以前から「不倫」という言い回しには違和感を抱いていた。「不倫」とは「倫理」の否定形であろう。では「倫理」とは何か。それは「道徳」とは似て非なるものであり、人間関係における善悪をベースとして形成される極めて広範かつ複雑な体系であろう。倫理の規範や根拠を問うことは哲学的な難問であり、世界中の哲学者たちが長い歴史をかけて議論しているものの未だに答えは出ていない。
しかるに「倫理」の否定形「不倫」となると、その範囲は極端に狭まってしまう。それは配偶者以外の異性と肉体関係を持つことであり、それ以上でもそれ以下でもない。倫理について研究する哲学者は多いが、不倫について研究する哲学者はほとんどいない。「倫理」という言葉は哲学の名著にも頻出する最重要単語の一つであるが、「不倫」という単語が最も多く登場するのは週刊誌やスポーツ新聞であろう。この落差は一体何なのか。なぜ男女関係における不義だけが不倫と呼ばれるのか。
こういう反論があるかも知れない。なるほど倫理に反する行為は世の中に山ほどある。しかしそれらの多くは「違法」という形で裁くことができる。罪に問い、刑罰に処すことができる。だが「不倫」は「違法」ではない。裁判所で有罪判決を下し、刑罰に処することはできない。それは法の網には引っかかることのない、極めて微妙かつ個人的な問題なのだ。だからこそ、すなわち法的には無罪だけれども倫理には反するという意味を込めて、「不倫」という言い回しが好んで用いられているのだ。
仮にそうだとしても、いやそうであればなおさら、「不倫」という言い回しには疑問が残る。配偶者というのは法的に契約を交わしたパートナーのことであろう。不倫というのはその契約を無視して、別の相手との感情を優先することであろう。だが倫理とは法ではすくい取れない感情を扱うものではないのか。契約上のパートナーよりも感情的なパートナーを優先することは、法的にはともかく倫理的には正しいのではないか。なぜそれを、それだけを、ことさらに「不倫」と呼ぶのか。
特に違和感を感じるのは、有名人の不倫が発覚したときのマスコミや一般人による苛烈な拒絶反応である。殺人犯に対してすらこれほどではあるまいと思われるくらい、それこそ鬼の首を獲ったような、あるいは親の仇といわんばかりの罵詈雑言には呆気にとられてしまう。
本書の著者は脳科学者だそうである。「不倫遺伝子」や「犯人は脳」などといった記述には白けてしまうが(何の説明にもなっていないと個人的には思う)、不倫を悪と決めつけることなく、むしろ必然的であるとする客観的な視点には好感が持てる。
また不倫そのものだけでなく不倫に対するバッシングのメカニズムにもメスを入れている点にも共感を覚える。恋愛感情に基づく不倫よりも、嫉妬感情に基づく不倫バッシングの方が個人的にははるかに醜く不愉快に思われる。不倫が正しいとまでは言わないが、性と愛を強引に結び付けている結婚という制度に対し、もう少し懐疑の目が向けられてもいいのではないだろうか(もっとも不可避的多数派を占める既婚者の口から、そのような主張が聞かれる可能性はほぼ絶望的に乏しいのであるが)。
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