小さなカメラ屋を営む主人公トニーには別れた妻と娘がいるが日常的には質素で孤独な暮らしを送っている。
学生時代の恋人ベロニカの母の遺産(といっても500ポンドであったが)の通知がきっかけとなり、若い頃の思い出が蘇ってくる(過去を思い出させることがこの通知を送った意図であろう)。
ベロニカの母は他に日記をトニーに贈るつもりでいたがベロニカによってトニーの手元には届かなかった。
日記はかつての友人エイドリアン・フィンのものであったがベロニカからは手放さないとの返答。日記に固執するトニー。
若き日の記憶と向き合い、元妻に語るトニー。
ベロニカとの出会い。ベロニカの手にはライカが。
詩人志望だったトニー、ベロニカの家族らと食事をするが些か気まずい雰囲気。そんな中で彼女の母のサラに魅力を感じたトニー、サラの態度も妙に優しかった。
その夜、自慰にふけるトニー。誰を思い浮かべていたのか。ベロニカかそれともサラだったのか。
哲学的思考をするエイドリアン。級友のドブソンの死についても哲学的議論の材料にしてしまう。
ベロニカはトニーを誘惑しながら肝心なところで拒絶して翻弄する。サラの「ベロニカの好きにさせては駄目」という趣旨の謎の言葉がよぎる。
卒業後、エイドリアンは大学でベロニカに接近し親しくなる。だが彼は自殺してしまった。
かつての友人らの言葉と自身の記憶に齟齬が出てくる。ベロニカとエイドリアンを結び付けたのはトニーであった。過去と現在が混濁したような意識に捉われるトニー。
ベロニカと再会するがエイドリアンの日記は燃やしたと語り去ってゆく。
ベロニカとエイドリアンの交際を一度は認めようとするも出来ずベロニカを激情のままに責め立てる内容の手紙を送っていたトニー。その手紙をベロニカから返され、過去の行為を悔いるトニー。
ベロニカと一緒にいた男の名はエイドリアン。確かに彼の面影があった。ベロニカと彼の息子なのか。
事実は違ったエイドリアンはベロニカの弟、産んだのはサラであった。友人が死を選んだ理由が明らかになる。
原作はイギリスのポストモダン派のジュリアン・バーンズによる現代英文学作品。
恋愛、生と死を哲学的に描きながら人の心の弱さを描いている。また記憶が長い年月で物語に変遷するということも言いたかったのであろう。ノスタルジアという感傷が記憶を物語に書き換えてしまうこともあるのだと。
(俺自身、つい先日およそ40年ぶりに学生時代の知人とネット上での会話をしたが記憶の風化を感じてしまった)
元妻に語る形式の若き日の思い出。BGMは最小限で淡々と進むストーリー。現在と過去の交錯スタイルは割とオーソドックスで変にひねらない演出である。
観る者の精神を不安定にするような物語に対するかのように撮影は精神の集中・安定を図るパースを意識した構図が多用されている。
シャーロット・ランプリング主演の「さざなみ」を強く意識した作品に感じた。
サラが誰かに似ているように感じたが映画「卒業」のミセス・ロビンソンのイメージに被っていたからだった。
因みにベリンダ役のシャーロット・ランプリングの姉の名はサラ。自殺している。
余談だが、場違いなまでに大仰なタイトルのレビューを見かけ不覚にも笑ってしまった。