いろいろ老子の本を読んできたが、見えてこない部分が残っていた。今までの解説は輪廻転生など“あの世”のことをいっさい無視するため、観念的、哲学的な説明となってしまうからである。
ところが著者(雲黒斎氏)の「あの世に聞いたこの世のしくみ」「もっとあの世に聞いたこの世のしくみ」を読んで驚いた。ああ、これが無為自然だったのか・・・と。
あの世の話なので真偽の程は云々できないが、初めて納得のいく説明に出会えた。ようやく答えに巡り会えたようだ。
ただ本書は、「老子」の条文の解説となるので、なぜ雲黒斎氏がそのような解説をするのか、真意が伝わりにくくなっている懸念もある。
そこで日本に一番税金を納めている“日本一の商人”斎藤一人さんの言葉と、三橋貴明氏のマクロ経済的視点も交えながら、少しだけ本書と違った角度で老子の条文を見てみたい。
第1章 「道可道非常道 名可名非常名」
この条文の意味は文字通りで「群盲象を評す」ということでよいだろう。“名前は実体ではなく、あくまで状態を差し示す記号”でしかないからだ。
「無名天地之始」
雲黒斎氏の言うように、この世が神の創造したゲームだと例えると、自我(魂)というゲームキャラが出来たのが天地の始めとなる。自我は現在の言葉で例えると高度に進化したAIであり、自我もまた実体ではなく、“噴水の形”のような状態である。
「有名万物之母」
神のゲームフィールド、すなわち宇宙は、
コーザル世界 = 無色界(光の世界、非形状界、超潜在意識、次元を超越)
あの世 = アストラル世界 = 色界(音の世界、形状界、潜在意識、3次元以上)
この世 = 現実世界 = 欲界(重力の世界、物質界、表層意識、3次元)
の3層構造に識別されているが、境界線はない。重なり合っているとしか言いようがない。
仏教では、この世を「色」、あの世を「空」とも言っている。
さらにこの世は、天、阿修羅、人間、動物、幽霊(餓鬼)、地獄の六つの世界に分類されており、欲六界とも言われる。天界や地獄の世界は、この世に存在しているが、人間の目には見えない世界とされ(たまに幽霊の世界を見れる人はいますね)、またこの地球以外にも欲六界は存在していると言われているが詳細は不明である。そして我々の魂は、この六道を輪廻しているとされている。
エネルギーの根本は光(横波)と空間であり、その投影として形のある世界が存在している。形状界は非常に微細な粒子で構成されており、音(縦波)によって様々な形が瞬間に形成される。言葉(音としての)の世界ともイメージの世界とも言われる。
この音と形の関係はこの世でも疑似体験できる。
薄い板や厚紙の上に細かい砂を薄く敷いて、マントラを唱えると色々な模様が形成される現象や、水に色々な言葉をかけて結晶化させると、様々な結晶の形が生じる現象が有名である。
イメージの世界では「カレーを食べる」と言った瞬間にカレーが出現して、瞬間にカレーを食べることができる。だがもっとリアルに、現実に経験した方が神のゲームのプレーヤーの満足度が高いので、形状界の投影として、この現実の世界が存在している。
さて、ゲームのフィールドが完成すると、自我は、モノの「有る無し」と「自分と自分以外」を「識別」するようになった。“私”という分離意識を形成するため境界を作ったのである。
このように、もともとひとつのものを「言葉によって識別」していくことが、この“カルマの世界”で自我がおこなう仕事のようなもので、自我の根源の欲である。
また、我々がこの世を認識しているのは表層意識であり、表層意識は言葉(意味としての)の世界である。つまり我々の表層意識の世界では、名前のないものは存在しないとも言えるわけだ。
「常無欲 以觀其妙」
無欲とは“言葉で識別しようとしない”つまり“識別の原因となる境界を作ろうとしない”という意味で、「妙」とは例えると、まだ言葉のない赤ちゃんが見る世界である。
つまり我々自我は、輪廻転生で新しい肉体に宿る時に、言葉のない天地の始めの状態、すなわち神のゲームにおける最初の自我の誕生を疑似体験している。そして成長と共に、今生の肉体における表層意識の自我を形成していく。
「含徳之厚 比於赤子(第55章)」や「赤心来福」のように、赤ちゃんのときは、まだ自我が薄くタオに近いので、自信満々でいたんです。赤ちゃんの頃から「いや、オレってダメな人間だからね」なんてイジケていた人は1人もいないんですね(笑)。
無欲 = 神のゲームのルールに則って生きるという意味にもとれます。
「常有欲 以觀其徼」
前述のように我々の普段の思考(表層意識)は言葉によっている。というか、言葉によらない思考、例えばテレパシーなど潜在意識を直接使える人はほとんどいない。
よって我々は、常に識別することで(境界を作ることで)現実世界を認識している。そして言葉による思考は常に散漫して一定の所に留めておくのが難しい(「あの世〜P221」を参照)。これが現実の世界が渾沌としている理由でもある。
有欲 = 神のゲームのルールに則らないで生きる、という意味にとると、現在の世界が「徼」と言われるのもうなずけるのではないだろうか。
「此両者、同出而異名」
「妙と徼」は仏教の「空と色」の概念とほぼ同じと思われる。「色即是空、空即是色」 つまりこの世はあの世の投影であるということだ。
第2章「天下 皆知美之爲美 斯惡已 皆知善之爲善 斯不善已」
識別は美醜、善悪に限らず、上下、表裏、内外、増減、明暗、強弱、興亡、禍福、優劣、因果、苦楽、炎症と免疫、病気と健康、利点と欠点、成功と失敗、定常と変化、安定と混乱、繁栄と衰退、戦争と平和・・・と切りがないが、片方だけが独立して存在しているものはない。必ずひとつのセットになっており、どちらが“正しい”ということはない。
ところが自我は、識別した一方に価値を置いてしまう。例えば上下に識別して上がよくて下はダメだといったような意味付けを行っている。“解釈という幻想”の世界(徼の世界)である。
この意味付け(好み)の根本原因は“神の作ったゲームのプログラム”によるので、理由は存在しない。人それぞれである。そして六道の輪廻転生を繰り返して様々な経験を構成し、さらに色々な情報を集めて、その自我固有の観念を形成する。
神様はゲームを作る上で、「絶対自由、絶対歓喜、絶対幸福」という自分の性質とまったく正反対な性格を自我に与えた。よって「恐怖、不安、心配」などが自我の根本性質となる。
そのため自我は自分が不幸であると信じきっている。「自分は〜という境遇にないから」「自分は〜を手に入れることができないから」幸せでないんだと信じて、不幸な自分を演じ続けており、永遠に手に入らない「青い鳥」を求める旅を続けている。
また、求めたものは得られないし、得られても新たな足りないものが生まれ、どうも自分の仮説が間違っているのではと気付き始めるのだ。
さらに、これは美しいがあれは醜い、あれは正しいがこれは間違いだなどと自分の観念の中で生きているが、世の中、人の数だけ美しいものがあり、正しいことも人の数だけある。そしてそれらがぶつかり合う。
「世の争いに悪はない。すべては善と善のぶつかり合いなのだ。」
宗教戦争も“正しい”と言ってるから起こるんだよ。キリスト教が楽しいとか、イスラム教が楽しいとか言っていたら、じゃあ楽しいことが2つもあって良かったねということになって、ケンカにはなりません。
このように人は、100%自分が正しいと思うから譲れずに、お互いに争い苦しむのである。
「是以聖人 處無爲之事 行不言之教」
ではどうすべきか。「余計なことをしない」「余計なことを言わない」これが老子の解答である。
いきなりここで最終奥義が炸裂ですか? 老子様! あまりに短絡すぎて、背景がまったくわからず、何のことかさっぱりわかりませーん。という状態が数十年と続いた(笑)。
この無為自然の奥義が「あの世〜第11章」に詳述されているので、是非読んで下さいね。これを読めば、老子の「無為自然」の謎は解決です。よって以下の解説は蛇足になってしまいますが・・・
自我の誕生によってこの世が始まったことは前述したが、その自我(心、魂)の中には、実はワンネス、宇宙の神とまったく同じ「神」がいる。便宜上「神の分霊(わけみたま)」とも言っているが、両者に境界は存在しない。
つまりワンネスは一つであり同時に無数∞の存在でもあるのだ。また自我の中にいるようでもあり、溶液のように溶け込んで自我と一体化しているようでもある。
このように、ありとあらゆる生命の中に「神」がいると理解することを「アニミズム」と言う。宇宙人レプティリアンにも、地底人ドラゴニアンにも、ディープステイトの人にも、グローバリストの人にも、中国共産党の人にも、日本を破壊している在日さん系のマスコミや政治家の人にも、あなたを苦しめている人の中にも、皆神が存在している。あなたと暮らしているペットの中にももちろん神は存在している。
そして自分の心の中にも「神」がいる。どんなにつらい時でも、自分は常に神と一体であったし、そしてこれからもそうなのである。
つまり無為自然とは、「幸せとは外に求めるものではなく、“もともと幸せな存在”だったと思い出すこと」なんですね。本当にそう確信できるのは解脱した時でしょうが。
さて、この世は神の創造したゲームであり、そのゲームのキャッチコピーは「この世は苦しみ」である。言い換えると、神のゲームにはルール(制約、制限)があるということだ。
「余計なことをしない」とは、変えれないものを変えようとしないということであり、変えれないものとは、神のゲームのルールとも言える。
上流から下流に流れる水を逆流させようとしても、それは無理である。それができないことで苦しむことは実はナンセンスであり、水は下流に流れることを前提にして対策を立てるのがルールに則った生き方である。これが無為自然だ。
もっとも、雲黒斎氏が言うように「ルールがあるからゲームは楽しい」のであって、それに気付けば、このルールがケシカランと、ゲームを苦しんでプレーするのが、とんでもない見当違いであることがわかる。
これは例えると、どうしてサッカーでは手を使ってはダメなんだ!と審判に恨みつらみを述べながら、不満が高じて怒ったり、悩み苦しんでサッカーのゲームをするようなものだ。
もちろん、それもその人の人生なので、多いに苦しんでいただければ結構なのだが、どんなにあなたが悩み、苦しみ、祈っても、神のルールを変更することは不可能だ。
手を使えないようにしたからこそ、あれだけの足技が発達し洗練されたように、制限があるからこそ魂はより成長できるのです。ならばルールに従って楽しくサッカーゲームをした方が断然お徳ですよね、という話が無為自然ということだ。
お釈迦様の述べた「四苦八苦」、別名「諸行無常」も神のゲームのルールの一つだ。この世の現象は常に変化し、終わりがやってくる、ということを“繰り返す”のである。
次のルールであるが、自分自身の問題に関しては、「人は自分にしかなれないんです。他人になることはできません。そのままの自分で楽しく生きることが無為自然なのです」
他人との関係においては、「他人を変えることはできません。他人を変えようとしてはいけません。自分ができることを考えるのです。自分が変われるのなら自分が変わるんです。それが無理な場合は避けて離れましょう。」
「何者かになろうとする余計なことをしない」「他人を変えようとする余計なことはしない」 一人一人の魂(自我)の修行のために、この世があるからですね。
あなたがヒマワリだとして、ヒマワリよりバラが好きな人もいるでしょう。でもヒマワリがその人のためにバラになろうとしたり、その人がヒマワリを好きになるように仕向けなくてもいいのです。その人がヒマワリを嫌いでも困ることはありません。
他人との関わりに関係なく、ヒマワリはヒマワリとして幸せだと気付くことが無為自然であり、ヒマワリとして楽しく生きようとすることが忍耐であり、向上心である。
「神のゲーム」にはもう一つ、「自分の今の現実は、すべて過去の自分の言葉(想い、行為)が作りだしている」という非常にシンプルなルールがある。別名「カルマの法則」とも言う。
ここから雲黒斎氏は、夢や希望は追い求めては逃げてしまう。引き寄せるんだ。と述べている。
具体的には、外側の現象、つまり自分の境遇とはいっさい関係なく、幸せだなと声に出せば幸せが、ありがたいなと言えばありがたいことが、ツイてると言えばツイてることが自分に引き寄せられて来る。
そして「しあわせになりたい」と追い求めるのは、今の「自分はしあわせでない」と言っていることなので、しあわせでない現実がやって来る。
よいことを引き寄せるには、思っただけでは効果は少ないので、言葉に出すことが必要だ。言葉がアストラル世界(あの世)を変えて、アストラル世界の投影であるこの世が変わるのが「言霊の理論」だからだ。
よって自分の世界を変えたければ言葉を変えればいい。最初は心が思っていなくてもいいので、とにかく言葉を変えてみることだ。
だが一回二回じゃダメだよ。あの世を変えるには、無意識でその言葉が出るようになるまで、その言葉を言い続ける必要があり、継続的に言葉が変わってはじめてこの世も変わる。
さらに、ギターを上手に弾けるようになるには、いかにマントラのように「私は上手にギターが弾ける」と何万回唱えても、実際に弾かないと弾けるようにはならない。つまりこの世では行動が必要であり、行動を起こすためのアクセルが「欲」なんですね。
言霊は「波動の法則」とも「引き寄せの法則」とも呼ばれるが、波動の法則からは、人は我慢したり、苦しんだり、苦労しない方がいい。いずれもマイナスの波動で、自分の振動数を下げ、マイナスの現象を引き寄せるからだ。苦労の先には苦労しかないのである。
世間では「苦労して功徳を積んで、それが果報として返って来たら幸せになる」とか「幸せが続くと徳が消耗して不幸になる」という幸福論も一般的だが、これは因果応報の解釈を間違っている。「おカネを貯めたらお金持ちになり、おカネを浪費したら貧乏になる」という現象から類推して、しあわせを誤解してしまったのだろう。
ただし「忍耐」は、自分がどんな時も「愛と光」の側に留まれるようにする努力なので、プラスの波動である。出来る範囲でどんどんやりましょう。忍耐はブレーキですね。
過去も未来も頭の中にしか存在しない。実在する世界は、どんなときも今しかないのである。よって幸せになるのは今しかない。今幸せになろうとしなければ、永遠に幸せになれない。
そしてそのために必要なことはたった一つ、「幸せだ」って言えばいいのである。
いいことがあったから、幸せになるんじゃないんです。「幸せだなあ」って言っているから、いいことがやって来るんです。手を握ったまま開くことが出来ないように、「幸せだ」と言っている人のところには不幸なことはやって来れないのです。
これはラジオの喩えでも説明される。NHKを受信したければ、ラジオの方でNHKの波動(周波数)にあわせなければ、どんなに願ってもどんなに受信料を支払っても永遠にNHKを受信することはできない。
幸せの周波数にあわせるために必要なことはただ一つ。「幸せだ」って言うことである。
この言霊を利用した無為自然になるテクニックの一つとして、“〜れば、〜たら”をやめ、想いをかなえることのできないダメな「自分を許します」と何度も口に出して言う方法がある。それでも自分が許せなければ「自分を許せない自分を許します」と唱えることだ。
自分を許せないと、今の自分のままで“幸せだと言う”ことが難しくなる。自分を許せれば、今の自分のままでよかったんだーァ!という心の叫びが生じ、幸せだと口に出して言うことができるようになる。
自分を許せれば、自分を好きになり自分を大事にするようになる。
自分を許せる人は、他人を許すことができる。
自分を褒めれる人は、他人を褒めることができる。
しかし言葉を変えることは、実際にトライしていただければわかると思われるが、相当に難しい。自我は自分が幸せでない理由を一生懸命探して邪魔をするからだ。
こんなことで幸せだと言えるのか?!と怒ったり、最後には「どうか幸せにならないでくれ」と貧乏神のように泣きを入れてくる。
そこでまずは「余計なことを言わない」ことだと老子は言っている。
無理に我慢、努力、苦しんで「自分を許します」とか「幸せだ」と言うよりも、「自分は不幸だ」と文句を言わない方が簡単だ。
他人に関しても、日常会話では、法律違反や明かに異常なことは別として、「そうだね、わかるよ」と言うことだ。「いやそれは違う」などと言って自分の意見を押し付けるのは止めた方がいい。
悪口などの「地獄言葉」を言わないのは当然として、“正しくても”それが人を傷つける言葉なら止めた方がいい。言った本人に自覚がなく、すっかり忘れてしまったとしても、言われた方は一生覚えているからね。
そして自然と「天国言葉」が出てくるようになれば、波動が変わり、あなたのまわりの現象が変わってくる。繰り返すが、思っただけではダメで言葉に出すことが必要だ。
「萬物作焉 而不辭」
言葉を変えて世界は変わった。幸せにもなった。でもこの世では、昨日とほとんど変わらない今日が続いていく。
解脱したわけでもないので、自我も今まで通り存在し、自我の本性である「恐れ」も健在だ。「もともと問題なんて存在していなかったんだ」と悟っても、やはり現実の目の前にはちゃんと問題が待っている。
腹は減るし、仕事にはいかなくてはならない。給料が上がるわけでも、借金の返済が免除されるわけでもない。病気がたちどころに治るわけでもない。「思うようにならないこの世を経験する」神のゲームのプレイ中であることには変わりないので、これまで通り、未来は自分の都合に関係なく勝手にやって来る。
確かに、魂が成長して本当に幸せになってしまった人には、例え自分が殺されようとも、何が生じようが幸せである。だが、そのような境地はまだまだ先の話である。魂の成長途中の我々は、いちいち起きたことに左右されて不機嫌になるのではなく、「ありがとうございます」と、感謝の気持ちと笑顔で、すべてを受け入れる。その上で対策を考えて行動することだ。
「生而不有」
いいアイデアが出たとき、自分が考え出したと思う人もいるけど、もともとこの宇宙に存在していたものを見つけただけ。だからうまく行ったことは、ひとりじめしないで皆に教えるんだよ。
神様は出したら減るようなもの(例えばおカネなど)は出せなんて言わないんだよ。まずは与えても無くならないもの、例えば笑顔とか、天国言葉とか、親切とか、そういうものを出し惜しみしないことですね。
「爲而不恃」
まずは目の前にある問題に対処するの。問題というより、解決することで魂が向上する階段だと思えばいい。
神様はあなたを苦しめようとすることなどありません。それでも苦労ばかりしているとしたら、それは「やり方(仮説、考え方)が間違っているから苦しいんだよ」と神様があなたにと教えてくれているのです。
だから苦しむことは止めて、やり方を変えるのです。改善、改良というのは自分が変わることだからね。
そしてやってみてダメだったらすぐ改良する。それでもダメだったらまた改良する。よくなるまで改良するの。ハズレ馬券を握ってずっと待っていても、アタリ馬券には変わらないんだよ。
「功成而不居 夫唯不居 是以不去」
うまくいったら皆様のおかげさまですと言うんです。
そして過去の成功に満足して留まらず、常に目の前にある一つ上を目指すので成功が去ることがないんです。
第3章「不尚賢 使民不爭」
特別なことができる人もいれば、できない人もいます。できないというのも才能の一つですし、欠点は使い道のわからない才能という言葉もあります。
自分が短所だと思っていても、性格や個性、才能は、必要があって神が与えてくれたものだから、実は長所なのです。直そうとしても直せません。そのままでいいんです。
例えば、怒りっぽい性格だったら、その性格を直すんではなく、それを人に向けないようにすればいいということです。
努力してもできないこと、自分にないものは、自分にはいらないものです。すべての人が100mを10秒で走る必要はありません。
そして自分のできることはやってあげて、自分のできないことはお願いしてやってもらい、ありがとうがこだまするようになれば、争うこともなくなります。
「不貴難得之貨 使民不爲盜」
老子様はマクロ経済もよくご存知だったようで、現在の日本で言うと「デフレ不況の時に、政府が増税 & 緊縮財政をとると国民は貧しくなる」ということを述べた条文だ。
デフレとは需要が不足して、モノ(やサービス)が余ってしまい物価が下がっていく経済現象で、インフレとは生産不足で、モノが足りなくなり物価が上昇していく経済現象である。
景気がいい(好景気)というのは、モノがよく売れるということで、流通するおカネがどんどん増えるが、モノ不足が背景にあるので、インフレとなる。
逆に景気が悪い(不景気、不況)というのは、モノが売れない、その結果流通するおカネがどんどん減り、所得が減って失業が増えるということで、これには2種類ある。
モノが余っていて売れない場合をデフレ不況と呼び、インフレが加熱して物価が上昇しすぎて売れなくなる場合は、インフレ不況(景気後退)と呼んでいる。
インフレ不況の場合も物価は次第に下がっていくが、これはデフレとは言わないので注意してほしい。なぜならインフレ不況の場合、需要は存在しているので、適正な価格まで物価が下がれば再びモノが売れるようになり、景気は回復するからだ。
しかしデフレ不況の場合は需要不足なので、価格が下がってもモノが売れるようにはならない。
デフレとなる理由の一つは平和だからである。冷戦が終了し、世界中でモノ余りが生じてきた。特に影響が大きかったのが人件費の安いチャイナから大量の安価なモノが輸入されるようになったことである。
日頃見かける多くの商品がメイドインチャイナであることは皆さん御存知だろう。アメリカ製品であるはずのアイフォンですら冥土陰チャイナである。安価なチャイナ製品が市場に大量に溢れ、日本製品が売れないのである。
そして日本がデフレに突入したもうひとつの要因が、平成のスタートと重なったバブル崩壊である。先行き不安から多くの国民は借金の返済や貯金におカネをまわし、モノやサービスの購入におカネを使わなくなったのである。
国民経済においては、我々の所得は ≡ 我々が生産したモノやサービス(商品)を ≡ 誰かが消費してくれなければ発生しない(GDP三面等価の原則)。例えば蕎麦屋さんだったら、おカネを払ってお蕎麦を食べにきてくれる人がいないと、お蕎麦屋さんの所得は発生しないということだ。
よって需要(消費)が減少すると我々の所得が減少する。所得が減った → 消費をさらに減らす → ますます所得が減って失業も増える。この負のスパイラルがデフレであり、国民はどんどん貧しくなったのだ。
とどめを刺したのが1997年、橋本内閣による消費増税である。現在、政府は消費に対して10%の罰金を課すことで、国民に対して消費をするなと命令している。よって消費税は、消費をさらに減少させるので、デフレ期には国民を貧しくさせる最悪の税金となる。
景気のよい時は、皆がおカネを使うので、皆のところにおカネが行き渡る。不景気になると皆がおカネを使わないので、おカネの流れる量が減って、おカネが巡って来なくなる。しかしおカネがなくなったわけではないので、“おカネがある人”のところにはあるんですね。
このように民間がおカネを使わないデフレ不況の場合は、政府がおカネを使って、流れるおカネの量を増やさないと国民の所得を回復させることができない。
さて「得難きの貨」であるが、確かに大判小判の金貨の場合は、政府がすべての金鉱山を押さえていたとしても、そう簡単におカネを発行することはできない。
しかし管理通貨制の現在、おカネは“得難き”どころか、キーボード入力で簡単に発行できる。
政府が新規に日本円を発行したければ、政府の国債と引き換えに日銀が日銀当座預金を発行するだけである(money creation、信用創造)。本当にコンピューターの中の数字なので、キーボードで入力すれば作業終了ですね。
政府は日銀が発行した“日本円”を借りて、公共事業など政府事業の支払いをしているのであって、国民のおカネを借りているわけではないことにも注意して下さいね。
また日銀は政府の子会社であるので、実際は日本政府が日本円を発行しているのと同じことである。親会社の政府が、子会社の日銀に対する借金を返済する必要はないからだ。
さらに現在の日本国には外国からの借金(ドルなど外貨で借りた借金)がないどころか、世界で一番おカネを貸している国となっている。
繰り返すが、おカネはデータであり、紙幣や硬貨、コンピューターの中に書かれている数字である。なので政府がおカネを発行するのに物理的な制限はない。つまり「おカネは限りなくある」ということだ。
限りがあるのは、つまり“得難い”のはおカネではなく、そのおカネで購入できる「モノやサービスを生産する能力」である。この生産能力が低い国を発展途上国と呼ぶ。
よって生産能力の高い先進国におけるデフレ不況の場合は、政府支出に生産が追いつかなくなってインフレが発生するまで、政府はおカネをどんどん発行して、そのおカネを公共事業などでどんどん使って、市場に流れるおカネを増やし、国民に所得を与えることができるのである。
ところが、「“返す必要のない”借金で破綻する」と大ウソをついて、政府は国民のためにおカネを使おうとしない。さらに増税や控除削減などを繰り返して国民の所得を奪い続けた。
結果日本のGDPも平成30年間まったく増えておらず、国民一人当たりのGDP(所得)も世界第2位から26位まで後退し、今の日本はシンガポールや香港よりも貧乏で、令和3年の現在、間もなく韓国より貧しくなる状況となった。
そしてH30年に「万引き家族」がカンヌ国際映画祭で受賞作となったのである。
以上が、“政府が(本当は得難きではない)貨を貴んで、十分におカネを使おうとしないので、国民は盗みをしなくてはならなくなるほど貧しくなる”というお話でした。
ここからは個人に関するおカネの話となるが、今までの政府の話とは180°反対の説明となるので注意して欲しい。つまり個人にとっては、今も昔もおカネは“得難きの貨”だからだ。
「経済」とは「政府の政策」であり、おカネを発行できる“政府の借金”は返す必要もなく、返さなくても誰も困らないが、普通の人がおカネを発行したら偽札容疑で逮捕されますからね(笑)。
普通の人の借金は必ず返済が必要だ。なので借金をして「もし返せなくなったら」という不安、恐れの波動が出ると、それが不幸を引き寄せてしまう。よって不動産などの確実な担保があれば別だが、借金せずに今あるおカネでやりくりして幸せになるんだよ。
“金は天下の回りもの”とも言うけれども、あんたの所にはたいして回ってこないからね。だから入ってくる以上に使っちゃダメだよ。盗んだり騙したり悪いことをして儲けても続かないからね。
おカネの悪口を言ってもダメだよ。「世の中おカネがすべてではない」これが一番のおカネの悪口だ。
もちろんおカネで買えないもの、おカネよりも大切なものはたくさんある。おカネより愛が大切なんだと思うときは愛をとればいい。
でももし迷うんだとしたら、おカネを選んだほうが、結局それでよかったとなることが多い。なぜなら、心の問題は考え方でどうにでもなるが、おカネの問題だけは、おカネがないと解決できないからですね。
おカネというのはストレスや苦しみの対価ではないよ。人様に与えた喜びに対する神様のご褒美だからね。多くの人に感謝されたからおカネが集まってくるんだ。
億を越える大金は天が与えるもの。だから、あなたはどれだけ多くの人に、どれだけ大きな喜びを与えることができるか考えてごらん。また今あるおカネを皆の幸せのために活かせることができるのか考えてごらん。つまり大きなおカネの流れを呼び込めるかどうかは、あなたがビジネスを起こせるかどうかということだ。
それが難しければ、今あるおカネでやりくりして幸せになるんだよ。サラリーマンの99.99%は自分の所得では“大金持ち”にはなれないからね。
かといって株や先物などの投機で儲けたり、グローバリストのような“ぼったくりシステム”を作って、他人の利益を奪って儲けた場合、その分必ず誰かが損をしているからね。あなたが損をしたなら、あなたのおカネは誰かのところに行っている。
博打と同じなんだ。素人が儲けられるような甘い世界は、この世の中、どこにもないよ。
最後に、入ってくる額がどれほど大きくても、全部使ったら、お金持ちにはなれません。おカネを貯めるということは、収入より少なく使って残りが貯まるという話以外にはないんです。
収入の1割を残すところから始めれば、大金持ちは無理でも、誰でもお金持ちにはなれるからね。
「不見可欲 使民心不亂」
相手を自分の欲するように変えようとすると、様々な「乱」(ストレス)がお互いの心に発生します。教えることはできても、相手を変えることはできません。
斎藤一人さんは、「自分の人生は自分で選んだ」ことを思いだせば、自分の責任なので自分が変わればいいことをすんなりと受け入れられる。ところが人や社会のせいにすると「何で俺が変わる必要があるんだ」となり、相手が変わるまで待つか、相手を変えようとするので大変なことになると述べている。
「虚其心 實其腹 弱其志 強其骨」
“大切なことは足りないモノを追い求めることより、いらないモノを捨てること(第48章「為道日損 損之又損 以至於無為」)”であることは十分理解したつもりでも、心が寂しいと、余計なモノが貯まりストレスで食べて体重も増えます。
しかしモノが貯まっても心の寂しさは解消されず、「断捨離」しようとしてもモノ依存症は治りません。
「虚其心」は“豊かだ”と言いなさいということです。豊かだと言えば豊かなことが自分に返ってきて心が豊かになります。
もう一つ、まずは自分を幸せにすることは当然だが、他人の幸せを願って行動するようになると、自分の心もより豊かになります。
心が豊かになるとだんだん欲しいものがなくなり、心は「虚」になって本来の自分に近づきます。余計なモノは減っておカネも貯まります。
ごはんをおいしく食べれて、腹一杯になってしあわせ、という段階を卒業できるほど心が豊かになった魂には、もう空腹は必要なくなるんだね。自然と不食になるんだよ。
そうなると理想の体重が維持され、気が腹(丹田)に満ちて元気になります。これが「實其腹」ということだ。
「志」は自我の煩悩であり「強其骨」は自分のバックボーンに立ち返ること、すなわち神様と約束してきた本来の自分を取り戻して、それを強くしなさいということだ。根性、ガッツだね。
「常使民 無知無欲」
正しいことをしようと努力したり、自分以外の誰かになろうとする演技や不自然な努力はやめましょう。人は自分にしかなれないんです。
だから余計なことを考えず、自分に与えられたこと、自分のできることをやりましょう。
与えられた役が道を歩く通行人だったら、その役を一生懸命演じる。負ける役だったら、みごとに負けることだ。主役になろうとしても楽しくないよ。
自分の人生においては全員が主役だからね。でも他人の人生においては、あなたは脇役であることも忘れないように。
「使夫知者 不敢爲也」
知者とは現代ではマスコミ、テレビである。シオンの議定書にも「テレビを見るとバカになる」と書いてある。特に現在のテレビは強力な洗脳マシーンとなっている。
我々一般大衆は、スポーツ、スクリーン、セックス、芸能、グルメ情報のみを与えられ、お花畑思考にそまって平和ボケし、ものを考えられない家畜のようになってしまった。令和2年から始まった八百長のインチキコロナ騒動を見ても、庶民は完全に洗脳されていることが分かりますね。
そして日教組、学術会議を含めて、マスコミ&テレビを自由にのさばらせてきた結果、グローバリスト、在日さん、中国共産党の狩り場に日本がなってしまった。もちろん、いい悪いの話ではありませんよ。
第5章「天地不仁 以萬物爲芻狗 聖人不仁 以百姓爲芻狗」
この世に生きていると、いろいろ困ったことが起こります。「どうして私だけがこんなに苦しまなければならないのか」と考えることもあるでしょう。
他人と比較して“世の中不公平だ”と嘆いても意味がありません。魂の成長のための課題は人それぞれ違うので、不公平に見えるのはむしろ当然でしょう。
でも神様はその人がクリアできる課題しか出しません。
今生で無理な課題は、もっと魂が成熟してからやってきます。つまりどんなに人生最悪と思われるようなことでも、今のあなたにちょうどいいことが起こるんです。
問題の発生はチャンスの到来でもあります。だから「本当にこの問題で困っているのか」と考えるのです。そして「私は本当は困ってなんかいない、何とかなる」と思えたら、心配や不安、恐れというマイナスの波動が消えるので、必ずうまく行きます。
第7章「天長地久 以其不自生」
この世でやるべきことは何ですかというと、もちろん「働いて所得を稼ぐ」ことなのだが、同時に楽しいこと、興味のあることだよ。楽しいことをしているので、天地のごとく長く続けられるんだね。
世間体や一般常識に惑わされた自我の理屈から生まれたものなら長続きはしない。
不自然なことをやめればいいんだよ。そうしたら、神様と約束した今生の自分の生き方が見えてくる。
そのままの自分が一番楽なんだよ。今生やるべきことに必要な能力や才能はすべて備わっている。適材適所という言葉があるように、本人にとっては「当たり前にできること」だからね。
努力がいらないという意味ではないよ。でも楽しいことをやっているから自然とスキルアップして実力もついてくるんです。
第8章「上善若水」
水は、岩があって押しても動かなければすぐにそこを避けて流れる。水は方円の器に従う。水はどんなときも自分が避けるか自分が変わる。どんどん変わって変わって、最もよろしくなるように自分が変わる。だから争うことがない。
ストレスは病気の大きな原因だが、ストレスとは“嫌なこと”だよ。嫌なことは、避けれるのなら避ける。避けれないなら嫌だと言うんだよ。嫌なことに耐えても、その先には嫌なことしかやってこない。
あんたならできると言われても、100mを10秒で走ることは無理です。その場合はいさぎよく自分が立ち去ることだね。
第9章「持而盈之 不如其已」24章「企者不立」
男が女であろうとすれば大変な努力が必要だが、男が男であるための努力はいらない。すでに男だからですね。
つまり、不自然であり続けることは大変な努力が必要だが、自然であるための努力はいりません。
もちろん不自然な状態が必要なときは頑張って不自然なことをするんだよ。ただ長く続けるのは無理だね。
「富貴而驕 自遺其咎」
偉くなって金持ちになったら威張る人がいるの。威張ったらダメだよ。皆から嫌われるからね。
運もおカネもみんな人が運んでくるんだよ。だから人に嫌われたら運もおカネも逃げていくよ。
「功遂身退 天之道」
自分ひとりの力、努力で勝ち取った成功だなんて思ったら大間違いで、この世に存在する“成功の道理”を利用しただけの話で、あなただけの手柄ではないんだよ。
この世に当たり前なんてないんだよ。今何も考えずに食べているお米だって、あなたの口にはいるまでにどれだけ多くの人の手間がかかっているのか。たとえおカネがあっても、生産から流通、そして道路、港湾、建築物、機械、自動車、石油、電気、ガス、他にも様々な過去に投資された社会のインフラ、どれが欠けてもお米を食べることはできないんだよ。
それがわかったら、水道の蛇口を捻るだけで飲料水が出てくる日本、おカネを払うだけでお米が食べられるこの幸せな日本の現実に、とにかく感謝の言葉しか出てこない。おカネはその感謝の気持ちとして払うんだよ。
そしてこの共同体の助け合いの一員として、自分ができる仕事をして所得を稼ぐ意義もよく理解できるだろう。
現在の日本に生活している国民同士が感謝して助け合うのが横のナショナリズム(国民経済)。今の日本を作ってくれた先祖に感謝して、子孫によりよい日本を残そうとするのが縦のナショナリズム(国民の歴史)と言われている。
鈴木宣弘氏が述べた「今だけ、カネだけ、自分だけ」とは、横のナショナリズムがない人が“自分だけ”、縦のナショナリズムがない人が“今だけ”、そして人と人とのつながりを喪失してアノミーやニヒリズムに陥った人が“カネだけ”ということである。
もちろん各論では“嫌いな人は嫌いだ!”で結構です。無理に好きになる必要などありません。分かり合おうとする無駄な努力は止めましょう。そういう人なんだと思えばいいのです。
第18章「大道廃 有仁義」
常にその裏を考えなさいということだ。仁義が重んじられる社会はすでにタオが廃れている。
同じように「天下乱れて平和あり」だ。よって平和でありたければ戦争を徹底的に学び、いつでも戦える準備と覚悟が必要とになる。「平和が極まりて戦争となる」ことを避けるため、常在戦場の立場を取るわけだ。
また、平和と安全との区別をしっかり理解することも必要だ。
例えば家畜の生活は平和そのものだが、屠殺が待っているので、まったく安全ではない。
第20章「絶学無憂」
勉強したらダメだということではない。学生なら徹底的に学んで詰め込むんだよ。
「学」というのは芸能ゴシップなど、生きて行く上であまり役にたたない知識、もしくは固定観念のような意味で、前述したように、マスコミであり、テレビであり、教育だ。
「人之所畏 不可不畏」
この世に善悪などないんだ! とは言っても法律には従うんだよ。自分がそう思っても、他人はそうは思っていないからね。
郷に入っては郷に従うんだよ。何をしてもいいというわけじゃないんだよ。
(人を殺せとか、他人のモノを盗めとかいうような、おかしな法律は除きます。)
第30章「其亊好還」
もの事は必ず因果として“還る”。カルマの法則だ。だから武力による覇権は、因果により荊棘が生え凶年が還ってくる。
ちなみに因果応報は罪に対する罰ではない。カルマの法則も六道輪廻の地獄も、魂の成長のためにある。よって、自業自得という言葉は自分に使うもので、あなたが復讐したり“恨みに報いる”ことは止めましょう。天の神様におまかせすればOKです。
ここで殺生を見てみよう。(魂は心臓に宿っているので、心臓のない生物、例えば地球や植物や細菌などは、今回の考察からは除外します。)
我々の魂は、殺されたにせよ寿命が来たにせよ、今生の肉体を離れた後は、六道のどこかに生まれ変わって、また新たな肉体に宿る。また過去に何度も六道輪廻を繰り返し、何度も登っては落ちてを繰り返し、落ちなくなるのがいつの日か不明であるのが実情だ。よって今人間でも、また動物に生まれる可能性の方がはるかに高い。
また魂の輪廻転生とは言っても、意識の3層構造でみると、超潜在意識と潜在意識は輪廻転生で引き継ぐが、今生の肉体に形成された表層意識、つまり今のあなた(自我)にとっては、あくまで1回限り人生であり、肉体を失えばおしまいである。今のあなたがそのまま来世に転生するのではない。
よって自我は解脱していない限り、自分と自分の肉体を同一視しており(有身謬見)、肉体を失うこと、すなわち死に対する恐怖は皆さん自身がよく御存知だろう。それは殺される動物も同じである。
もちろん、過去世の自我のデータはアカシック・レコードとも呼ばれるデータバンクに蓄積され、無くなることはない。雲黒斎氏も、あの世にはお前がたくさんいると述べている。多重人格者を想像すればわかりやすいかもしれない。
だが通常は、解脱して潜在意識を直接使えるようにならない限り、作者が雲黒斎とつながったような、今生のあなたが、過去世のあなたとつながることはないのである。
令和2年、「鬼滅の刃」というアニメが大ヒットしたが、このアニメの世界の鬼は人間を食べないと生きていけないので人間を殺して食べる。だがこれは魚を食べないと生きていけないイルカが魚を食べることとまったく同じ、神のゲームおける自然の行為だ。魚にとって、イルカに食べられて死ぬ確率は、人間が事故や病気で死ぬ確率よりもはるかに小さい。
もし鬼が人間を殺して食べるのがダメならば、人間が動物を殺して食べるのは、もっとダメな行為となるはずだ。なぜなら我々人間は、動物を殺して食べなくても生きていけるのに、殺して食べる。ちなみに食べなくても殺す。家畜や動物は我々に殺されるために生まれてきた、などと言っている輩もいる。
現在の日本においては、少子高齢化で年間の出生数が90万人を切る中で、年間40万人以上が堕胎で殺されている。
犬猫は保健所で殺され、牛、豚、羊、鶏などは何億頭と屠殺されている。その他にも熊、鹿、イノシシ、たぬき、イルカ、クジラ・・・、魚や虫などは数えきれない。動物実験でも多くの動物が殺されている。
このような人間の殺生は、神のゲームのルールにおいてはどうなのだろう。お釈迦様が戒律の中に不殺生を入れたことから考えても、神様は「それはやり方が間違ってますよ」と言い続けているのではないだろうか。結果、人間社会に何か困ったことが生じているのではないか。
人間は鬼に殺されたくないので「鬼殺隊」を結成し鬼退治をする。同じように人間は、豚や牛や鳥など、殺される動物から生まれた“人殺隊”によって成敗されていないだろうか。
その“柱”の一つが「疫病」であろう。疫病はすべて人間が動物を屠殺する場所(生物研究所を含む)から発生している。天然痘、ペスト、コレラ、赤痢、梅毒、結核、インフルエンザ、エイズ・・・様々な“型”が存在している。
令和2年のインチキコロナ騒動において、日本人の感染者、死者数が桁違いに少ないのは、諸外国に比べ、日本人の殺生の量が少ないからなのだろうか?
第36章「將欲奪之 必固与之」
この宇宙には無限の富と無限のエネルギーで満ちあふれており、与えても与えても無くなることなどない。だから為政者は自分の心を豊かにして、まず与えることである。
平均賃金が10万円の国民から10万円の税金を奪うことはできない。でも国民を豊かにして平均賃金が100万円となったら、10万円の税金を奪うことは難しいことではなくなる。
ただし注意点は、与えることを他人に強制してはならないし、また他人から強制されてすることでもない。
グローバリストはこの点をよく理解しているので、自分たちが自動的に不労所得を得られる構造、仕組み、システムをつくることに専念している。例えば税金の取り立てを、縄で縛って強制するのではなく、源泉徴収のような仕組みを作ってしまうようなものだ。
「魚不可脱於淵」
相手の計略いかんによらず、自分の守備範囲から出ないことだ。戦うなら自分の土俵で叩き、逃げる相手は追わない。カルマの法則を考えても、世の中おいしい話は存在しない。
第50章「以其無死地」
まさに“無敵”の人ですね。無敵とは誰にも負けないということではなく、敵がいないということだ。殺生をしていない人は、殺されるカルマがないとも言える。
ただ今生で殺生がなくても、過去世に殺生のカルマがあるかもしれないので、その際はありがとうと“笑顔”で受け入れることだ。
いずれにせよ人は寿命が来るまで死ぬことはない。そして死んだときがその人の寿命だったと理解すればいい。
第76章「兵強則不勝」
ナポレオンもヒトラーも大日本帝国陸海軍もすべてこれですね。
軍隊の本来の目的は国民の安全。これを忘れた者の末路を歴史の教訓としましょう。
「木強則折」
固いものは、自ら変わることができない。だから自分より固くて強いものとぶつかったら、折れてしまう。
固いから折れるとも言えるし、折るためには固くすればいいとも言える。柳のようにしなるものを折ることはできないからだ。
泳げる人が溺れるのであって、泳げない人は川や海に入らないので溺れることはない。
第78章「天下莫柔弱於水 而攻堅強者 莫之能勝 以其無以易之」
どんなに強いものでも、堅強なものは今ある以上の強度に変化することはできない。でも水は水のまま、どこまでも変化していけるので、エネルギーを蓄えるにも運ぶにも制限がない。
この世で一番固いダイヤモンドは最も柔らかい水で(ジェット水流で)カットする。
普段はどんな時も自分が変わって丸く治める水が、その気になったらどうなるか。洪水や津波のパワーを見てほしい。
第80章「小国寡民」
この世が魂の修業の場であるならば、どんな時代のどんな境遇に生まれたとしても、その場所その境遇こそが、その人にとっての理想郷である。よってこの章は、老子の時代の多くの魂の修業課題を教えてくれる。
無為自然とは、ご不満だらけかもしれない今のあなたの生活そのものが、実はあなたにとって最も理想の環境だったと悟ることでもある。そうすれば「失敗などはない、すべては成功である」ことに気付き、「善悪などない。どんなことが起ころうとも、すべては自我の成長のために必要があって生じている」ことに気付くことができる。
ちなみに「隣国相望〜不相往来」は、ここまでやるかというぐらい徹底した反グローバリズムですね(笑)。
そして今の日本に生まれた魂は、主に「おカネ」と「人間関係」の修行に来たのだと斎藤一人さんは述べている。
“行動”のこの世では、人は必ず誰かのお役に立つことをして、その証としておカネをいただかないと生活できないようになっている。それが仕事なんですね。この世の宝は「今日も元気で働けること」とも言われる
専業主婦は夫の稼ぎの半分が自分の所得です。今失業中の方は、仕事を探すのが仕事ですし、仕事ができない方も、生きていること自体があなたの役目、すなわち仕事ですからね。
そして人生の多くの時間を仕事に費やすのだからこそ、本当は趣味が第一でも「私は仕事が一番好きです」と言って下さい。そう言っていると、どうしたら仕事を楽しくできるか考えるようになり、勉強して、楽しく仕事ができるようになります。
怠けて“楽”することじゃないからね。仕事の達人、プロ中のプロになることだ。
この世では「富 = 仕事(労働) ≒ 所得」であり、私たち人間の魂の修業の基本は仕事をする(働く)ことなのですね。
老子の条文はいろいろな解釈が可能ですが、本書が“スピリチュアル老子”の決定版です。
「これでいいのだ」
Kindle 端末は必要ありません。無料 Kindle アプリのいずれかをダウンロードすると、スマートフォン、タブレットPCで Kindle 本をお読みいただけます。
無料アプリを入手するには、Eメールアドレスを入力してください。
