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不寛容の本質 なぜ若者を理解できないのか、なぜ年長者を許せないのか (経済界新書) 新書 – 2017/2/10
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不信感や不安感、困難な現実……
注目の若手社会学者が「不寛容」に迫る!
◆現代社会の不寛容とはいかなるものか
◆社会で根強く残る「昭和的な価値観」が
いかに現実と乖離しているか
◆「昭和的な価値観」は世代によって見え方が違う
◆30代以下世代が感じる不寛容
◆社会に対する認識を更新せよ
◆さらば、「昭和の常識」たちよ
【目次】
第1章 不寛容の本質に迫る
第2章 我々は「豊か」になったのか、「貧しく」なったのか
第3章 なぜ若者は「反自民、反安倍」ではないのか
第4章「イノベーター」と「生活者」の共存は可能か
第5章 少年犯罪と隠れた格差
第6章 研究環境と高等教育の変容がもたらした違和感
西田亮介(にしだ・りょうすけ)
社会学者。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。博士(政策・メディア)。
専門は公共政策の社会学。情報と政治、情報化社会のジャーナリズム、無業社会等を研究。
1983年京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。同助教(有期・研究奨励II)、(独)中小機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大大学院特別招聘准教授などを経て、現職。
著書『メディアと自民党』(角川新書)、『ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容』(東洋経済新報社)、編書『民主主義〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』(幻冬舎新書)、共著『無業社会 働くことができない若者たちの未来』(朝日新書)ほか多数。
- 本の長さ200ページ
- 言語日本語
- 出版社経済界
- 発売日2017/2/10
- ISBN-104766720644
- ISBN-13978-4766720648
- UNSPSC-Code
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
著者について
社会学者。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。博士(政策・メディア)
専門は公共政策の社会学。情報と政治、情報化社会のジャーナリズム、無業社会等を研究。
1983年京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。
同後期博士課程単位取得退学。同助教(有期・研究奨励II)、(独)中小機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大大学院特別招聘准教授などを経て、現職。
著書は『メディアと自民党』(角川新書)、『ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容』(東洋経済新報社)、編書『民主主義〈一九四八-五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版』(幻冬舎新書)、共著『無業社会 働くことができない若者たちの未来』(朝日新書)ほか多数。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
社会学者。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。博士(政策・メディア)。専門は公共政策の社会学。情報と政治、情報化社会のジャーナリズム、無業社会等を研究。1983年京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。同助教(有期・研究奨励2)、(独)中小機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大大学院特別招聘准教授などを経て、現職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
著者について

東京工業大学准教授。博士(政策・メディア)。
専門は情報社会論と公共政策。情報化と社会変容、情報と政治(ネット選挙)、社会起業家とソーシャル・エンタプライズ、政策としての「新しい公共」、地域産業振興、協働推進、日本のサーフカルチャーの変遷等を研究。
1983年京都生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同大学院政策・メディア研究科後期博士課程単位取得退学。同大学院政策・メディア研究科助教(有期・研究奨励Ⅱ)、(独)中小機構経営支援情報センターリサーチャー、東洋大学、学習院大学、デジタルハリウッド大学大学院非常勤講師、立命館大大学院特別招聘准教授を経て、2015年9月から東京工業大学大学マネジメントセンター准教授。2016年4月より東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。
著書に『ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容』(東洋経済新報社)「ネット選挙とデジタル・デモクラシー」(NHK出版)。共編著・共著に『無業社会 働くことができない若者たちの未来』(朝日新聞出版)『「統治」を創造する』(春秋社)ほか多数。
・業績一覧、職歴等詳細: https://sites.google.com/site/ryosukenishida/
・blog: http://ryosukenishida.blogspot.jp/
・Twitter: https://twitter.com/Ryosuke_Nishida
カスタマーレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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本の後半は、タイトルとほとんど関係ない章が並べられている印象でした。
個人的には、後半も面白く読めたのですが、
せっかくタイトルが今日的課題で、多くの人たちが関心を寄せ、回答を求めているものだったので、
タイトルどおり、内容を掘り下げていただきたかったというのが正直なところです。
一冊の本としてまとまりがなかったという意味では、星3つと言うところですが、
補論「「憲法改正」はいかにして「現実味」を帯びてきたか」は、
憲法改正論者よりも護憲論者にこそ読んでいただきたい重要な論が含まれていると思いましたので、
星4つにさせていただきました。
日本の人口は明治以来ひたすら上昇し続け、ようやく頭打ちになったのはバブルの頃だ。それを追いかけるように平均寿命も土地の価格も同じ頃にピークをつけている。敗戦がターニングポイントだったと思っている人が多いが、敗戦で流れは変わっていない。だからすぐ復興できたのだろう。明治以来、100年以上かかってようやくひとつの段階を終え、時代は次のステージに入ったのだ。だからあらゆる分野で制度疲労が起き、見直しを余儀なくされているのが現在の状況なのだ。それが不寛容の根幹の原因だろう。
40代の総人口に占める割合がいちばん高いとき、その国の経済活動はいちばん活発になる。それはこの世代の消費活動がいちばん盛んだからだ。子供が進学の時期を迎え、住宅ローンその他の出費を強いられる。日本の出生率は終戦直後にピークをつけている。これが団塊世代で、彼らが40代になる頃、日本の経済活動がピークをつけることは誰にでも予想できる。それがバブル経済とぴったり重なっている。
バブル時代と現代ではお金の配分が変わっているだけだ。株・不動産・国債を合わせた総資産残高のグラフがある。総額はバブル期も現代もほぼ同じだが、中身が違う。バブル当時は、株と不動産が膨れ上がり、国債はわずかしかない。現代は不動産が激減して株も縮小している。その分の資金が国債に流れ込んでいるのだ。国債バブルだといえるのだが、誰も異常事態だとは考えない。バブル時代とは、資金配分が異なっているだけなのに。
こうやって経済社会は循環していく。バブルの形成とその崩壊など、人類の歴史で何度も繰り返されてきたことだ。政治家が悪いから、誰のせいだから起きるわけではない。これがわからない人が多いのは、経済史に無知だからだ。経済史に無知だと、目の前で起きている出来事にいちいち大きな影響を受け、振り回されることになる。それを誰かのせいにしたくなる。それが一生続くと覚悟したほうがいい。参考文献:加谷珪一「お金は歴史で儲けなさい」
著者はこう連呼する。「本書の目的は。本書が注目するのは。本書が目指すのは。本書で論じるのは。本書が問題視するのは。本書の挑戦はこれだ」と。思わせぶりの宣言を繰り返しながら、いつまでたっても推察と当為表現を続け、統計データ、自身の知識、学術的な単語の披露に終始し、落としどころもなく最終章にもつれ込む。
その宣言の一つにこうある。「本書では、世代による認識の対立構造を現代日本の『不寛容の本質』とし、主要事例のシミュレーションでその本質を見出すことに挑戦する」と。一般に「本質」とは、ぜい肉をそぎ落とした性質の核心部分をいう。繰り返される宣言により読者は、不寛容の実相から脂肪分を取り除き本質を炙り出す旅に誘われた。一方で筆者は、逆にぜい肉をどんどん盛り続け、論破どころか本質を遠ざけてゆく。そして寛容な読者は筆者により少しずつ、しかし着実に不寛容にさせられてゆく。
「昭和の面影」への無意識な執着世代。対する、昭和を羨望する平成世代。その線引きを「本質」の見立てとしている。しかし、その強引な原因推定で、著者みずから論拠の展開に行きづまり、皮肉にも、その行きづまった経過を説明したのが本書ではないか。
その主な行きづまり状態のひとつに、因果の倒錯が感じられる。昭和との対立構造が「因」で、不寛容が「果」ではなく、不寛容が「因」で、昭和云々が「果」でもあり得ることに読者は思いつくだろう。不寛容になったのではなく、不寛容な人びとは今も昔もいて、背景は異なるにせよ不寛容さが昭和を良くも悪くも特徴づけていたに過ぎなく、その様子は年号が平成になっも変わらない…、のではないか。読み進めるほどに、その因果のあぶり出しが論理破たんしている(というより、その域に達していない)。
著者の主張を「忖度」し思い切り一般化するなら、本書は「時代」が「時流」に追いつかない問題へのエッセイ、なのかもしれない。たとえば、情報社会の飛躍的な発展という「時代」に、その情報に逆支配されている「時流」の側面、という具合だ。その不都合に対するストレスのはけ口や責任逃避の手段として寛容さを放棄する事態を世間では不寛容と表現し、その窮状と原因、対応への論調はすでに出尽くした感があるものの(不寛容、というコトバは旬だが)、敢えて昭和のエトスとのギャップに再着目したのはチャレンジングではある。しかし、すでに言い古された感の否めないテーマに空気の入れ換えができず、さりとて単なる焼き直しを避けたがために、社会学で使われがちな知識や言葉づかいのお披露目にしかならなかった・・・。そう感じる。
きりがないが繰り返したい。「おわりに」で著者は、以下のようにまとめにかかる。「我々は、価値観の合意のない不安定な社会を生きている。つまるところ、新しい時代への新しい価値観が求められている」、と。思わせぶりに繰り返してきた「社会の予見可能性改善の手がかり」(要は見通しのいい社会へのヒント、ってこと?)こそが、その新しい価値観だったはずだ。それを提供することが本書の目的、と繰り返し述べてきたにもかかわらず、こともあろうに「それが何だかは筆者もよくわからない」、と結論を言ってのける。そして「共通認識不在を確認し、それらの自明視の困難さを確認したのが本書であった」、と堂々と目的をすり替える大ドンデン返しをしたかと思ったら、「世代間対立の修復の困難さ。本書の主張は、その問題への直視だ」、とダメ出しの再すり替えと再結論を続け、さらにさらに、さらに、脱稿謝辞の前に「本書の内容、記述を妄信することなく、多角的かつ批判的な検討を加えてほしい」、と臆面もなく活字にしてしまうとは、なんと居丈高な言いようだろう。読者を愚弄するにもほどがある。
安倍総理夫人との対談経験を一部引用しているが、これも不快な気分にさせられる。夫人の発言を真に受け、「根拠なき楽観論で現実を直視せず精神論でなんとかするという(夫人のような)態度が悲劇を繰り返してきた」、と糾弾する態度はいかがなものか。引用のリンク先に飛び、その対談記事を読んだが(どういう編集かはわからないが)、気を遣って話す夫人に対し、妙に居丈高な著者がいる。その自信ありげな態度の根拠はどこからくるのか、本書を読むかぎり不可解だ。
本書を読み直してみたものの、非難はできるが(したくはないが)批判できるレベルにない。とどのつまり、それは著者が自分にだけ寛容過ぎるからではないか。それに気づかないままの著者の態度と、身勝手で不明な論理、分かりにくい文章が、本書を通じ読者にそう語りかけているように思う。着眼はチャレンジングなので、さらに経験を積み、新しい年号のもと論理を再構築してはいかがか。
いずれにせよ読者を不寛容にさせるような、まことに後味の悪い読後感に変わりない。
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新書オタクとして初の★1つには勇気がいった。先日、別の新書に★2つを献上したばかりなのにつらい。いくらダメ本でも読み方次第でたいていの「ダメ」は回避できるものだが・・・。なぜ「ダメ」なのか。その理由を述べる前に、ことわっておきたい。もう一度精読してみよう、と。なぜなら、超一流国立大学の准教授である著者が、これほど低レベルの本を書くとは、にわかには信じられないからだ。いくら若いとはいえ、これまで多くの論文を血のにじむような思いでこなしてきているはずだろう。自著「ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容」で提示した”漸進的改良主義”という考えへの高評価も聞く(小生は読んでいないが)。また、メジャー新聞への寄稿歴もある。
問題提起、持論提示、論拠・論証、そして主張の再提示という論文スタイルは、まさに新書構成の王道である。その論拠のキレ、論理の明快さ、分かりやすさ、それらを巧みな文章で練り上げるほど、読者の好感度は上がろう。本書もそのスタイルを踏襲し、近代社会の不満や不寛容の原因を昭和と現代の精神性の乖離にもとめ、その論拠を昭和と平成の価値観の対比で際立たせながら結論に持ち込む意気込みが表明される。しかし、その王道を高らかに宣言しておきながら、読者は200頁ちかくも引きずり回されたあげく見事に裏切られる。その「裏切り」経緯を以下、追ってみる。
はじめにの章: 「昭和的なもの」と現代の見通しの悪さに注目し、日本社会の「不寛容」の構造を論じる、と宣言する。これはいいだろう。
第1章、不寛容の本質に迫る: 著者は、昭和的価値観と現代社会の乖離に着目し、年長世代の「在りし日の昭和」と若年世代の「羨望の昭和」という構図の描写を試みる。しかし、昭和の社会性の定義は示されないまま、だらだらと続き、「在りし日の昭和」と「羨望の昭和」の(構図ではなく)二重性への着目、と話題を微妙にすり替える。昭和のキーワードらしきの披露も、ある種の「予見可能性」、ある種の「安定」と、”ある種”という便利な「あいまい語」で(ある種って何の種?)お茶をにごしたままだ。日本社会が直面するギャップを浮き彫りにすることを目指し、本書では、意識されない「昭和の面影」と社会実態の乖離の豊富な事例を紹介していく、と再び宣言し直し、なぜなら、そこに不寛容や違和感、生きづらさの本質が横たわると見立てるからだ、と仕切り直しを繰り返したと思ったら、さらに、世代認識のずれによる対立構造である不寛容の本質を見出すのが本書の挑戦、と、しつこい。まるで、いつまでもやらない子どもの宿題のように、昭和の定義らしきに一歩も足を踏み入れることなく、あっけなく章を閉じてしまう。ここまで45頁。高らかな宣言ばかり。読者としては残り4分の3に期待するしかない。だが、さらに眉をひそめることになる。
第2章、我々は豊かになったのか、貧しくなったのか: 統計データのオンパレードとなる。たった24ページの章に11もの図表が引用される。いきなりGDPデータを持ち出し「一言でまとめれば日本社会は経済的な意味で貧しくなっている」とあっけなく断定してしまう。貧しくはなってないでしょう。先進国との相対比較で伸び悩みは見られるものの、「貧しい」とは事実誤認であろう。本書の論旨を際立たせるための恣意的な前提としか言いようがない。その豊富な統計データの分析も、貧素この上ない。日本社会の表層をざっと俯瞰する意図であろうが、なんのための24頁なのか理解不能である。そしてこう述べる。「ここまでさまざまな統計を参照しながら、現代日本社会の変容を描き出してきた」、と。(描き出してないんですけど、、、)。さらに、またもや「ある種」病が顔を出し始め、「~のようだ」という身勝手な推察も頻出する。今の時代に、ある種の困難に直面している人たちにとり「羨望の昭和」・・・。その「ある種」の本質が、おそらく本書が解き明かそうとする対象であることが、ここで判明するが、いつまでたっても「ある種」が続く矛盾に、読者は時間稼ぎ「される」予感に苛まれることになろう。そして二章をこう締める。人びとはこの(世代間の)認識ギャップを直視しない「ように」思える。過剰な楽観論と過剰な悲観論が対立する構造こそが現代日本の不寛容の本質ではないか、と。唐突かつ性急な結論ありきの推論ではないか。1章の疑いと期待は、2章では不誠実な誤謬(としか言いようのない繰り返し)となり、読者は義憤のただなかに引きずり込まれる。3章から6章は、読者を混乱の谷底へ突き落す連続となり、もはや何を言わんとしているのか分からない。気が引けるが、いくつかピックアップだけしておく。
3章 なぜ若者は、反自民、反安倍、ではないのか: いきなり、こう始まる。「政治といえば反自民、反与党―」。そんなことはないでしょう。55年体制への反動を表現したつもりかもしれないが、それにしても文章として誤解に直結する。4章5章では、「見た聞いた」という、うわさレベルの話と、「ようだ」「と思われる」という無責任な推論に加え、「はずだ」「べきだ」という当為表現が頻出し、場をもたせる。150頁の記述、「少年が罪を犯した彼らをとりまく環境面でのビハインドは、彼らの社会復帰を考えるにあたって、十分に考慮されるべき点があるのではないか」。私の能力不足かもしれないが理解できない。わかりにくい文章の典型例でもあり(助詞、読点の使い方のまずさ)、さらには”ビハインド”という英語らしきには、通訳を要する。「遅れ」とも、「背後」ともとれ、解釈のしようがない。ここは編集責任もあるだろう。
おわりに: ここで読者は最終的に突き飛ばされる。混迷と分断の時代に、冷静に問題解決の判断を下す手がかりとなることが本書の目的であった、と著者は述べる。(最後にきて、目的ってそうだったの?世代認識のギャップ解明じゃなかったの??)。本書では、政治、リーダー論、教育論、少年犯罪と社会復帰、それぞれの社会分野での「誤解」の払拭を試みた。(どこで、どう試みたの?)。それぞれの分野に生じる世代による認識のずれ。その隔たりを少しでも埋め、不寛容の本質、すなわち構造を見通し、本書で繰り返し言及してきた社会の予見可能性改善の手がかりを提供することを目指した。(最初から、読者に丸投げのつもりだったんだ!)。そしてこう述べるに至る。つまるところ、新しい時代にふさわしい、新しい価値観が求められている。それが何かは筆者もよくわからない。(え~!!!わ・か・ら・な・い・ってのが結論なの???世代間のギャップ解明から、その価値観を探るのが目的じゃなかったの?ガマンしてここまで読んだのに!)。そして、ついにこう落とす。~それらを自明視することの困難さを確認したのが本書であった。(完全に、だまされた。困難さを克服するための試論じゃなかったんだ)。そして、こうダメ出しするのだ。「世代間対立」への問題の直視、本書の主張はそこにある。(その解明と解決を主張するんじゃなかったの?もういい加減にしてほしい!)。頻繁におさらいする割にはブレる「本書の目的」に何度となくはぐらかされ、最後には「難しくてわからないので、みんな問題を直視しなよ」といわんばかりの結論を突きつけられた読者はどう納得できようか。
著者の言いっぱなしエッセイごとくの駄本新書に出くわすことはある。読み進めるほどに意味不明でも、なんとか知識の披露を試み立て直しを図る著者の姿勢があるから、ムダな本はないとも言われよう。しかし、本書は違う。読者の追随努力が次々とポイ捨てされる。
読者をここまで陥れ、最後に「バカが見る~」ごとき結論は、これまでの新書経験で最悪レベルだ。くり返すが、もう一度、精読する覚悟でいる。日本を代表する国立大学の教員が、こんな粗悪な本を出すはずがなく、読み方によってはひそめた眉が元にもどる可能性もあると信じたいからだ。後日、レビューをあらためたい。




