ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第8巻〉瞑想と悟りの分析2(ヴィパッサナー瞑想編) (日本語) 単行本 – 2013/9/25
アルボムッレ・スマナサーラ
(著)
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本の長さ182ページ
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言語日本語
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出版社サンガ
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発売日2013/9/25
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ISBN-104905425565
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ISBN-13978-4905425564
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
「瞑想の分析」の後半となる第八巻では、十種類の観智など、ヴィパッサナー瞑想の階梯を詳細に解説。悟りの世界の実相が、今、明らかになる!
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
スマナサーラ,アルボムッレ
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)大長老。1945年スリランカ生まれ。13歳で出家得度。スリランカの国立大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、1980年に派遣されて来日。現在は、日本テーラワーダ仏教協会などで初期仏教の伝道、ヴィパッサナー実践の指導に従事
藤本/晃
1962年2月生まれ。1985年3月、学習院大学哲学科卒業。1987年3月、龍谷大学修士課程(仏教学)修了。1993年6月、カナダ・カルガリー大学修士課程(宗教学)修了。2002年7月、広島大学より博士号(文学)授与。山口県下松市・浄土真宗誓教寺住職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)大長老。1945年スリランカ生まれ。13歳で出家得度。スリランカの国立大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、1980年に派遣されて来日。現在は、日本テーラワーダ仏教協会などで初期仏教の伝道、ヴィパッサナー実践の指導に従事
藤本/晃
1962年2月生まれ。1985年3月、学習院大学哲学科卒業。1987年3月、龍谷大学修士課程(仏教学)修了。1993年6月、カナダ・カルガリー大学修士課程(宗教学)修了。2002年7月、広島大学より博士号(文学)授与。山口県下松市・浄土真宗誓教寺住職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
登録情報
- 出版社 : サンガ (2013/9/25)
- 発売日 : 2013/9/25
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 182ページ
- ISBN-10 : 4905425565
- ISBN-13 : 978-4905425564
- Amazon 売れ筋ランキング: - 437,766位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
5つ星のうち4.1
星5つ中の4.1
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年11月4日に日本でレビュー済み
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Amazonで購入
わたしにとっては、大変重要なことがストレートに表現されている本です。その重要性を、人にどのように説明することができるのかというと、中々焦点が定まりません。この本を読み終わって、また1巻から読み返してみたくなりましたから、結局はまだわたしの理解も中途半端なのだろうと思います。ただ、この本は難解だというわけでは決してありません。だから、理解するために何度も読まなくてはならないというわではないと思っています。また、わたしにとっては一つの知識体系を伝える本というわけでもなく、別に内容を憶えようと思って読んでいるわけでもないのです。それでもわたしがこの本を繰り返し読みたくなるのは、一つのアート作品を前にしてずっとそこに佇んでいるのと同じような気持ちからです。何かを感じるんだけれど、その何かに心の焦点を合わせるためにずっと時間をつかっているというようなことです。そして、そのことが重要だと思うのは、心の焦点が合ってきた時に感じる途方もない何かのためです。もっと焦点を合わせて、言葉にしていくべきものがあるような気がします。そのためにできるのは、ヴィパサナー瞑想の実践ということに尽きるのでしょう。
10人のお客様がこれが役に立ったと考えています
役に立った
2014年9月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本で入手できる書籍(他国の電子版含めて)の中で一番わかりやすく、正しく学べる書籍かと思います。
日本語で学べる状況に感謝します。。著者ならびに、どの程度売れるかわからない本シリーズの出版をされている出版社のサンガに敬意を表します。
少しでも興味のある方は、購入をおすすめいたします。(シリーズ全て一気に買うと本棚の肥やしになる可能性も否めませんので、気になる巻を一冊買ってみるのでもよいかと思います。もちろん、一巻からが推奨ではありますが・・・そもそも、アビダンマ、アビダンマサンガハって何・・という所は一巻で説明されています)
(シリーズ各巻に同じコメントを残しております。)
日本語で学べる状況に感謝します。。著者ならびに、どの程度売れるかわからない本シリーズの出版をされている出版社のサンガに敬意を表します。
少しでも興味のある方は、購入をおすすめいたします。(シリーズ全て一気に買うと本棚の肥やしになる可能性も否めませんので、気になる巻を一冊買ってみるのでもよいかと思います。もちろん、一巻からが推奨ではありますが・・・そもそも、アビダンマ、アビダンマサンガハって何・・という所は一巻で説明されています)
(シリーズ各巻に同じコメントを残しております。)
2013年10月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
第1巻から8巻までやっと読み終わりました。たらたらと5ヶ月くらいかかりました。
最近・・・
友人に、「一緒にいると穏やかな気持ちになれる」と言われました。
それは、仏法に触れて多少なりとも理解することによって
私の心が少し清浄されたのかと思います。
荒れ狂う心を少し制御できるようになったようです。
瞑想を実践している方は是非読んでもらいたいです。
瞑想が進むと思います。
同時に仏法僧に対する畏敬の念が強くなりました。
決して悟るという段階ではありません。
しかし、揺ぎ無い何か心の強さを感じます。
今まで、ネット上でいろいろ「悟り」や仏教に対して検索したり
「疑」がありました。
でも今はそういった検索はしなくなりました。
また、瞑想についての疑問も少なくなります。
最近・・・
友人に、「一緒にいると穏やかな気持ちになれる」と言われました。
それは、仏法に触れて多少なりとも理解することによって
私の心が少し清浄されたのかと思います。
荒れ狂う心を少し制御できるようになったようです。
瞑想を実践している方は是非読んでもらいたいです。
瞑想が進むと思います。
同時に仏法僧に対する畏敬の念が強くなりました。
決して悟るという段階ではありません。
しかし、揺ぎ無い何か心の強さを感じます。
今まで、ネット上でいろいろ「悟り」や仏教に対して検索したり
「疑」がありました。
でも今はそういった検索はしなくなりました。
また、瞑想についての疑問も少なくなります。
2013年11月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、スマナサーラ長老と藤本師のアビダンマ講義シリーズ第八巻である。
当シリーズは、理論(1−6巻)、そして実践としてサマタ瞑想(7巻)、ヴィパッサナー瞑想(8巻)で終始した。
読み方は人それぞれであるが、
第八巻である本書が初期仏教の実践の核となるものであるが故、
本書だけ読んで『実践』しても人生に大きな変革を及ぼすことはまちがない。
そして、1巻から6巻までの理論をその実践による体験と融合すれば、
これはもう人生が全く違ったものにとらえられるようになる。
大切なのは読むことだけではなく、
その読んだ知識を論理で理解し、
かつ体験として理解することである。
本書は体験を実践するための説明が丁寧に記されているため、
初心者でもわかりやすく体験実践のための知識を得ることができるだろう。
得たならばそれを実践すれば、
必ず自己変革が起こることは間違いない。
そうなったならば、お金や名誉を追求し競争しつづける世俗社会を今までとは違う視点から観ることが可能となるはずである。
シリーズ一押しの本である。
当シリーズは、理論(1−6巻)、そして実践としてサマタ瞑想(7巻)、ヴィパッサナー瞑想(8巻)で終始した。
読み方は人それぞれであるが、
第八巻である本書が初期仏教の実践の核となるものであるが故、
本書だけ読んで『実践』しても人生に大きな変革を及ぼすことはまちがない。
そして、1巻から6巻までの理論をその実践による体験と融合すれば、
これはもう人生が全く違ったものにとらえられるようになる。
大切なのは読むことだけではなく、
その読んだ知識を論理で理解し、
かつ体験として理解することである。
本書は体験を実践するための説明が丁寧に記されているため、
初心者でもわかりやすく体験実践のための知識を得ることができるだろう。
得たならばそれを実践すれば、
必ず自己変革が起こることは間違いない。
そうなったならば、お金や名誉を追求し競争しつづける世俗社会を今までとは違う視点から観ることが可能となるはずである。
シリーズ一押しの本である。
2018年4月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
このシリーズ本のサマタ編もヴィッパサナー編も、方法論がそもそも原始仏教からずれ内容となっています。
実は、現在、日本で説法したり、この本を書かれているスマナサーラ学僧(スリランカ僧)のテーラーワーダ仏教は「清浄道論」を教えの核にしてしまっています。この点については、既に日本の在家の方々も気づき始めています。
仏滅後、約900年後、パーリ語が得意なブッダゴーサという学僧が、自身十分瞑想実践にて智慧を磨くことなく、「知識的な見解」(これは邪見になります)で「清浄道論」を著しました。本シリーズー瞑想編の本は、この学僧ブッダゴーサの「清浄道論」をベースにした内容となっています。それを要約したような内容でした。
ブッダが亡くなり、その900年くらい後に書かれたその「清浄道論」自体も、実は学僧ブッダゴーサのさらに少し前にいた学僧が書いた「無碍道論」をベースにして書かれたものです。このように学僧さんたちは、ご自分のオリジナリティを出そうとして、編集・加筆して、言わば「論文」を作り書いてきています。
このように学僧さんたちは、論文を著してきていますが、原始仏教がどんどん変質していってしますのです。書籍は記録として残ります。後代の人々は、一体どれが本当のブッダの教えなのか、益々混乱していくでしょう。大変懸念しております。
僕はスマナサーラ学僧の講演会にも何度か参加してましたが、マナサーラ学僧ご自身が「私は論文を書くのが得意だ」、と自負してご自身が会場で発言されています。
また、一般的にスリランカ僧たちは、ミャンマーやタイの僧に比べたらあまり瞑想実践を積んできていません。戦後、スリランカ政府は、スリランカの僧侶たちが瞑想をほとんどしないので、ミヤンマー政府に頼んで、ミヤンマー僧がスリランカに出向いて、瞑想方法や瞑想道場の作り方を指導したりしたのです。
私も以前、3か国を回りましたが、ミャンマーやタイの僧侶や在家が寺院などで瞑想しているのをあちこちで見かけましたが、スリランカ(2回訪問)の寺院などで瞑想している僧侶や在家はほとんど見ませんでした。これには本当に驚きました。近年になって瞑想センターなるものができ始めているようです。
瞑想方法は、この本の方法よりも、中部経典の第10番「念処経」や同経典第118「出入息観」などなど、中部経典に書かれている様々な瞑想方法の方が、原始仏教に近い内容です。残念ながら、本書はブッダの説明から、明らかにずれていると思います。
現在、パーリ語「中部経典」は、2社から日本語訳が出版されています。私は、瞑想方法は、今は、すべて「中部経典」をベースに長く実践してきています。絶対、「中部経典」をおすすめします。
日本およびアジアの仏教実践者や仏教学者には、テーラワーダ仏教の教えが「ブッダからブッダゴーサへ」と変質してきてしまっていると揶揄している人たちも多く、真の仏陀の教えを求めるようアドバイスしています。
この点は、私たちもよく自己責任で見極めていく必要があります。「カーマーカ経」を是非一度読んでみてください。ネットで、カーマーカ経で検索すれば、いくつか訳が出てきますので是非ご参照ください。
実は、現在、日本で説法したり、この本を書かれているスマナサーラ学僧(スリランカ僧)のテーラーワーダ仏教は「清浄道論」を教えの核にしてしまっています。この点については、既に日本の在家の方々も気づき始めています。
仏滅後、約900年後、パーリ語が得意なブッダゴーサという学僧が、自身十分瞑想実践にて智慧を磨くことなく、「知識的な見解」(これは邪見になります)で「清浄道論」を著しました。本シリーズー瞑想編の本は、この学僧ブッダゴーサの「清浄道論」をベースにした内容となっています。それを要約したような内容でした。
ブッダが亡くなり、その900年くらい後に書かれたその「清浄道論」自体も、実は学僧ブッダゴーサのさらに少し前にいた学僧が書いた「無碍道論」をベースにして書かれたものです。このように学僧さんたちは、ご自分のオリジナリティを出そうとして、編集・加筆して、言わば「論文」を作り書いてきています。
このように学僧さんたちは、論文を著してきていますが、原始仏教がどんどん変質していってしますのです。書籍は記録として残ります。後代の人々は、一体どれが本当のブッダの教えなのか、益々混乱していくでしょう。大変懸念しております。
僕はスマナサーラ学僧の講演会にも何度か参加してましたが、マナサーラ学僧ご自身が「私は論文を書くのが得意だ」、と自負してご自身が会場で発言されています。
また、一般的にスリランカ僧たちは、ミャンマーやタイの僧に比べたらあまり瞑想実践を積んできていません。戦後、スリランカ政府は、スリランカの僧侶たちが瞑想をほとんどしないので、ミヤンマー政府に頼んで、ミヤンマー僧がスリランカに出向いて、瞑想方法や瞑想道場の作り方を指導したりしたのです。
私も以前、3か国を回りましたが、ミャンマーやタイの僧侶や在家が寺院などで瞑想しているのをあちこちで見かけましたが、スリランカ(2回訪問)の寺院などで瞑想している僧侶や在家はほとんど見ませんでした。これには本当に驚きました。近年になって瞑想センターなるものができ始めているようです。
瞑想方法は、この本の方法よりも、中部経典の第10番「念処経」や同経典第118「出入息観」などなど、中部経典に書かれている様々な瞑想方法の方が、原始仏教に近い内容です。残念ながら、本書はブッダの説明から、明らかにずれていると思います。
現在、パーリ語「中部経典」は、2社から日本語訳が出版されています。私は、瞑想方法は、今は、すべて「中部経典」をベースに長く実践してきています。絶対、「中部経典」をおすすめします。
日本およびアジアの仏教実践者や仏教学者には、テーラワーダ仏教の教えが「ブッダからブッダゴーサへ」と変質してきてしまっていると揶揄している人たちも多く、真の仏陀の教えを求めるようアドバイスしています。
この点は、私たちもよく自己責任で見極めていく必要があります。「カーマーカ経」を是非一度読んでみてください。ネットで、カーマーカ経で検索すれば、いくつか訳が出てきますので是非ご参照ください。
2013年10月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
同じヴィパッサナーの実践書
「ミャンマーの瞑想法」よりもわかりやすかったです。
瞑想実践者の心の清らかさは必ず同じ段階を踏んで進んでいくこと、
現象の認識の仕方もそれに従って変化してゆくこと、
悟りの世界に入る瞬間、それを振り返って確認することなど
修行者が進んでゆく瞑想の道のりについて
とても詳しく、わかりやすくたとえ話を用いて書かれています。
本書を読むと、自分のいる位置(どのくらい智慧が開発されたか)が
一目瞭然に理解できます。
この本を含む「ブッダの実践心理学」シリーズには一貫して
「これを読んで瞑想を実践して下さい、
そして究極の幸せである涅槃を体験して下さい。
あなたが幸せでありますように。」という
ブッダとその教えを伝えるお坊様方の慈しみの心が込められていると思います。
瞑想が進んだかどうかはわかりませんが、
瞑想のモチベーションはものすごく上がりました。
瞑想実践中の方には是非お読みいただきたいと思います。
「ミャンマーの瞑想法」よりもわかりやすかったです。
瞑想実践者の心の清らかさは必ず同じ段階を踏んで進んでいくこと、
現象の認識の仕方もそれに従って変化してゆくこと、
悟りの世界に入る瞬間、それを振り返って確認することなど
修行者が進んでゆく瞑想の道のりについて
とても詳しく、わかりやすくたとえ話を用いて書かれています。
本書を読むと、自分のいる位置(どのくらい智慧が開発されたか)が
一目瞭然に理解できます。
この本を含む「ブッダの実践心理学」シリーズには一貫して
「これを読んで瞑想を実践して下さい、
そして究極の幸せである涅槃を体験して下さい。
あなたが幸せでありますように。」という
ブッダとその教えを伝えるお坊様方の慈しみの心が込められていると思います。
瞑想が進んだかどうかはわかりませんが、
瞑想のモチベーションはものすごく上がりました。
瞑想実践中の方には是非お読みいただきたいと思います。