要約:嘘とも真実とも言えない言葉たちを通して、「真実」を見いだせたと思い込む人々が大量にいる事の証左を、そうした嘘とも真実とも言えない物語作りで生涯をかけたフロイトの物語。その構造が精神分析での事例と共にフロイド全集などから読みとれる。この思い付き話をかってに真実と思い込む人々がおり、かつ彼らは大きな感銘をそこで受けてしまうと言う事態に感心してしまう。そうした好奇心は歴史家(とりわけ古代史の)の好奇心に重なるのかも。
まとめて言えば、事実として確証できない状況を物語で信じ込もうとする人々とその物語作りを支援する精神分析系思索の物語だと言える。事実として確証できない対象を、最初から、確証できもしないという事を前面に出してしまうと、最初から何一つ進まないし、思索を続ける意欲さえ失われるので、何かが事実を「思い出すことを妨害している」と言う話から始める。そうすることで、その「妨害している対象」を見出す事への意欲を低減させないようにする。そしてその「妨害力」を動かしているものの影から見えたものがあると、そこで見えたものがいつの間にか「事実である」かのごとくに信じてしまう人間たちが出てくる。彼らはもともと、そうしたものの影から見えた対象が事実である確証がないことさえ忘れてしまう。
以下、詳細。
まず、この書物では「神経症」と言う言葉が何度も出てくるが、この言葉が出てきているとしても、それが特定の神経回路と関係があることを見いだされたわけでもない。精神分析系医療では、病気か病気でないかの閾値(しきいち)がない。悩みがありますと言えば、精神分析的医療が始まるのだ。言い換えれば、悩みがあると患者側が考える事、これが「精神分析的医療における神経症」だと言う事を理解して読む必要がある。
フロイトが「精神分析」でやっていた「精神」問題の構造が、それまでは個人の思い出しがたい過去を、ある意味、思い出させることで患者の心理的満足感を与えるという心理的活動であったのだが、それをもっと広い範囲で行った書物だと理解できた。
もともと、人は自分の過去のある時代のことを思い出すことがうまくできない。フロイドは、その構造は、うまく思い出すことができないような心理的力が働き、その防衛反応によって、人は思い出す事ができないのだと主張する。それだけを聞くと、その防衛的心理力がどこでどのように働くのかがはっきり分からないだけで終わる。
しかし、なぜか、フロイドの精神分析学が大きく影響を与え、強烈に支持する人が現れるのです。
支持する人たちの一部は、実際に、フロイドの説明に従い、自分の中に隠されてきた過去の物語を発見した人たちです。その「発見」がなぜそれほど強烈ものであったのかと言えば、その「記憶」が自分自身では決しては「発見」できないほど隠されてきたものだと理解できたからです。「決してはそれまでの自分では発見できなかった」と思えたものが「確かに発見できた」という事の「興奮」は並大抵ではありません。だから、彼らは強烈にフロイドの精神分析を支持できたとも言えます。
あるいは自分でもうすうす気づいていたかもしれないが、自分だけでは明示的に認める事ができなかった「記憶」だとも言えます。
また、同時にこの「精神分析」「医療行為」によって得られる収益の大きさで潤う医療関係者の大きな支持を受けるのです。
また当該の分析によって得られる経済的・心理的利益は患者本人だけだとは言えません。むしろ、彼ら患者の周辺にいて、彼らの精神分析医療の医療費を支えている人間たちにとっては非常に有益な場合が多いのです。
そして結果的に言えば、精神分析によって精神分析医と患者によって得られた「記憶」の物語は、「事実」であるかのように受け取られても、当面、患者の周辺では、経済的心理的に「有益」な物語になっているとも言えます。
しかし、考えてみれば分かることですが、患者が抱えていたと言う悩みを惹き起こしていた事態が、この分析・物語で解決されたとしても、この物語が本当に事実であると言う「証拠」にもなっていません。その物語が事実であるという証拠などないままなのです。「証拠」がないから「精神分析」は他の人によって批判されずに信じ込める物語として存在するのです。
そういう事態を考えてみれば分かることだが、フロイド自身多くの患者と共に行った精神新分析によって得られた「物語」がかなり事実に近いとフロイド自身が思い込めたものもあったかもしれないが、かなり外れて頓珍漢な精神分析行為があったことは知っていたはずです。
更に言えば、フロイド自身、「かなり外れて頓珍漢な精神分析行為があったと思えた記憶」は思い出したくもなかったはずであり「そんな記憶は存在しない」とでも思いたい心理的な力が働いていたはずだとも言えます。言い換えれば、知っていても、知らないふりをする精神的な構造、「無意識」と言う言葉の使用はそういう状況で自分を守るための心理的構造、そのものがフロイドの中でも動いているのだとも言えます。
それがこの書物「モーゼと一神教」で、彼が告白したことの一つです。同時に更に、自分のある意味、虚偽的活動を認めると同時に、そのような虚偽的な行為は個々の人だけではなく、宗教集団でも見られるということを彼は述べる。
だが同時に、こうした構造、つまり自分の集団を自分の虚偽的とも言える思いで圧迫して、自分自身が騙されていたと言う状況から潜り抜けることによって見出す「真実」は、もともと根拠のない作り出された物語だという事でもある。それにもかかわらず、こうした、確証できることのできない物語に感銘を受ける人々が、いるという事に感心してしまう。
嘘とも真実とも言えない言葉たちを通して、「真実」を見いだせたと思い込む人々が大量にいる事の証左を、そうした嘘とも真実とも言えない物語作りで生涯をかけたフロイトの物語。その構造が精神分析での事例と共にフロイド全集などから読みとれるにもかかわらず、この思い付き話をかってに真実と思い込む人々が感銘を受けてしまうと言う事態に感心してしまう。そうした好奇心は歴史家(とりわけ古代史の)の好奇心に重なるのかも。
まとめて言えば、事実として確証できない状況を物語で信じ込もうとする思索の物語だと言える。事実として確証できない対象を、最初から、確証できもしないという事を前面に出してしまうと、最初から何一つ進まないし、思索を続ける意欲さえ失われるので、何かが事実を「思い出すことを妨害している」と言う話から始める。そうすることで、その「妨害している対象」を見出す事への意欲を低減させないようにする。そしてその「妨害力」を動かしているものの影から見えたものがあると、そこで見えたものがいつの間にか「事実である」かのごとくに信じてしまう人間たちが出てくる。彼らはもともと、そうしたものの影から見えた対象が事実である確証がないことさえ忘れてしまう。
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