まず最初に触れなきゃならない点としてこの作品の「ストレートさ」があるだろう。最初に言っておけばこの作品かなり明確に状況への、政治への批判的側面を隠す事無く打ち出しているんである。
構成から言えば1970年の大阪万博を巡って静かに進行するオトナ人間たちによる支配に対する少年たちの反抗を描いた前半と、新型ウイルスの大流行と巨大地震でボロボロになった「日本人の希望」として開催の準備が進められる近未来の万博を巡ってマイノリティたちが抵抗する姿を描いた後半に大きく分けられる。
言うまでもなく70年前後といえば万博に象徴される高度経済成長の時代であると同時に東大安田講堂の陥落に象徴される様な「若者たちの反乱」の時代であったし、この作品の主人公であるサドルやシトの「オトナ人間による洗脳への抵抗」は戦後となって民主主義こそが正義と高らかに謳われる中で「難しい事をやってるオトナに従順である事が正しい子供の在り方」という「教育」が求められていたという矛盾を象徴している様に思われる。
現代では「体制や権力に対する子供の抵抗」など冷笑主義者のメシのタネにしかならんけども、当時は作者である牧野修と同じ在阪SF作家たちが「大人の一方的な都合によって犠牲にされる子供たち」をネタに短編を書いていたりもする。例えて言えば小松左京の「闇の中の子供たち」だったり筒井康隆の「さなぎ」だったりするのだけれども、本作はその辺りの作品に大いに影響を受けた節が見え隠れしている(猪名川精神病院の「さなぎセンター」への類似性にも言えるが、何より「菅原伝授手習鑑」が作中に出てきたあたりに)
それでも前半は「大人たちへの抵抗」とその挫折という過去に数えるのも面倒なくらい語り尽くされた題材だけあって、味付けはちょっと変わっているが全体としては見慣れた作品の域を出ない。
本作を受け付けるか拒絶するかが大きく分かれるのは近未来の世界で開催の準備が進む「大阪万博」を巡るマイノリティたちの必死の抵抗を描いた後半の方じゃなかろうか?大阪を支配している政治勢力が「日本改造の会」という時点でたいていの読者は「うわ、また『どストレート』な……」とちょっとドン引いちゃうんじゃなかろうか?
メディアワークス文庫で刊行された「私の本気をあなたは馬鹿というかもね」もアメリカの植民地を70年間続けている日本という国家の在り方に対する相当にストレートな状況への批判だったけれども、東日本大震災やコロナウイルスといった「国難」を前にオリンピックや万博を開催すればまたあの高度経済成長の時代がやってくるのだ、という国民総出の「カーゴカルト体制」を真正面から批判しているんである。
「日本改造の会」が強引に推し進める大震災でボロボロになった都市を仮想現実で覆い尽くして開催される万博や、その一方で進むマイノリティアートへの弾圧などを通じて作者である牧野修が「反抗の挫折をほったらかしにして傷を舐めるだけいたらここまで来たんだぞ?」と胸倉掴んで詰め寄ってくる様な、そんな錯覚にすら襲われた。
いや、政治的主張は分かるんだよ、私どっちかと言えば「反抗者」や「マイノリティ」に肩入れする側だし。ただ、もうちょっと刀を鞘に収めろと「フィクション愛好家」としては言いたい。どうにもこうにもストレート過ぎるというか抜き身のドスを畳に突き立てて主張を捲し立てる相手と向き合っている様な余裕の無さが伝わってきて仕方が無い。ドスを突き付けられて相手の主張に耳を傾けられるほど一般人の精神力は強くないぞ、と。
人間を体制の「狗」に仕立て上げる時代の空気に抗おうとする人間の在り方を批判的な部分も込みで描くのは良いんだが……テーマをエンターテイメントに昇華してこそのプロ作家じゃなかろうか、そんな事を想わされた一冊。
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