総括すると、願望と素朴な論理で編み出された数々のおぞましい医療の歴史だろうか。昔の人がここまで愚かだったと気づくのは良いが、現在も状況はさして変化していないことに気づくと、気分が悪くなることは確実だろう。本には具体的なエピソードが豊富で、各論に分かれているので、いくつかを取り上げて紹介した方が良いだろう。
例えばヒ素は潰瘍やイボに塗ると組織が壊死して治療効果はあるが、長期的に使うとヒ素中毒になる。ヒ素を飲むと忍耐力や性欲が増し、顔色が良くなると信じて飲み続けた人々もいる。もちろん、ヒ素中毒で悲惨な死に方をした。ヒ素は壁紙にも使われていたので、ナポレオンはヒ素中毒でもあったようだ。この本には水銀や金の記述があるが、化粧品に使われていた鉛中毒の話は抜けている。
キューリー夫妻が発見したラジウムは強い放射線があるので危険なのだが、熱傷を生じるので皮膚ガンに効果があった。そこで、ラジウムなどの放射線は魔法の治癒力があると信じられ、高血圧、糖尿病、リュウマチなど、あらゆる病気の治療に使われた。ラジウムを身体に当てて病気を治そうとした大金持ちにバイヤーズがいて、5年間もラジウムを当て続け、ガンだらけになって死亡した。ラジウムは稀少だったので、ラジウムが崩壊したラドンにも病気を治す力があると信じた。今でもラドン温泉などが信じられているのは、20世紀初頭の信念の名残だろう。被爆すると、ガンになる確率が増すだけだが。
瀉血の馬鹿馬鹿しさは自分の本「あざむかれる知性」や「心理学でなにがわかるか」(ちくま新書)にも書いたが、血液が生命の元で、病気は血液が病むからという病因論に根ざしている。したがって、病気の時は、可能な限りたくさんの血を抜けばよいということになる。この信仰は2,000~3,000年続いた。瀉血して治らなかった場合は血の抜き方が不十分と考えたので、間違った信念が訂正されることもなかった。瀉血が廃れたのはコッホの最近感染説が現れたこと、医療統計学で、瀉血をしても死亡率が下がらないことなどの理由による。犠牲者の有名人はモーツアルト、チャールズ二世、アン王女、ジョージ・ワシントン、バイロンなど。
歴史上、最悪の手術はロボトミーだろう。狂気は頭に宿るので、頭の中の石を取り除けば治療可能という信念に基づいていた。19世紀末、頭蓋骨に穴を開けて、脳みそを何杯か取り除くと、精神病の患者は大人しくなるので、この方法が推奨された。この手術で有名になったモニスはノーベル賞を受賞した。その後、フリーマンとワッツは「ロボトミー」という名前を付け、頭蓋骨のてっぺんに穴を開ける代わりにこめかみを切開し、へらで脳みそを掬い出した。この犠牲者がケネディ家のローズマリー・ケネディであった。その後、彼らは眼球の上からアイスピックを突き刺し、脳みそをかき回した。その結果、精神病の患者はすべて大人しくなったが、多くは出血多量で死んだ。
浣腸の話も面白いかな。糞便には毒素があり、身体に害を及ぼすので、速やかにこれを対外に排出することが重要とされた。あらゆる病は宿便が原因であるという学説も生まれた。古代エジプトの時代から、あらゆる病気の治療のために浣腸が推奨された。ルイ14世は生涯で2000回も浣腸をしたらしい。19世紀になると、コーヒー浣腸がさかんになった。このコーヒー浣腸は20世紀のゲルソンがデトックス・キャンペーンを行い、大もうけをしたらしい。今でもゲルソン療法(食事療法)はガンにも効くと続けられている。
食人も数千年の間行われ、19世紀まで存続した。元気な人間の肉を食べると病気が治るはずという信念に基づいている。血液は生命の元だからそのまま飲んだり、血液でジャムを作って食べた。健闘士の遺体はよく利用された。健闘士の遺体が手に入らない時は、罪人の新鮮な遺体を利用した。燻製肉も作られて食された。古い遺体ではミイラが利用されて、湿布剤や解毒剤として加工された。そのため、ミイラの需要がひっ迫し、盗掘があいついだ。自分の病気を治すためなら他の人の体でも食べようとしてしまうらしい。
とんでも医療にはキリがない。人間の愚かな魔術的思考はまったく訂正されず、現在に至っている。医療の元で殺人が行われすぎたので、エビデンス・ベイスド・メディシンが現れたのだが、科学的思考方法(条件を揃えて比較対照を行うこと)の理解はまだまだ。時間のある人は私の「心理学で何がわかるか」や「あざむかれる知性」(ちくま新書)を読んで欲しい。
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