改訂新版『ラマナ・マハルシの教え』が2019年7月に出版されています。
真理の核心に要点を絞った対話方式なので、非常に分かりやすく、大変勉強になりました。
瞑想と真我探究の違いを明確に理解しておく必要があると痛感しました。
瞑想では心を一時的に静めるだけで、カルマの心を消滅することはできないとマハルシは違いを話しています。
身体と心はカルマによって作られ、真我探究によって心が真我に溶けて去って消滅しても身体のカルマが有る間は身体活動は続いて行き、必要に応じてカルマ(プラーラブダ)によって心の機能がその都度生じるということでしょうか。
「呼吸制御の実習は、心に静かさを取り戻すための方法、すなわちマノニグラハであって、心を消滅させる方法、マノナーシャではない。」
「すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たねばならないと説いている。だから、すべての聖典の結論は、心を静かに保つべしということである。」
「心を静めるために、人はただ、自分自身の内に自己とは何かと問い続けるべきである。聖典を読むことによっては、この探究はできない。人は自分自身の智慧の目で、自身の自己を知らねばならない」
「無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。無欲とは、心がどのような対象物に向かうことも差し控えることである。智慧とは対象物が現れないことを意味している。別の言い方をすれば、自己以外の何ものも求めぬことが無執着、あるいは無欲であり、自己をけっして離れないことが智慧である。」
「プラーラブダ(カルマ)は、内に向かった心には関係せず、外に向かう心にのみ関係を持つ。」
「カルマがそれに依存している行為者は、エゴと呼ばれ、身体と自己の間に立ち現れる。そのエゴがその源に溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマだけがいきのびることはありえない。それゆえ「私」のないところにはカルマもない。」
「神の意志によらずしては何も起こらない。人がこの世で歩く道は、その人のプラーラブダ(過去の行い)によって決められている。」
「あなたが家住者の生活を続けようと、それを捨てて森に行こうと、あなたの心はあなたにつきまとっている。エゴが、その想いの源である。エゴは身体と世界を作り出し、あなたをしてグリハスタ(家住者)であると考えさせる。」
「心の障害物は常にそこにある。障害物は、新しい環境の中では勢いを増すことすらある。環境を変えることは、何の助けにもならない。唯一の障害物は心である。」
「二つのうち、一つのことはなされねばならない。一つは、自分の無力とそれを助けてくれるより高い力の必要性を悟って、自分自身をその前に投げ出すことである。もう一つは、悲惨の原因に入り込み、その源に入り込み、そこで自己に溶けることである。」
「平伏は、エゴの鎮静を意味する。そしてそれは源へ溶け込むことを意味する。神あるいはグルを、外面だけの跪拝やお辞儀や平伏によって欺くことはできない。彼は、エゴがそこにあるかないかを見る。」
「あなたの探究がどのような形をとろうと、究極的には、あなたは一者である私、自己に帰ってこなくてはならない。」
心が外に向かうと有身見のエゴによって作り上げた現象世界を認識する。
カルマ(因果法則)によって、生じて滅する現象世界は有身見の「個人の私・エゴ」が変えることはできない。
目覚めと夢見の現象世界で疲れた身体と心を休めるために、本来の自己と一つになる眠りがあるのでしょうか。
すべての宗教は外側の世界を変えるのではなくて、心が内側に向かうよう勧めているのは、カルマ・因果法則から逃れるための唯一の方法だからでしょう。
有身見のエゴによって創造された現象世界はカルマ・因果法則の束縛を受けて変えることはできないのですから、バクティ、明け渡しの「あるがまま」にする以外はあり得ないのですから。
自由意思は現象世界に存在する有身見「個人の私・エゴ」の自由意思なので、完全な錯覚です。
「仏祖不伝(ぶっそふでん)の妙道(みょうどう)を以(もっ)て胸間(きょうかん)に掛在(かざい)せずんば、則(すなわ)ち因果(いんが)を撥無(はつむ)し真風地(しんぷうち)に堕(お)つ」興禅大燈国師遺戒も同じです。
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