ロラン・バルト 喪の日記 【新装版】 (日本語) 単行本 – 2015/12/11
ロラン・バルト
(著)
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本の長さ304ページ
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言語日本語
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出版社みすず書房
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発売日2015/12/11
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ISBN-104622079771
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ISBN-13978-4622079774
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
愛する母アンリエットの死から書き起こされた断章群。「この悲しみをエクリチュールに組みこむこと」バルトが遺した苦悩の刻跡にして懸命の物語。生誕100年。
著者について
ロラン・バルト
Roland Barthes
1915年生まれ。フランスの批評家・思想家。1953年に『零度のエクリチュール』を出版して以来、現代思想にかぎりない影響を与えつづけた。1975年に彼自身が分類した位相によれば、(1)サルトル、マルクス、ブレヒトの読解をつうじて生まれた演劇論、『現代社会の神話(ミトロジー)』(2)ソシュールの読解をつうじて生まれた『記号学の原理』『モードの体系』(3)ソレルス、クリテヴァ、デリダ、ラカンの読解をつうじて生まれた『S/Z』『サド、フーリエ、ロヨラ』『記号の国』(4)ニーチェの読解をつうじて生まれた『テクストの快楽』『彼自身によるロラン・バルト』などの著作がある。そして『恋愛のディスクール・断章』『明るい部屋』を出版したが、その直後、1980年2月25日に交通事故に遭い、3月26日に亡くなった。
Roland Barthes
1915年生まれ。フランスの批評家・思想家。1953年に『零度のエクリチュール』を出版して以来、現代思想にかぎりない影響を与えつづけた。1975年に彼自身が分類した位相によれば、(1)サルトル、マルクス、ブレヒトの読解をつうじて生まれた演劇論、『現代社会の神話(ミトロジー)』(2)ソシュールの読解をつうじて生まれた『記号学の原理』『モードの体系』(3)ソレルス、クリテヴァ、デリダ、ラカンの読解をつうじて生まれた『S/Z』『サド、フーリエ、ロヨラ』『記号の国』(4)ニーチェの読解をつうじて生まれた『テクストの快楽』『彼自身によるロラン・バルト』などの著作がある。そして『恋愛のディスクール・断章』『明るい部屋』を出版したが、その直後、1980年2月25日に交通事故に遭い、3月26日に亡くなった。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
バルト,ロラン
1915‐1980。フランスの批評家・思想家。1953年に『零度のエクリチュール』を出版して以来、現代思想にかぎりない影響を与えつづけた。1980年2月25日に交通事故に遭い、3月26日に亡くなった
石川/美子
1980年、京都大学文学部卒業。東京大学人文科学研究科博士課程を経て、1992年、パリ第7大学で博士号取得。フランス文学専攻。現在、明治学院大学文学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1915‐1980。フランスの批評家・思想家。1953年に『零度のエクリチュール』を出版して以来、現代思想にかぎりない影響を与えつづけた。1980年2月25日に交通事故に遭い、3月26日に亡くなった
石川/美子
1980年、京都大学文学部卒業。東京大学人文科学研究科博士課程を経て、1992年、パリ第7大学で博士号取得。フランス文学専攻。現在、明治学院大学文学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : みすず書房; 新装版 (2015/12/11)
- 発売日 : 2015/12/11
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 304ページ
- ISBN-10 : 4622079771
- ISBN-13 : 978-4622079774
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Amazon 売れ筋ランキング:
- 387,531位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- - 32位フランス文学(日記・書簡)
- - 525位フランス・オランダの思想
- - 1,497位西洋哲学入門
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年1月10日に日本でレビュー済み
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初めて読む少しの言葉がなぜか伝わります。意味ではなく、母を喪ったRolandさんが書かれたただそのことが、他でもない書くことの意味を教えてくださるかのようで、そう言うのも何だか烏滸がましいですね。ぐるぐる読んでいます。
役に立った
2010年5月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
バルトの遺品の中から出てきた、母の死に関するまとまった量のカードは、長い間未公開だったが、2009年にさまざまな議論の末、刊行された。その翻訳本。
かつて「恋愛のディスクール」を夢中になって、何度も繰り返し読んだ。その頃、恋愛をしていたから。今、この本を何度も読み返す。親しい人を失い、かつ、その人の死で深く苦しみ続けている人が身近にいるから。
明け方に目覚めては、かつて病に苦しんでいた母の「やっと夜が明けたのね」という言葉を思い出し、喪の悲しみを周囲の人間が推し量ろうとかるのを疎ましく思い、母の死後、初めてひとりで過ごす夜、初めての日曜日、そして菓子屋の店員の「ほらね」という一言で思い出す母の口癖。「帰ったよ」と言う相手のいなくなったこと、街路やカフェにいる人々が「死を前にした姿」でいるように見え、彼らが「そのことを知らない」ように見える感覚。母の好きだった音楽を思い出し、旅行に出ては、母のいない家に早く帰りたいと思ってしまう(母の日常の家事のやり方などをそのままに繰り返しているから)。
やがて少しずつ、また「書く」ことに戻って行くまでの心情が、時に生々しく、時にプルーストの母の死のイメージなどを絡めながら綴られる。
このあとに「明るい部屋」が書かれるわけだが、バルトの遺品には小説「新しい生」のメモもA4サイズの紙7枚残っているそう。早すぎる交通事故死が惜しまれる。
かつて「恋愛のディスクール」を夢中になって、何度も繰り返し読んだ。その頃、恋愛をしていたから。今、この本を何度も読み返す。親しい人を失い、かつ、その人の死で深く苦しみ続けている人が身近にいるから。
明け方に目覚めては、かつて病に苦しんでいた母の「やっと夜が明けたのね」という言葉を思い出し、喪の悲しみを周囲の人間が推し量ろうとかるのを疎ましく思い、母の死後、初めてひとりで過ごす夜、初めての日曜日、そして菓子屋の店員の「ほらね」という一言で思い出す母の口癖。「帰ったよ」と言う相手のいなくなったこと、街路やカフェにいる人々が「死を前にした姿」でいるように見え、彼らが「そのことを知らない」ように見える感覚。母の好きだった音楽を思い出し、旅行に出ては、母のいない家に早く帰りたいと思ってしまう(母の日常の家事のやり方などをそのままに繰り返しているから)。
やがて少しずつ、また「書く」ことに戻って行くまでの心情が、時に生々しく、時にプルーストの母の死のイメージなどを絡めながら綴られる。
このあとに「明るい部屋」が書かれるわけだが、バルトの遺品には小説「新しい生」のメモもA4サイズの紙7枚残っているそう。早すぎる交通事故死が惜しまれる。
VINEメンバー
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「悲しい」と表現したときに既にそれはすり抜けていっていってしまっている。あるいは「悲しい」という言葉のうちに固定されてしまう、押し込められてしまう。
絶対的喪失感。よく「絶対(あるいは絶対的なもの)」など存在しないと、(ちょっと偉そうな)人はいう。そうなのだろうか?
わたしは「絶対(あるいは絶対的なもの)」は存在するといいたい。それは例えば、「死」だ。「死」-失うこと。これは絶対的だ。失ったものは絶対に帰ってこない。我々は死後、天国(形而上学的な場)で再び出会うのではない。死とは無機物への回帰だ。バルトもそのことを身をもって感じていただろう。だから本書は、(生の)極限的な心苦しさに満ちている。ある時は何とか文章を繰り出し語ろうとし、またある時は言葉にできない(ならない)もどかしさ、いやただ悲しみのまばらな言葉の余白に漏れ出す。
バルトはこの「喪」を文学にはしたくないし、できるものではない。しかし、そうして書かれたものが「歴史的に」「書いた者の気持ちに関係なく」「遡及的に(?)」文学になる。この事実を身をもって知っているバルト……、だからなおのこと悲しい。
この著書を読んだ後にもう一度、『明るい部屋』を再読することは実に意義深いことであろう。だが決して「意味」深いことではない。
絶対的喪失感。よく「絶対(あるいは絶対的なもの)」など存在しないと、(ちょっと偉そうな)人はいう。そうなのだろうか?
わたしは「絶対(あるいは絶対的なもの)」は存在するといいたい。それは例えば、「死」だ。「死」-失うこと。これは絶対的だ。失ったものは絶対に帰ってこない。我々は死後、天国(形而上学的な場)で再び出会うのではない。死とは無機物への回帰だ。バルトもそのことを身をもって感じていただろう。だから本書は、(生の)極限的な心苦しさに満ちている。ある時は何とか文章を繰り出し語ろうとし、またある時は言葉にできない(ならない)もどかしさ、いやただ悲しみのまばらな言葉の余白に漏れ出す。
バルトはこの「喪」を文学にはしたくないし、できるものではない。しかし、そうして書かれたものが「歴史的に」「書いた者の気持ちに関係なく」「遡及的に(?)」文学になる。この事実を身をもって知っているバルト……、だからなおのこと悲しい。
この著書を読んだ後にもう一度、『明るい部屋』を再読することは実に意義深いことであろう。だが決して「意味」深いことではない。