永井は常々言っている。哲学とは答えではなく問いなのだ、と。答えが出てしまったら、それはもはや哲学ではなくて思想もしくは宗教になってしまう(むろんそれが悪いわけではないが)。哲学とは疑うことであって、信じることではない。ニーチェとウィトゲンシュタインが哲学史において法外な価値を持つのは、この二人が哲学的とされている出来合いの問題に答えたからではなく、それまでだれも問題と思っていなかったことに問題を見出したからだ。そう永井は言っている。
そんな永井が一貫して問い続けているのが「私」と「悪」の問題である。両者は表裏一体の関係にあるが、土浦連続通り魔事件以降「悪」の問題に関しては口を閉ざしてしまった感のある最近の永井は、「私」の問題を徹底することに専念しているように見える。それというのもこの問いが(永井の言葉を借りれば)あまりにも自明であるがゆえに、他者に伝達することがあまりにも困難もしくは不可能だからである。
永井によれば「私」は「私の身体」ではなく「私の精神」ですらない。「私にとっての私」とは「世界がそこから開けているところの原点」である。それは世界に一つしかないと同時に、だれもがそれを持っている(ように思われる)。むろん他人の「私」は証明できない。他我を懐疑すれば独我論に陥るだろう。しかし永井の問いの方向はそちらにはない。Only Oneの私がOne of Themの私に頽落するという言語的な問題も、永井の問いではない。
永井は言う。世界の原点であるところの「私」は、世界に一つしかない。にもかかわらず、だれもがそれを持っている。しかし「現に」そこから世界が見えて痛みを感じることのできる「私」は、やはり一つしかない。だれもが持っているのに、現実には世界に一つしかない。これはどういう意味なのか。私はどうやって、そのだれもが持っている「私」と「この私」を識別しているのか(なお「私」を「今」に置き換えても同じ問題が発生する)。
永井の問題を100パーセント理解できているとは思っていないし、正直に言って永井の論述も分かりやすいものとは言えない。しかし一つだけ理解できるのは、永井がデタラメを言っているわけではないということである。難解な文章をおそるおそる読み進めながらも、その底に流れる哲学に対する真摯な態度だけはひしひしと伝わってくる(そんな評価は永井本人にしてみれば失礼かつ真っ平御免だろうが)。
付論の中で永井は魚川氏の著作を引用し、そこで説明されている限りにおいての輪廻を否定している(ように読める)。しかし以前から思っていたことだが、永井の独在論はむしろ輪廻説と親和性があるのではないだろうか。世界の原点としての「私」、身体や記憶とも切り離された「私」が、百年前も存在しており、百年後も存在していることを、否定する根拠は何もないように思われる。いわゆる輪廻転生の思想は、時空を超えた「私」に対する実感から生まれたものではないだろうか。
『存在と時間 哲学探究1』の続編である本書は、連載中は『存在と意味』というメインタイトルだったが、単行本化の際に『世界の独在論的存在構造』に変更したのだという。個人的には故廣松渉の未完の大著と同じにならなくてよかったと思っている。永井を読んでいて廣松哲学の影響を感じたことはあまりないが、廣松が永井の著作を読んだらどんな感想を抱くのだろうか。
この商品をお持ちですか?
マーケットプレイスに出品する

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません 。詳細はこちら
Kindle Cloud Readerを使い、ブラウザですぐに読むことができます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2) 単行本 – 2018/8/17
購入を強化する
まさにこのありありとある私ただひとつがある。それは端的な私であり、けっして記憶や性格でもなければ、一般的な意識や精神や魂と呼ばれるものでもないのだが、言葉で語ろうとすると簡単にたくさんある私のなかのひとつとなり、一般的な心というもののひとつの個別事例になって、見失われてしまうのだ。
この私という説明不可能な例外的存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きを起点につむぎだされる独創的思索の広大な射程。長い哲学の歴史のなかで見逃されてつづけてきた、しかし根本的な問題を発見し探究しつづける哲学者・永井均の最新の思索は、私・今・現実の不思議を新たにゼロから徹底的に考えぬく。仏教やインド思想の無我・真我を論じる付論を付す。
この私という説明不可能な例外的存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きを起点につむぎだされる独創的思索の広大な射程。長い哲学の歴史のなかで見逃されてつづけてきた、しかし根本的な問題を発見し探究しつづける哲学者・永井均の最新の思索は、私・今・現実の不思議を新たにゼロから徹底的に考えぬく。仏教やインド思想の無我・真我を論じる付論を付す。
- 本の長さ320ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2018/8/17
- 寸法13.8 x 2 x 19.5 cm
- ISBN-104393323793
- ISBN-13978-4393323793
この商品を見た後に買っているのは?
ページ: 1 / 1 最初に戻るページ: 1 / 1
商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
この私という説明不可能な例外的存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きを起点につむぎだされる独創的思索の広大な射程。私・今・現実の不思議を新たにゼロから徹底的に考えぬく。仏教やインド思想の無我・真我を論じる付論を付す。
著者について
1951年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業・同大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、日本大学文理学部教授。専攻は哲学・倫理学。
著書に『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店)、『ウィトゲンシュタインの誤謬』(ナカニシヤ出版/講談社学術文庫)、『哲おじさんと学くん』(日本経済新聞出版社)、『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社現代新書)、『哲学の密かな闘い』(ぷねうま舎/岩波現代文庫)、『存在と時間――哲学探究1』(文藝春秋)など。
著書に『なぜ意識は実在しないのか』(岩波書店)、『ウィトゲンシュタインの誤謬』(ナカニシヤ出版/講談社学術文庫)、『哲おじさんと学くん』(日本経済新聞出版社)、『私・今・そして神――開闢の哲学』(講談社現代新書)、『哲学の密かな闘い』(ぷねうま舎/岩波現代文庫)、『存在と時間――哲学探究1』(文藝春秋)など。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
永井/均
1951年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業・同大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、日本大学文理学部教授。専攻は哲学・倫理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1951年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業・同大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、日本大学文理学部教授。専攻は哲学・倫理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Kindle化リクエスト
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
このタイトルのKindle化をご希望の場合、こちらをクリックしてください。
Kindle をお持ちでない場合、こちらから購入いただけます。 Kindle 無料アプリのダウンロードはこちら。
登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2018/8/17)
- 発売日 : 2018/8/17
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 320ページ
- ISBN-10 : 4393323793
- ISBN-13 : 978-4393323793
- 寸法 : 13.8 x 2 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 36,875位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 96位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 215位哲学 (本)
- - 534位思想
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.2
星5つ中の4.2
14 件のグローバル評価
評価はどのように計算されますか?
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。その代わり、レビューの日時がどれだけ新しいかや、レビューアーがAmazonで商品を購入したかどうかなどが考慮されます。また、レビューを分析して信頼性が検証されます。
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年12月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この石ころが他の石ころではなくまさにこれであることの不思議
この簡略化は多分著者が否定するだろうが、私はまさにこれで氏の問題意識を言いかえできていると思う。侮辱の意図は微塵もなく、これで哲学的な問題提起になりえているとも思う
それの形状であるとか、私の目の前に今あるとかいう外的要因をのぞいて、その石ころの存在そのものにとって、それがそれであることの根拠は何か。ほら、十分に深い問題でしょ?
マクタガートの時間論に意識の問題と同型のものを見るということは、本当のところ、時間に特有のもの、意識に特有のものを問うているのではないということだ。一見それは現在の特殊性、自己の特殊性を浮き彫りにする問題設定のようだが、氏は執拗に現在(および自己)の相対化を求める。過去もその時点では現在であったし、未来もいずれ現在になる。意識に対する操作もそれに倣う
いずれも理論の出発点は平等化された「現在」そして「私」である。その上に累進構造という更なる平等化を重ねて来る
ではもともとの疑問は石ころに置き換えても変わりないのではないか? それで不足なら石ころになったつもりの考察でも、自意識を持った石ころという抽象概念でも
問われるのが当事者である私であり意識体であることから、何やら神秘的な見かけをまとい、累進構造とか第何次内包とか、意識の性質の側に回答を求めたくなってしまうが、私にはこれらがすべてフィクションとして読めてしまう
なぜ私にのみ世界が開けているのか。この問題は自己意識という意味ではない方の、純粋論理学上のアイデンティティーという概念の検討によって解決を考えるべきではないだろうか。この問題意識のよって立つ基礎を、永井氏は十分に見極めないまま発進してしまったと私は考える。つまり一般人はもとより、哲学者たちが氏の問題意識を充分に共有しない苛立ちから、過剰に防衛する方向へ行ってしまったと
もしなぜ私はここに今いる私以外のものではないかという問いに、人はまず孤絶した個物としてあり、意識体や生物であることは後から付け加わる、このような返答で満足できないとしたら、それは心理的な原因がある。結果として、交換可能でないものが交換可能であるような形而上学を組み立ててしまう
読み解く価値はそれなりにあるのかもしれないが、誤解の上に積み重なった観念論を、意味を反転させたうえで有益な部分を抜き出す作業は、一読者の手に余る作業である。なぜこれを意識や自己存在にかかわる問題ととらえたのか。氏自身の自己発掘が最優先ではないか
ああ、このレビューに対するなんかものすごく的外れなレビューも投稿されたようですね。外から、神の視点で見て違いがあるということ以外に、この石とあの石を区別するものなんかあり得ませんよ。その奥の、存在そのものという本質はないのです
私がなぜ私であるか、この問いには意味があります。しかし私がなぜほかのだれかではないのか、なぜ他の無機物ではないのか、これらには哲学的に問う意味がありません。なぜ私が家康ではないか、この問いが深刻ななぞと感じられるなら、おのれの心を掘り起こし、コンプレックスをあぶりだすのが先決でしょう。なぜ私が石ころではないかという問いに対しては、科学的な説明で事足りると思われます
私が永井氏に失望しているのは、科学と本気て戦う気概もないくせにヘーゲルやウィトゲンシュタインを出して安易に観念論的主張をするところです。はっきり言って、永井氏の理論は科学をある程度信じる人間から見て、かなり異様だし、全然合理的ではありません。それはそれで、もちろんいいのです。ただし、永井氏が本気で御自分の主張を信じるなら、まず科学的唯物論をぶっ潰してからでしょうよ
この簡略化は多分著者が否定するだろうが、私はまさにこれで氏の問題意識を言いかえできていると思う。侮辱の意図は微塵もなく、これで哲学的な問題提起になりえているとも思う
それの形状であるとか、私の目の前に今あるとかいう外的要因をのぞいて、その石ころの存在そのものにとって、それがそれであることの根拠は何か。ほら、十分に深い問題でしょ?
マクタガートの時間論に意識の問題と同型のものを見るということは、本当のところ、時間に特有のもの、意識に特有のものを問うているのではないということだ。一見それは現在の特殊性、自己の特殊性を浮き彫りにする問題設定のようだが、氏は執拗に現在(および自己)の相対化を求める。過去もその時点では現在であったし、未来もいずれ現在になる。意識に対する操作もそれに倣う
いずれも理論の出発点は平等化された「現在」そして「私」である。その上に累進構造という更なる平等化を重ねて来る
ではもともとの疑問は石ころに置き換えても変わりないのではないか? それで不足なら石ころになったつもりの考察でも、自意識を持った石ころという抽象概念でも
問われるのが当事者である私であり意識体であることから、何やら神秘的な見かけをまとい、累進構造とか第何次内包とか、意識の性質の側に回答を求めたくなってしまうが、私にはこれらがすべてフィクションとして読めてしまう
なぜ私にのみ世界が開けているのか。この問題は自己意識という意味ではない方の、純粋論理学上のアイデンティティーという概念の検討によって解決を考えるべきではないだろうか。この問題意識のよって立つ基礎を、永井氏は十分に見極めないまま発進してしまったと私は考える。つまり一般人はもとより、哲学者たちが氏の問題意識を充分に共有しない苛立ちから、過剰に防衛する方向へ行ってしまったと
もしなぜ私はここに今いる私以外のものではないかという問いに、人はまず孤絶した個物としてあり、意識体や生物であることは後から付け加わる、このような返答で満足できないとしたら、それは心理的な原因がある。結果として、交換可能でないものが交換可能であるような形而上学を組み立ててしまう
読み解く価値はそれなりにあるのかもしれないが、誤解の上に積み重なった観念論を、意味を反転させたうえで有益な部分を抜き出す作業は、一読者の手に余る作業である。なぜこれを意識や自己存在にかかわる問題ととらえたのか。氏自身の自己発掘が最優先ではないか
ああ、このレビューに対するなんかものすごく的外れなレビューも投稿されたようですね。外から、神の視点で見て違いがあるということ以外に、この石とあの石を区別するものなんかあり得ませんよ。その奥の、存在そのものという本質はないのです
私がなぜ私であるか、この問いには意味があります。しかし私がなぜほかのだれかではないのか、なぜ他の無機物ではないのか、これらには哲学的に問う意味がありません。なぜ私が家康ではないか、この問いが深刻ななぞと感じられるなら、おのれの心を掘り起こし、コンプレックスをあぶりだすのが先決でしょう。なぜ私が石ころではないかという問いに対しては、科学的な説明で事足りると思われます
私が永井氏に失望しているのは、科学と本気て戦う気概もないくせにヘーゲルやウィトゲンシュタインを出して安易に観念論的主張をするところです。はっきり言って、永井氏の理論は科学をある程度信じる人間から見て、かなり異様だし、全然合理的ではありません。それはそれで、もちろんいいのです。ただし、永井氏が本気で御自分の主張を信じるなら、まず科学的唯物論をぶっ潰してからでしょうよ
2021年7月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
哲学者は考えるのが仕事だとして、それが日常になっていることを踏まえて言わせていただくと、おそらくまずno mind ということが取り扱われない。瞑想をしていくと私たちの思考が途切れて、雲が消えるように思考が消えることを体験する。ということにまず気づくことが必要である。それが悟りだ。そのno mindがしばらく続くのがサマディである。完全に思考が停止すると解脱と言われる状態となる。しかし私たちの自我は残る。no mindであって無我ではない。自我がなければ私たちは言葉がも使えないし、記憶も残らない。私たちが想像力を超えることができないのは、この自我はそのままそこにあるからに他ならない。いつまで経っても私たちは想像力の範囲内で考える。というか言葉を使う。言葉が問題だ。この我は感覚的に自他を区別している。それは視覚や味覚、皮膚感覚など5感とも繋がってそのような自覚がある。おそらく自他を区別するバリアーが壊れると統合失調症となるだろう。アイデンディティ、名前や所属や家系などを剥ぎ取っていくといい。言葉も捨て去ると何が残るかということ。哲学者が、瞑想を徹底的に続けていけば、哲学者をやめるであろう。それは哲学者にとっては、最大の恐怖だろう。
2018年8月20日に日本でレビュー済み
本書は『存在と時間 哲学探究1』の続編ですが、こちらだけ読んでも問題ないようです。ただし、難易度は高めでしょう。質の高い議論が為されていますが、読者によって興味深く感じられる箇所はそれぞれに異なることでしょう。そもそも全般的に意味不明と感じる人もいれば、全体を通して面白いと考える人もいるでしょう。
私が感動した議論の一つに、第4章のルイス・キャロルのパラドックスに対する新たな解釈があります。一般的に、このパラドックスは、推論規則を他の命題と同じレベルで並べることができない教訓として考えられているようですが(それはそれで素晴らしい解釈ですが)、永井は別の読み取り方を提示します。それは、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまう(それゆえアキレスは亀をどうしても引き離せない)、という解釈です。この読み取りは、凄まじいです。この解釈を提示したというだけで、哲学者として一流だと見なし得るでしょう。
ここで永井は、「現実性記号」のようなものを作ってみても無駄だと述べています。亀はそれ(現実性記号)を可能な現実性として読み続けるであろうから、というわけです。しかし、これには異論がありえるでしょう。
ルイス・キャロルのパラドックスを、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまうことだと解釈するなら、少なくとも3パターンの亀の存在が考えられるでしょう。「現実性記号」の追加により納得する亀1。現実性記号を可能な現実性として読み続ける(永井の想定する)亀2。現実の命題が端的に与えられることで、つまり〈命題〉により、納得する亀3。これらの3つの亀が考えられるでしょう。さらに、これら3つの亀のそれぞれに対し、他の選択を理解できない亀と、他の選択を理解できる亀といった分割が可能になるでしょう。その上で、それぞれの亀が何を意味しているかを、読者は理解する必要があると思われます。
また、第9章の「ものごとの理解の基本形式」として、カテゴリーが提示されているところも凄まじいです。アリストテレスやカントのカテゴリーの具体的内容はおかしいと思いますが、ここで永井によって提示されている様相・人称・時制に対しては、今のところ反論が思い浮かびません。カテゴリーは語れないという魅力的な見解を超えて、具体的に説得的なカテゴリーを提示しているところは、やはり凄まじいです。
私が感動した議論の一つに、第4章のルイス・キャロルのパラドックスに対する新たな解釈があります。一般的に、このパラドックスは、推論規則を他の命題と同じレベルで並べることができない教訓として考えられているようですが(それはそれで素晴らしい解釈ですが)、永井は別の読み取り方を提示します。それは、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまう(それゆえアキレスは亀をどうしても引き離せない)、という解釈です。この読み取りは、凄まじいです。この解釈を提示したというだけで、哲学者として一流だと見なし得るでしょう。
ここで永井は、「現実性記号」のようなものを作ってみても無駄だと述べています。亀はそれ(現実性記号)を可能な現実性として読み続けるであろうから、というわけです。しかし、これには異論がありえるでしょう。
ルイス・キャロルのパラドックスを、現実世界の話を可能世界の話として論じてしまうことだと解釈するなら、少なくとも3パターンの亀の存在が考えられるでしょう。「現実性記号」の追加により納得する亀1。現実性記号を可能な現実性として読み続ける(永井の想定する)亀2。現実の命題が端的に与えられることで、つまり〈命題〉により、納得する亀3。これらの3つの亀が考えられるでしょう。さらに、これら3つの亀のそれぞれに対し、他の選択を理解できない亀と、他の選択を理解できる亀といった分割が可能になるでしょう。その上で、それぞれの亀が何を意味しているかを、読者は理解する必要があると思われます。
また、第9章の「ものごとの理解の基本形式」として、カテゴリーが提示されているところも凄まじいです。アリストテレスやカントのカテゴリーの具体的内容はおかしいと思いますが、ここで永井によって提示されている様相・人称・時制に対しては、今のところ反論が思い浮かびません。カテゴリーは語れないという魅力的な見解を超えて、具体的に説得的なカテゴリーを提示しているところは、やはり凄まじいです。