「土着の神」
これは、神道とか、宗教とかとは別の日本人の心ではないのでしょうか?海から登る朝日に手を合わせる、森の中のせせらぎに手を合わせる、変わった形の雲に思いを寄せる・・・というさりげない行動は、「宗教」として教えられたものではないし、親や学校で教えられたものではない。しかし、かなり多くの日本人がそうした心情を持っている。
これを「宗教」としてくくるとややこしくなるが「土着の神」に対する敬虔な信仰心ととらえれば、日本における「宗教」が諸外国とは異なることもわかってくるのではなかろうか?
本書は、政治的に仏教を「強制」された中世において、日本人が「土着の神」を「信仰」していたことを丹念に論証している。
このことと、その後悪役になっていく神道とは別の問題であるのか、神道は「土着の神」への素朴な敬虔な信仰と関わるのか・・・?この点が今ひとつよく分からないのは残念だったが、戦後の政治的な「政教分離」と違う世界がもともと日本にあったことを示す良書である。
中世の神と仏 (日本史リブレット) 単行本 – 2003/5/1
末木 文美士
(著)
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ISBN-104634543206
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ISBN-13978-4634543201
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出版社山川出版社
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発売日2003/5/1
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本の長さ94ページ
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
中世は仏教の時代と考えられてきました。日本の土着の神たちは仏教の仏たちのもとでひっそりと息を潜めて、せいぜい神仏習合という不純で不本意な形態を取らされていたというのです。しかし、神仏習合はそのように否定されるべき形態なのでしょうか。そこには、従来常識とされてきた日本宗教のあり方とはまったく異なる雄大で自由な想像力が羽ばたき、合理主義に束縛された近代人の思いも及ばない世界が展開しているのです。本書では近年急速に研究が進められている中世神道論の動向を描き出しながら忘れられていた日本の宗教の原像を解明していきます。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
末木/文美士
1949年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。専攻、仏教学・日本仏教史。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1949年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。専攻、仏教学・日本仏教史。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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中世日本の宗教というと、鎌倉新仏教のイメージが強く、神道は脇に追いやられていたかのように考えられがちである。
しかし、実際には「神仏習合」という一見ネガティブなイメージの状態にこそ神道の生き生きとした躍動を見ることができる。
本書では、仏教と接触、融合することで、中世において神道がいかなる変化を遂げてきたかをコンパクトに、しかしわかりやすく解説してくれる。
神仏習合は、御法神や本地垂迹などの在り方があり、一見すると神が仏よりも下に置かれているように見える。
しかし、神道と仏教という二つの確固たる宗教が出会って対立したというより、そもそも曖昧とした形式しかもっていなかった神道(神祇信仰)が、仏教との相互作用によって自らの形を決めていった、という面が強い。
そのため、仏教に神道が回収されたというよりも、仏教を利用することで神道が自らの地位や教説を確立させていくと見る方がよいのである。
山王神道は、本地垂迹説に末法悪世観(日本は劣った人ばかりの国で仏が出ることも出来ないから、仏が神の姿で現れる必要があった、という見方)をとるものである。
もともとは山岳信仰から端を発するものだが、天台教学によって再編纂・融合されていった。
そして、この流れで神仏関係を逆転させる反本地垂迹説などが唱えられる。
別の流れである伊勢神道、両部神道は、従来この二つは別の流れとされてきたが、中世においては両者は密接にかかわっていたとされる。
両部神道は密教系の流れを引くもので、両部曼荼羅に基づいて両宮を説明しようとするものである。
その後、後醍醐天皇と南北朝騒乱の時代背景において、北畠親房や慈遍らによって天皇を中心とする教説が形成していく。
中世神道の変遷をコンパクトに追っている良書である。
同趣旨の本として 神道とは何か - 神と仏の日本史 (中公新書) があるが、こちらはかなり固くて難解なので、手軽に知りたい人は本書を読んでからこちらにトライするといいだろう。
タイトルは「神と仏」だが、仏の側の話はあまり出ていない。
仏の側を知りたい人は、同著者の 日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫) などを読むとよいと思う。
しかし、実際には「神仏習合」という一見ネガティブなイメージの状態にこそ神道の生き生きとした躍動を見ることができる。
本書では、仏教と接触、融合することで、中世において神道がいかなる変化を遂げてきたかをコンパクトに、しかしわかりやすく解説してくれる。
神仏習合は、御法神や本地垂迹などの在り方があり、一見すると神が仏よりも下に置かれているように見える。
しかし、神道と仏教という二つの確固たる宗教が出会って対立したというより、そもそも曖昧とした形式しかもっていなかった神道(神祇信仰)が、仏教との相互作用によって自らの形を決めていった、という面が強い。
そのため、仏教に神道が回収されたというよりも、仏教を利用することで神道が自らの地位や教説を確立させていくと見る方がよいのである。
山王神道は、本地垂迹説に末法悪世観(日本は劣った人ばかりの国で仏が出ることも出来ないから、仏が神の姿で現れる必要があった、という見方)をとるものである。
もともとは山岳信仰から端を発するものだが、天台教学によって再編纂・融合されていった。
そして、この流れで神仏関係を逆転させる反本地垂迹説などが唱えられる。
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両部神道は密教系の流れを引くもので、両部曼荼羅に基づいて両宮を説明しようとするものである。
その後、後醍醐天皇と南北朝騒乱の時代背景において、北畠親房や慈遍らによって天皇を中心とする教説が形成していく。
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