歴史ドキュメンタリーとして一級の作品。再読にたえるものさえ昨今では稀なのに、
この本だけは購入以来、最低10回は読み返し、そのためページがバラバラになって、
新規に注文しなければならなかったほどである。ただ、これからお読みになる方々に
一言ご注意したいのは、本書が、決して暗殺事件そのものの謎を探求する目的で
書かれたものではない点にある。それを踏まえないと、特にその点に関する曖昧な
記述に物足りないものを覚えてしまうだろう。例えば、本当に「黒幕」は存在しな
かったのか、それに関連して、スタントンがブースの日記の主要部分を「握りつぶ
した」のはなぜか、など、リンカーン暗殺フリークがこの150年近く、繰り返し蒸し
返してきた論議を、賢明にも筆者は巧みに避けて通っている。そうした手垢のついた
揣摩憶測を差し置いても、ブースが暗殺計画を立てたのは本当に当日か、共犯者の
裁判で、被告の法廷での証言は許されなかったにしても、自白調書はなかったのか
(特に、もしヘロルドが、逃亡行の一部始終を残らず自供していれば―現在の裁判
感覚では当然と思えるが―、逃亡を幇助したジョーンズが「逃げ切れた」はずがな
い)、などなど。筆者は、これらの、ドキュメンタリーの核心にかかわる部分さえも、
随所で故意にぼかし、逃げていると言われても仕方がない。したがって、事件の謎を
とことん追求したい向きには、それなりに別書をあたることをお勧めする。むしろ、
本書のテーマはあくまで、狙撃犯ブースの、犯行から死までに演じた生々しい人間劇と、
事件の背景をなす、当時のアメリカの荒々しい風潮を今に再現することにある。
ブースとその一味、「被害者」のリンカーン、暗殺当日から逃亡の全工程で、彼らと
さまざまな形で関わりあった多くの人々。もう彼らが死に絶えて優に一世紀を閲する
のに、本書はその肉声を、150年の時を超え、21世紀の現在も今なお跳梁するレイシ
ズムの宿痾とともに生々しく甦らせてくれる。その意味で、ブースの狂おしい熱狂は
時代を超え、現代の問題でもある。まさに筆者が巻末に言うとおり、現在なお、彼の
悪霊はアメリカのみならず、全世界の至る所に出没しているのだから。ちなみに蛇足
ながら、本書で1888年以来消息不明とされているボストン・コーベット軍曹(ブースを
撃った男)は、1894年9月1日のミネソタ州ヒンクリーの大火で焼死を遂げたことが、
ほぼ確実となっている。
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