3回しか会ったことがなく、非日常的な時間と形而上学的な会話しか共有していない相手に対して恋愛感情を抱き続けるという物語にハイカルチャーの味付けをした少女漫画的小説。珠玉の大人の恋愛小説というふれこみだが、恋愛というのは年齢にかかわらず自己陶酔と共同幻想の産物である。主人公の男女は既に四十路でありながらその年齢にふさわしい深みや複雑性に欠けており、中身はむしろ中2のよう。
(以下ネタバレあります)とくに“天才”ギタリストの蒔野。天賦の才能という強い光は濃い影をともなうものだが、彼の虚ろな内面からはその影は見えない。本人は悩んだり舞い上がったり忙しいが、周囲にいる人間の苦悩や葛藤に驚くほど無頓着で、女性を「自慢できる女かどうか」という即物的な基準でしか見ていない。そういう意味で洋子という女は有名人の血をひいており、美しく知的でどこか謎めいたところもあり、申し分のないハイスペックだった。
しかし、この洋子という人物がどうかしているんじゃないかというほど酷い。しまいには彼女の魅力のなさをあらゆる角度から書くのがこの小説の隠れた目的なのではないかと思えてきた。洋子から蒔野を奪った早苗の観点から見ると洋子はいつも清く正しく美しく、その「光に照らされると、彼女は酷く焦って、決まって本当の自分よりも悪く振る舞ってしまう」。彼女の前に出ると魔女に呪いをかけられて醜い蛙に変えられてしまうのだ。
洋子はヨーロッパとアメリカで教育を受け、西洋絵画や音楽への造詣が深く、英語やフランス語を自由自在に操り、ドイツ語で詩を朗読し、聖書の一説をすらすらと引用してみせたりするインテリで、金融業の偽善に憤り、移民に同情し、戦争の複雑な背景に理解を寄せるリベラルな人物だが、彼女自身もおそらくは気付いていないであろう選民意識がダダ漏れ。それが隙あらば「人を問いただす」という断罪癖にあらわれている。初対面の蒔野に対して、酒の場での話に「あれは嘘ですよね」といわんばかりに突っ込む。金融工学を専門とする夫がサブプライムローンに理論的裏付けをするような研究をしていると知った彼女は「あなたは、それでいいの?」と問い詰める。蒔野から洋子を遠ざけるために卑劣な手段をとった早苗の告白に対しては「それで、…あなたは今、幸せなの?」と迫る。ほっといてくれ、という話である。
そんな洋子を前にして、早苗は「正しく生きることがわたしの目的じゃないんです」と訴え、リチャードの不倫相手のヘレンは皮肉をこめて「あなたって、美しい人なのね」と言い放つ。そして彼女のことを「冷たい」と言って去って行った夫のリチャードも言う。「僕は君が正しいことをしているから、・・・君のために尽くしたんじゃない」。このあたりの緊張感あるやりとりが、クライマックスにあたる「すれ違い」の場面よりもずっと印象に残った。
実際、この小説の唯一の救いは洋子に正面から挑んだ三谷早苗という「ヒール」役だ。わたしは自分の人生の主役ではなく夫(となる人)の人生の名脇役になりたい、という名台詞を吐いてその通りの人生を歩んだ彼女に助演女優賞をあげたい。
内容紹介
天才ギタリストの蒔野(38)と通信社記者の洋子(40)。
深く愛し合いながら一緒になることが許されない二人が、再び巡り逢う日はやってくるのか――。
出会った瞬間から強く惹かれ合った蒔野と洋子。しかし、洋子には婚約者がいた。
スランプに陥りもがく蒔野。人知れず体の不調に苦しむ洋子。
やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまうが……。
芥川賞作家が描く、恋の仕方を忘れた大人たちに贈る恋愛小説。
※単行本版より一部の内容を改定しています。
深く愛し合いながら一緒になることが許されない二人が、再び巡り逢う日はやってくるのか――。
出会った瞬間から強く惹かれ合った蒔野と洋子。しかし、洋子には婚約者がいた。
スランプに陥りもがく蒔野。人知れず体の不調に苦しむ洋子。
やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまうが……。
芥川賞作家が描く、恋の仕方を忘れた大人たちに贈る恋愛小説。
※単行本版より一部の内容を改定しています。
内容(「BOOK」データベースより)
天才クラシックギタリスト・蒔野聡史と、国際ジャーナリスト・小峰洋子。四十代という“人生の暗い森”を前に出会った二人の切なすぎる恋の行方を軸に、芸術と生活、父と娘、グローバリズム、生と死などのテーマが重層的に描かれる。いつまでも作品世界に浸っていたいと思わずにはいられないロングセラー恋愛小説を文庫化!