。まさに絵に描いたようなエリート街道を当時の中曽根は驀進していたのだ。
戦後、中曽根は政界に打って出る。中曽根のようなエリートなら、本来、吉田茂のもとへと馳せ参じ、佐藤栄作や池田勇人のように「吉田学校」の生徒として政界の第一歩をしるすべきであった。ところが中曽根は初めから「反吉田」なのである。中曽根が選んだのは反吉田の急先鋒、河野一郎であった。この吉田でなく河野を選んだあたりから、常に反主流派の日陰街道を歩むがゆえに目立ちたがらないと生きていけない中曽根康弘の政治家人生が始まったのである。
中曽根康弘と言えば「風見鶏」という蔑称、揶揄がついて回る。大言壮語する割には右顧左眄して変わり身が早い軽薄漢という意味で、かなり侮蔑の意味が込められている。ところが中曽根は、むしろこの風見鶏をかなり前向きな言葉としてとらえていたのには驚いた。言い出したのは中曽根が尊敬する徳富蘇峰で、徳富は「勝海舟の言に『天の勢に従う』というのがある。政治家はイデオロギーや既成概念に固執する必要はない」といい、これを中曽根は「風見鶏のすすめ」と受け取ったというのだ。「大局さえ失わないなら大いに妥協してよい」という教えだというわけだ。この「大局さえ失わなければ妥協してよい」という徳富蘇峰の教えを、のちに中曽根は実践する。当時一世を風靡した田中角栄の軍門に下り、田中のライバル福田の向こうを張って、田中にくっつき、政権の座についても「直角内閣」「田中曽根内閣」とマスコミからバッシングを受けたのは、この中曽根の風見鶏ぶりが世間に嫌われたからだ。それでも中曽根は恬として恥じない。「行蔵は我に存ス。毀誉は他人の主張」と開き直っている。きっと世間から罵詈讒謗を浴びている時でも、中曽根は心の中で大局を見失っていないつもりだったのだろう。
中曽根の政治家の信念の中核には、おそらく大日本帝国が深く宿っていたと思われる。意味するところは大東亜共栄圏とか、広大な版図とか、そういう意味ではない。自らの国は自らの力で守り、米国や中国にペコペコしない独立自尊の大国として、国際社会の一員として尊敬される国になりたいしなるべきだ。そういう信念を中曽根はずっともっていたし、今も持っている。そんな気がしてならない。中曽根にとっては日本という国が独立した大国であることは自明であり、だからこそ日米安保条約という対米従属の道を選んだ吉田茂が許せないのであり、のちに小沢一郎が叫んだ「アメリカは核の傘と、第七艦隊さえ提供してくれれば、あとはいらない」という発言を、中曽根は既に戦後すぐにのたまっている。中曽根が早くから原子力に目を付けたのも「エネルギーの自給自足」「エネルギー安全保障」という観点からだろう。日本はエネルギーの90%を中東産の石油天然ガスに依存している。日本は食料の自給自足を唱える人は山ほどいるが、エネルギーの自給自足を唱える人はほとんどいない。食料の輸入が途絶える前にエネルギーの輸入が途絶えたら、その時点で日本人の生活は崩壊するのだが、こういうことを憂える日本人はほとんどいないのだ。不思議な話である。
中曽根は「目立ちたがり屋」であり、目立つことが嫌いでなかった。「不沈空母」に代表される(実際には中曽根じしんは不沈空母とは発言していなかったようだが)、大向こう受けを狙う、やや極端な発言や行動を中曽根は若い時から重ねていた。佐藤栄作や福田赳夫のブレーンとして活躍した山崎正和は、中曽根のこういうところが嫌いで、盟友の高坂正尭は中曽根にも助言を継続したようだが、山崎は中曽根のブレーンになることを断っている。
その中曽根に運が巡ってくる。中曽根は福田を切り捨てて田中に寄り添う道を選び、田中の支援を受けて内閣総理大臣の座を手に入れる。総理の座を掌中にしても「直角内閣」「田中曽根内閣」とマスコミからバッシングを受けたのは上述の通りだが、田中派の幹部、後藤田正晴や金丸信らからも中曽根康弘は「おんぼろ神輿を担ぐのは嫌だ」と忌避されていた。中曽根は自らは勉強家で古今東西の古典に通じ、リーダーシップのある世界的な政治家であるつもりでいたが、そう思っていたのは中曽根本人だけで、後藤田も金丸も中曽根を口先だけの目立ちたがり屋で政治家としての能力はゼロとしか見ていなかった。「なんでおんぼろ神輿を担ぐんだ」と迫る後藤田に対し、田中角栄は「おんぼろ神輿だから担ぐんだ。おんぼろ神輿なら、いつでも捨てられる」と応じている。そんな中曽根だったが、人生とは分からないもので、カネも権力もほしいままにした田中角栄がロッキード事件で失墜し、これに業を煮やした田中派の幹部が竹下を担いで独立すると、田中角栄はショックから酒びたりになり、やがて脳こうそくを患って入院してしまうのである。田中入院の知らせを聞いた中曽根は欣喜雀躍する。中曽根は口でこそ「早く良くなってもらいたい」などと殊勝なことをいうが、彼は正直な人だったらしく、内面の喜びが態度に出てしまう。日本経済新聞の政治部長は「あの日ほど機嫌の良い中曽根さんを見たことが無い」と回顧している。
偶然が偶然を呼んで権力の座を手にした中曽根だが、彼は小泉純一郎が登場するまで破ることが出来ない1806日という長期政権を維持した。その間に、国鉄改革を断行し、サミットを成功させて日本の国際社会における威信を高め、ロンヤス関係という言葉に象徴される良好な日米関係の演出に成功した。こうしてみると、政治家の人生とはほんとうに分からないというのが正直なところだ。中曽根に言わせれば、青年時代より「この日の為」に研鑽と勉強を重ね、運命の女神の前髪を掴んで離さなかったことが政治家中曽根康弘の成功の原因ということになろうが、まわりで見ているものは、右翼で軽薄な風見鶏が田中角栄の病気という「たまたまの偶然」で必要以上に権力の座に座り、その結果、「たまたま」数々の実績を残したように見えるが、全部偶然で「中曽根の仕事ではない」と見ている。そんな感じなのだ。
中曽根の「対米独立」への執念は日本の政治に大きな負の遺産も残している。その筆頭が「非核三原則」の三番目「持ち込ませず」の挿入だ。もともと佐藤栄作総理は「核を作らない」「核を持たない」の二原則で行くつもりだった。佐藤栄作のブレーンだった山崎正和氏もオーラルヒストリーでそう語っている。ところが「持ち込ませず」を強硬に主張し、佐藤栄作にねじ込んだのが中曽根康弘だった。ご存知の通り日本はアメリカの核で守られており、米軍基地に核ミサイルや核爆弾をおくこと、あるいはアメリカの原子力空母に核爆弾を搭載したまま日本に持ち込むことはアメリカの専権事項であり、アメリカに自国の安全保障を全面的に依存している日本としては、アメリカが日本に核を持ち込んでも文句を言える筋合いではなかったのだ。このことは、ある意味で常識であり、吉田茂以下歴代の自民党総理の常識だった。ところが中曽根が余計な原則をねじ込んだが故に、日本政府は正直に安全保障の厳しい現実を日本国民に語れなくなった。中曽根が日本政治に残した負の遺産は大きい。
靖国神社への公式参拝に拘り実行して、靖国神社を国際問題に「格上げ」したのも中曽根である。おかげで今や日本の政治家、とりわけ内閣総理大臣はおいそれと靖国神社に参拝できなくなっつぃまった。しかもおかげで日中友好に尽くした中国政治家胡耀邦を失脚させ、以来、日本との友好は中国の政治家にとってタブーになってしまった。中曽根が日中関係に与えたマイナスの影響もすさまじいのである。
中曽根は人も育てていない。中曽根派で総理大臣になったのは「指三本」で失脚した宇野宗佑のみ。あとは一人もいない。ロッキード事件の灰色高官佐藤孝行、リクルート事件の藤波孝生。中曽根は「見かけによらず情に厚い」そうで、これらの部下を無理矢理入閣させようとして運動史、世間の袋叩きにあって、かえって佐藤や藤波を政治家として殺している。運もめぐりあわせもあるので、すべて中曽根が悪いと言い切るのは中曽根には酷に過ぎるかも知れないが、中曽根は人を育てていないのは事実であろう。中曽根を見ていると「一将功成りて万古枯る」を地でいくようで悲しい。中曽根はそのご分裂を繰り返し、今は山崎拓のあとを受けた石原派となっている。その数は十数人である。
こう見てくると中曽根という政治家は鳩山由紀夫並みに「ダメな政治家」ではなかったかとさえ思えてしまうのである。
中曽根康弘は幼少期より学業に秀で、旧制高崎中学から旧制静岡高校へと進学し、東京帝国大学法学部に進んでいる。静岡高校は旧制第一高等学校に比べれば数段落ちるが、それでも中曽根は高崎中学4年次に合格した四修組である。帝大では近衛文麿のブレーンであった矢部貞治に師事し、戦前は強大な権力を誇った官庁の中の官庁であった内務省に就職している。内務省の席を温める間もなく、彼は海軍経理学校に進んでいる。高等文官試験受験と同時に中曽根は難関中の難関の海軍経理学校も受験し合格していたのである。まさに絵に描いたようなエリート街道を当時の中曽根は驀進していたのだ。
戦後、中曽根は政界に打って出る。中曽根のようなエリートなら、本来、吉田茂のもとへと馳せ参じ、佐藤栄作や池田勇人のように「吉田学校」の生徒として政界の第一歩をしるすべきであった。ところが中曽根は初めから「反吉田」なのである。中曽根が選んだのは反吉田の急先鋒、河野一郎であった。この吉田でなく河野を選んだあたりから、常に反主流派の日陰街道を歩むがゆえに目立ちたがらないと生きていけない中曽根康弘の政治家人生が始まったのである。
中曽根康弘と言えば「風見鶏」という蔑称、揶揄がついて回る。大言壮語する割には右顧左眄して変わり身が早い軽薄漢という意味で、かなり侮蔑の意味が込められている。ところが中曽根は、むしろこの風見鶏をかなり前向きな言葉としてとらえていたのには驚いた。言い出したのは中曽根が尊敬する徳富蘇峰で、徳富は「勝海舟の言に『天の勢に従う』というのがある。政治家はイデオロギーや既成概念に固執する必要はない」といい、これを中曽根は「風見鶏のすすめ」と受け取ったというのだ。「大局さえ失わないなら大いに妥協してよい」という教えだというわけだ。この「大局さえ失わなければ妥協してよい」という徳富蘇峰の教えを、のちに中曽根は実践する。当時一世を風靡した田中角栄の軍門に下り、田中のライバル福田の向こうを張って、田中にくっつき、政権の座についても「直角内閣」「田中曽根内閣」とマスコミからバッシングを受けたのは、この中曽根の風見鶏ぶりが世間に嫌われたからだ。それでも中曽根は恬として恥じない。「行蔵は我に存ス。毀誉は他人の主張」と開き直っている。きっと世間から罵詈讒謗を浴びている時でも、中曽根は心の中で大局を見失っていないつもりだったのだろう。
中曽根の政治家の信念の中核には、おそらく大日本帝国が深く宿っていたと思われる。意味するところは大東亜共栄圏とか、広大な版図とか、そういう意味ではない。自らの国は自らの力で守り、米国や中国にペコペコしない独立自尊の大国として、国際社会の一員として尊敬される国になりたいしなるべきだ。そういう信念を中曽根はずっともっていたし、今も持っている。そんな気がしてならない。中曽根にとっては日本という国が独立した大国であることは自明であり、だからこそ日米安保条約という対米従属の道を選んだ吉田茂が許せないのであり、のちに小沢一郎が叫んだ「アメリカは核の傘と、第七艦隊さえ提供してくれれば、あとはいらない」という発言を、中曽根は既に戦後すぐにのたまっている。中曽根が早くから原子力に目を付けたのも「エネルギーの自給自足」「エネルギー安全保障」という観点からだろう。日本はエネルギーの90%を中東産の石油天然ガスに依存している。日本は食料の自給自足を唱える人は山ほどいるが、エネルギーの自給自足を唱える人はほとんどいない。食料の輸入が途絶える前にエネルギーの輸入が途絶えたら、その時点で日本人の生活は崩壊するのだが、こういうことを憂える日本人はほとんどいないのだ。不思議な話である。
中曽根は「目立ちたがり屋」であり、目立つことが嫌いでなかった。「不沈空母」に代表される(実際には中曽根じしんは不沈空母とは発言していなかったようだが)、大向こう受けを狙う、やや極端な発言や行動を中曽根は若い時から重ねていた。佐藤栄作や福田赳夫のブレーンとして活躍した山崎正和は、中曽根のこういうところが嫌いで、盟友の高坂正尭は中曽根にも助言を継続したようだが、山崎は中曽根のブレーンになることを断っている。
その中曽根に運が巡ってくる。中曽根は福田を切り捨てて田中に寄り添う道を選び、田中の支援を受けて内閣総理大臣の座を手に入れる。総理の座を掌中にしても「直角内閣」「田中曽根内閣」とマスコミからバッシングを受けたのは上述の通りだが、田中派の幹部、後藤田正晴や金丸信らからも中曽根康弘は「おんぼろ神輿を担ぐのは嫌だ」と忌避されていた。中曽根は自らは勉強家で古今東西の古典に通じ、リーダーシップのある世界的な政治家であるつもりでいたが、そう思っていたのは中曽根本人だけで、後藤田も金丸も中曽根を口先だけの目立ちたがり屋で政治家としての能力はゼロとしか見ていなかった。「なんでおんぼろ神輿を担ぐんだ」と迫る後藤田に対し、田中角栄は「おんぼろ神輿だから担ぐんだ。おんぼろ神輿なら、いつでも捨てられる」と応じている。そんな中曽根だったが、人生とは分からないもので、カネも権力もほしいままにした田中角栄がロッキード事件で失墜し、これに業を煮やした田中派の幹部が竹下を担いで独立すると、田中角栄はショックから酒びたりになり、やがて脳こうそくを患って入院してしまうのである。田中入院の知らせを聞いた中曽根は欣喜雀躍する。中曽根は口でこそ「早く良くなってもらいたい」などと殊勝なことをいうが、彼は正直な人だったらしく、内面の喜びが態度に出てしまう。日本経済新聞の政治部長は「あの日ほど機嫌の良い中曽根さんを見たことが無い」と回顧している。
偶然が偶然を呼んで権力の座を手にした中曽根だが、彼は小泉純一郎が登場するまで破ることが出来ない1806日という長期政権を維持した。その間に、国鉄改革を断行し、サミットを成功させて日本の国際社会における威信を高め、ロンヤス関係という言葉に象徴される良好な日米関係の演出に成功した。こうしてみると、政治家の人生とはほんとうに分からないというのが正直なところだ。中曽根に言わせれば、青年時代より「この日の為」に研鑽と勉強を重ね、運命の女神の前髪を掴んで離さなかったことが政治家中曽根康弘の成功の原因ということになろうが、まわりで見ているものは、右翼で軽薄な風見鶏が田中角栄の病気という「たまたまの偶然」で必要以上に権力の座に座り、その結果、「たまたま」数々の実績を残したように見えるが、全部偶然で「中曽根の仕事ではない」と見ている。そんな感じなのだ。
中曽根の「対米独立」への執念は日本の政治に大きな負の遺産も残している。その筆頭が「非核三原則」の三番目「持ち込ませず」の挿入だ。もともと佐藤栄作総理は「核を作らない」「核を持たない」の二原則で行くつもりだった。佐藤栄作のブレーンだった山崎正和氏もオーラルヒストリーでそう語っている。ところが「持ち込ませず」を強硬に主張し、佐藤栄作にねじ込んだのが中曽根康弘だった。ご存知の通り日本はアメリカの核で守られており、米軍基地に核ミサイルや核爆弾をおくこと、あるいはアメリカの原子力空母に核爆弾を搭載したまま日本に持ち込むことはアメリカの専権事項であり、アメリカに自国の安全保障を全面的に依存している日本としては、アメリカが日本に核を持ち込んでも文句を言える筋合いではなかったのだ。このことは、ある意味で常識であり、吉田茂以下歴代の自民党総理の常識だった。ところが中曽根が余計な原則をねじ込んだが故に、日本政府は正直に安全保障の厳しい現実を日本国民に語れなくなった。中曽根が日本政治に残した負の遺産は大きい。
靖国神社への公式参拝に拘り実行して、靖国神社を国際問題に「格上げ」したのも中曽根である。おかげで今や日本の政治家、とりわけ内閣総理大臣はおいそれと靖国神社に参拝できなくなっつぃまった。しかもおかげで日中友好に尽くした中国政治家胡耀邦を失脚させ、以来、日本との友好は中国の政治家にとってタブーになってしまった。中曽根が日中関係に与えたマイナスの影響もすさまじいのである。
中曽根は人も育てていない。中曽根派で総理大臣になったのは「指三本」で失脚した宇野宗佑のみ。あとは一人もいない。ロッキード事件の灰色高官佐藤孝行、リクルート事件の藤波孝生。中曽根は「見かけによらず情に厚い」そうで、これらの部下を無理矢理入閣させようとして運動史、世間の袋叩きにあって、かえって佐藤や藤波を政治家として殺している。運もめぐりあわせもあるので、すべて中曽根が悪いと言い切るのは中曽根には酷に過ぎるかも知れないが、中曽根は人を育てていないのは事実であろう。中曽根を見ていると「一将功成りて万古枯る」を地でいくようで悲しい。中曽根はそのご分裂を繰り返し、今は山崎拓のあとを受けた石原派となっている。その数は十数人である。
こう見てくると中曽根という政治家は鳩山由紀夫並みに「ダメな政治家」ではなかったかとさえ思えてしまうのである。
2015年12月20日に日本でレビュー済み
戦後政治史を語る最後の生存者でもある宰相・中曽根康弘の評伝。中曽根は本書発売時、まだ健在であり、2016年の新年に白寿になる。存命人物の評伝は極めて異例だが、本人への29回にわたるインタビューや、厖大な外交史料、また同時代の政治家の記録などを元に、学術的な評伝を書いている。中曽根外交を中心に、三角大福中の派閥抗争で台頭し、「戦後の頂点」に到達する軌跡を緻密にたどる。著者・服部龍二はバランスの取れた視点で歴史を書く近現代史研究者だ。「
外交ドキュメント 歴史認識 (岩波新書)
」など、論争的になりがちなテーマでも事実を慎重に確認しながら書き進めている。本書でも一つ一つの発言・行動に註でソースを明記している。推測的な記述にも根拠を提示しており、安心して読める。
中曽根は「三角大福中」時代までの20年間、野党か非主流派だった。首相になるまでの主要閣僚歴は田中内閣通産大臣の2年だけ。「三角大福中」で田中へ恩義を貸すうちに、首相の椅子が見えてきた印象だ。自民党を体現するような人物に見えていたので、意外だった。天皇退位論をぶって吉田茂に「非国民」と返されたり、与党幹部に爆弾質問をしたり、ソ連視察を強行したり、と確かに「青年将校」だ。中曽根のパフォーマンスを先輩政治家は嫌悪していた。重光葵は「何年経っても発達せず」、佐藤栄作は「馬鹿の男」と日記に残している。
外交では若手時代から積極的にネルー、アデナウアー、ロバート・ケネディ、ニクソンら海外の要人と関係を作り、外交安保問題の第一人者としての素地を作ってきた。首相になりそれがようやく開花する。中曽根は「ロン・ヤス」関係に代表されるように親米タカ派と見られている。たしかにその通りだが、同時に親中・親韓派でもあった。「角福戦争」で最終的に角栄支持に回った大義名分には、角栄が日中国交正常化論者だったことがある。中曽根内閣で真っ先に韓国を訪問して全斗煥と親密な関係を築き、中国の胡耀邦とも家族ぐるみで交流した。安保については、「防衛費1%枠」撤廃のように、軍拡論者の印象も強い。だが、これも正しくない。日本の政治家としては異例だが、国際的な核軍縮でイニシアチブを取った。佐藤内閣の「非核三原則」の最後「持ち込ませず」を提案したのも、運輸相だった中曽根だという。
存命のためではあるが、前著「 広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書) 」のような、著者なりの人物像の提示がない点はやや残念だ。三公社民営化など内政面の記述も、外交並みの分量がほしかった。だが、ファクトだけでもイメージの描き直しをさせられる点は多かった。全生涯を書いてはいないが、本書に増補するほどの内容が今後あるとも考えにくい。中曽根には自著も多いが、本人の主観で書かれているため、実像を知るには歴史学の方法で書かれた本書の方が適切かもしれない。中曽根の人生から戦後外交史・政治史の全体像を描く本書の内容は濃く、楽しめる。
中曽根は「三角大福中」時代までの20年間、野党か非主流派だった。首相になるまでの主要閣僚歴は田中内閣通産大臣の2年だけ。「三角大福中」で田中へ恩義を貸すうちに、首相の椅子が見えてきた印象だ。自民党を体現するような人物に見えていたので、意外だった。天皇退位論をぶって吉田茂に「非国民」と返されたり、与党幹部に爆弾質問をしたり、ソ連視察を強行したり、と確かに「青年将校」だ。中曽根のパフォーマンスを先輩政治家は嫌悪していた。重光葵は「何年経っても発達せず」、佐藤栄作は「馬鹿の男」と日記に残している。
外交では若手時代から積極的にネルー、アデナウアー、ロバート・ケネディ、ニクソンら海外の要人と関係を作り、外交安保問題の第一人者としての素地を作ってきた。首相になりそれがようやく開花する。中曽根は「ロン・ヤス」関係に代表されるように親米タカ派と見られている。たしかにその通りだが、同時に親中・親韓派でもあった。「角福戦争」で最終的に角栄支持に回った大義名分には、角栄が日中国交正常化論者だったことがある。中曽根内閣で真っ先に韓国を訪問して全斗煥と親密な関係を築き、中国の胡耀邦とも家族ぐるみで交流した。安保については、「防衛費1%枠」撤廃のように、軍拡論者の印象も強い。だが、これも正しくない。日本の政治家としては異例だが、国際的な核軍縮でイニシアチブを取った。佐藤内閣の「非核三原則」の最後「持ち込ませず」を提案したのも、運輸相だった中曽根だという。
存命のためではあるが、前著「 広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像 (中公新書) 」のような、著者なりの人物像の提示がない点はやや残念だ。三公社民営化など内政面の記述も、外交並みの分量がほしかった。だが、ファクトだけでもイメージの描き直しをさせられる点は多かった。全生涯を書いてはいないが、本書に増補するほどの内容が今後あるとも考えにくい。中曽根には自著も多いが、本人の主観で書かれているため、実像を知るには歴史学の方法で書かれた本書の方が適切かもしれない。中曽根の人生から戦後外交史・政治史の全体像を描く本書の内容は濃く、楽しめる。
ベスト1000レビュアー
中曽根康弘は、99歳になった。少なくとも数カ月前まではアタマもしっかりし、
そこらへんのぽっと出の政治家より、ずっとしっかりしたことを言っていた。
おそらくいまもそうだろう。
あの力は、どこから出ているのだろうともう。
本書はその中曽根康弘の「評伝」なのだが、
著者は中曽根康弘に30回近くインタビューし、さらに多くの関係者にも
話を聞いている。
だからさっと撫でただけのような薄い本ではなく、
微妙に政治信条を変えて来たようであり、実は非核三原則と自主防衛、
原子力の平和利用といったことは、ずっとぶれてないことがわかる。
それにしても中曽根康弘が首相だったころは「タカ派」のイメージが強かったが、
いまの政権はもっとタカ派だ。
中曽根康弘の「通史」を知るだけでなく、
いまの日本は本当にこれでいいのかを考えさせてくれる一冊になっていると思う。
そこらへんのぽっと出の政治家より、ずっとしっかりしたことを言っていた。
おそらくいまもそうだろう。
あの力は、どこから出ているのだろうともう。
本書はその中曽根康弘の「評伝」なのだが、
著者は中曽根康弘に30回近くインタビューし、さらに多くの関係者にも
話を聞いている。
だからさっと撫でただけのような薄い本ではなく、
微妙に政治信条を変えて来たようであり、実は非核三原則と自主防衛、
原子力の平和利用といったことは、ずっとぶれてないことがわかる。
それにしても中曽根康弘が首相だったころは「タカ派」のイメージが強かったが、
いまの政権はもっとタカ派だ。
中曽根康弘の「通史」を知るだけでなく、
いまの日本は本当にこれでいいのかを考えさせてくれる一冊になっていると思う。
ベスト1000レビュアーVINEメンバー
中曽根康弘氏は日本を代表する総理の1人です。外交では、1980年代のバブル以前に米ソ対立時期の中で日本の立場を主張できた首相、内政では長年の懸念事項であった国鉄民営化を踏み切れた首相とどれをとっても平成となった日本の礎を築いた人と言ってもいいでしょう。そんな中曽根氏の半生が本人の言葉や文献を引用しながら、どのような人物かがよく伺える本だと感じました。また戦後政治史の裏側・因果関係も本書を読むとよくわかると思います。さらに中曽根氏本人は本書発売時点でご存命です。そんな中で半生をまとめることは並大抵ではないはずです。そんな気苦労も本書では読んでいて、感じずにいられませんでした。
戦後政治史に関心のある方はもちろん、重大な決断を下すことの多い社長やリーダーにはおすすめの本です。
戦後政治史に関心のある方はもちろん、重大な決断を下すことの多い社長やリーダーにはおすすめの本です。





