「ニルヴァーナは輪廻と異ならない」P100とは、どちらも思考による概念で、輪廻も涅槃も二元論、因果論に基づく思考の産物で、思考・概念には実体がないと腑に落ちること、悟りは二元論、因果論を超えた認識主体の本来の自己の正体・真理を一瞥して知ることです。
「ブッダは実はインドで悟りを開かなかったのです。実際にはブッダは決して悟りを開かず、生まれることなく、死ぬこともありません。この、時を超えたブッダこそが、私達の本当の家であり、不変の空間なのです。ブッダ、ダルマ、サンガの三宝に帰依するとき、私達はこの世のすべての物事から解放されます。三宝は私たちの師となり、ただ一つの生命の真の姿を明示しているのです。」(アーチャン・チャー 手放す生き方)
「ただ生死すなわち涅槃と心得て」道元禅師 正法眼蔵(生死の巻)
「当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり」白隠禅師坐禅和讃
「誰も生まれず、誰も死なない。生まれるのはただ観念だけである。解放されるべきどんな実体もない。この事実を理解しないことが無知を構成する。これを理解することが真理の自由というものだ。真理は現実に絶対的に対応していることを覚えておきなさい。」
「相互関連する正反対のものの根本的同一性を直観的に認識することが解放を意味するのです。なぜならそのとき、探究者それ自身が探究されるものであること、すべての区別はただ二元性の中にだけ存在すること、そして、様々な相互関連する正反対のものがお互いの上に重ね合わされるとき、その結果は相互消滅となり、それによって二元性のまさに条件も消滅し、それゆえ、根本的融和がもたらされるのです。」
(ニサルガダッタ・マハラジの指し示したもの ラメッシ・バルセカール)
インドでは死後は輪廻転生すると考えられていて、生の苦しみから逃れるために、輪廻転生からの解脱を目標としています。涅槃(ニルヴァーナ)とは輪廻転生しない死のことです。
テーラワーダー仏教は涅槃を目指す出世間の教えと修行法です。
「世間」の処世術の常識や人間関係の改善とは関係ないから、「出世間」です。
世間では問題になるからお釈迦様は出家したのであって、世間の幸せの教えなら王位と妻子と国を捨てて出家する必要などありません。
覚者の智慧は思考のない身口意の沈黙、無心の「あるがまま」「無分別智」です。
科学や常識は有身見の「私」の思考による善悪判断の「分別知」です。
有身見とは観察できる観察対象「身体と心」を認識主体の本来の自己・意識と同一視した勘違い、思考で生じたイメージ、自我の錯覚です。
認識主体の本来の自己・意識が観察できる観察対象になることはありません。
観察できる怒らない私、慈悲の私、執着しない私などは思考で生じた有身見の私そのものです。
現象世界において観察可能な対象の有身見の執着しない私、慈悲の私、怒らない私等は意識・真人ではありません。
瞑想の真髄は身口意の沈黙、思考が停止した無心、認識対象がない沈黙が訪れて、思考の産物である二元論、因果論を超えた真理を一瞥して本来の自己の正体を知ることです。
瞑想にラベリングや言葉を使えば思考が生じるので、永久に沈黙は訪れません。
釈迦牟尼とは釈迦族の沈黙の聖者の意です。
ラマナ・マハルシは沈黙の聖者といわれました。
意識が観察対象の身体と心を認識しないと「自己=有身見の私」が消えて意識のみになります。
観察対象が消えると自他の区別・分離が消えて、全体と一つの自己意識のみ、「存在の自覚」、身心脱落・脱落身心・思考=有身見の消滅です。
熟睡中はサマディーの至福ですが、意識の自覚がないだけの休眠状態です。
ブッダは身体は寝ていても意識以前に存在する純粋な気づき、夢も見ない「目覚めた方」です。
私達は起きている時は意識が身体の感覚を使って外側を認識するので、身体に制限されます。
意識が身体と感覚を手放して意識の内側に入つていくことがありませんので、意識以前に存在する純粋な気づきのない、起きている時はいつも思考・概念で一杯の有身見の私の夢の中です。
「後発の学説は必ず先発の学説よりもさかのぼってより古い時代に起源を求めるという考え方」は、経典の年代等を確認する学問的には有効かもしれませんが、古いものが「真理」ということではありません。
最初から真理の言葉など存在しません。
古くても新しくても言葉の経典は真理に「関して、ついて」語っただけです。
百聞は一見に如かず。愛も悲しみも絶望も語れません。お茶の味すら語れません。
たとえブッダでも真理「そのもの」を言葉で語ることなどできません。
釈迦牟尼とは釈迦族の沈黙の聖者の意です。
真理「に関して」一度でも語ってしまうと、真理「そのもの」ではないので、その言葉の補足・修正が必ず必要になり、その後も補足訂正が必要なので切りがなく、八万四千の経典が作られ対機説法をするハメになりました。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」一休宗純
言葉の経典は真理の方角をさし示す指です。
たとえブッダでも真理を言葉では語れないのに「ダンマ・パダ(真理の言葉)」
現実歪曲空間に要注意です。
「もしあなたの探し物が、世間一般が価値をおくような知識だとしたら、それは真の「魂の教師」からは、決して得ることはできません。」
「言葉というものは「道標」に過ぎません。それらが差し示すゴールは、思考の次元では、見つけることができないのです。」(世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え エックハルト・トール)
パーリ語はお釈迦様が行ったことのない西インドの言語です。
お釈迦様が生まれて布教をした北東インドのマガダ語圏で、行ったことのない西インドの言語のパーリ語を話すわけがありません。
証拠もないのに、仏陀の誕生と成道と涅槃を同じ日にしてしまうようないい加減な人たちに、2500年も前、紀元前の言い伝えの口伝が元の教えを一字一句違わず伝えられると本当に思いますか。
「千の質問も、たくさんの瞑想法の知識も、自分を決して真理へと導かないということを知るようになる。」
「ダルマは限定的な世俗の科学による理解を超えた智慧です。」
「表面的な経典の学習は重要ではありません。正しい智慧を授けてくれるものではないのです。」
「自分自身の内面に向き合わないのなら、現実を知ることはありません。」
(アーチャン・チャー 手放す生き方)
ブッダが説いたこと (岩波文庫) (日本語) 文庫 – 2016/2/17
ワールポラ・ラーフラ
(著),
今枝 由郎
(翻訳)
-
本の長さ224ページ
-
言語日本語
-
出版社岩波書店
-
発売日2016/2/17
-
ISBN-104003334310
-
ISBN-13978-4003334317
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
「人間は誰でも、決意と努力次第でブッダになる可能性を秘めている」。スリランカ出身の学僧ワールポラ・ラーフラ(1907‐97)は、最古の仏典に収められたブッダのことばのみに依拠して、仏教の基本的な教えを体系的に説いた。究極真理をめざす実践の本質とは?近代精神を意識して書かれた英語圏最良の仏教概説書。1959年刊。本邦初訳。
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2019年2月14日に日本でレビュー済み
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本書はフランスを中心に活躍した僧であり、仏教学者でもあったワールポラ・ラーフラによって1959年に英語で執筆されたもので、ヨーロッパ各国で最も広く読まれた仏教解説書であるといわれます。この書が仏教を取り巻く環境が大きく違うとはいえ、我が国に翻訳・紹介されたのが2016年になってからであるというのは、ある意味驚きといわなければならないと思います。
仏教、特に初期仏教に関する研究は90年代後半から急速な進歩を遂げ、大乗仏教の位置づけは本書が書かれた当時とは全く異なったものとなっているといっても差し支えないと思われます。こういう点から、本書をもう古いとして問題にしないひとたちがいるのですが、評者は他書の評論でも一貫して主張しているように、ある一時代を築いた書というのは論評の対象としてではなく、まず読んでみる必要があると思います。まして、本書で説かれている上座部仏教の世界観は間違いなく本物であり、多くの人たちにとって時代を越えて参考になるものだと思います。また、この書がこれだけヨーロッパで読まれたという事実は、ヨーロッパ人が仏教をどう捉えているかを考える上でも大変参考になるものであるといわなくではならないと思います。
ただ、もう少し論じてほしかった点があることも事実です。仏教が誕生したころの亜大陸ではバラモン教が絶対的な力を持っていました。そしてバラモン教、その他の宗派を問わず前提なしで信じられていたのが輪廻転生という考え方だったのです。バラモン教においては表面的に現れる自分とは別に、自分を自分たらしめている核としての存在(魂などといってもいいでしょう)があると信じられており、これをアートマンと呼びました。一方この世界・宇宙にはこの世を成り立たせている原理があり、これはブラフマンと呼ばれました。そして、アートマンとブラフマンが一致するとき(梵我一如)を悟りと考えたのです。この考え方は後のヒンドゥー教に受け継がれました。バラモン教はカースト制度のもとになる制度を作った宗教であり、階級差別・人種差別を肯定する面があったため、いろいろと非難するひとも多いのですが、こういった根本の考え方の部分では実に合理的というかすっきりしています。一方バラモン教の絶対支配に対して、社会的、宗教的に反対する立場から起こった諸宗教を沙門宗教といい、仏教もそのひとつでした。では仏教はどう考えたかというと、この世界を構成する要素(漢訳で五蘊などといいますが)は確かに存在する。しかし、ここにいる「自分」という存在はある巡り合わせ(因果)・ある種のエネルギーの局所的な集合(縁起)によってたまたまできあがった仮の存在で、アートマンなどというその背後にある核は存在しないと主張したのです。思考は思考そのものであって、この体がなくなれば思考も消滅すると考えました。しかし、こうなるとひとつ大きな問題が出てくる訳です。では輪廻転生する主体はなにか、自業自得の当体は何かという問題なのです。著者は死後もエネルギーは残るといっていますが、ある個の固有のエネルギーではなく、この世に満ちているエネルギーの一部がたまたまある因縁によって集まったものだとすると、転生してゆく主体は一体何なのか。また仏教の最終目的は悟りを開くことにより、輪廻転生から開放されることにあるといいますが、個の存在を完全否定してしまったところに業や悟りといったものはあるのか。これはわたしのような浅学者の愚かな疑問なのかも知れませんが、この疑問に正面から答えてくれた書物に出会ったことがありません。残念ながら、本書も様々に仏教の教えについて議論していますが、この一点を明らかにはしてくれません。わたしなどは、大乗仏教が空という概念を導入して、それまでの仏教の枠組みをある意味ひっくり返してしまった背景には、この疑問があったのではないかと疑っています。もっとも大乗仏教を論じますと、本書の評論から離れてしまいますのでこの議論はこの辺でやめとさせていただきますが...。
とにかく、この歴史的名著、一度手にとってごらんになることをお勧めします。ただし、決して読みやすい本ではなく、特に訳者が敢えてパーリ語・サンスクリット語を残して漢語の使用をできるだけ控えたため、漢訳仏典に馴染んだ人ほどその傾向が強くなることはお断りしておかなければなりません。
仏教、特に初期仏教に関する研究は90年代後半から急速な進歩を遂げ、大乗仏教の位置づけは本書が書かれた当時とは全く異なったものとなっているといっても差し支えないと思われます。こういう点から、本書をもう古いとして問題にしないひとたちがいるのですが、評者は他書の評論でも一貫して主張しているように、ある一時代を築いた書というのは論評の対象としてではなく、まず読んでみる必要があると思います。まして、本書で説かれている上座部仏教の世界観は間違いなく本物であり、多くの人たちにとって時代を越えて参考になるものだと思います。また、この書がこれだけヨーロッパで読まれたという事実は、ヨーロッパ人が仏教をどう捉えているかを考える上でも大変参考になるものであるといわなくではならないと思います。
ただ、もう少し論じてほしかった点があることも事実です。仏教が誕生したころの亜大陸ではバラモン教が絶対的な力を持っていました。そしてバラモン教、その他の宗派を問わず前提なしで信じられていたのが輪廻転生という考え方だったのです。バラモン教においては表面的に現れる自分とは別に、自分を自分たらしめている核としての存在(魂などといってもいいでしょう)があると信じられており、これをアートマンと呼びました。一方この世界・宇宙にはこの世を成り立たせている原理があり、これはブラフマンと呼ばれました。そして、アートマンとブラフマンが一致するとき(梵我一如)を悟りと考えたのです。この考え方は後のヒンドゥー教に受け継がれました。バラモン教はカースト制度のもとになる制度を作った宗教であり、階級差別・人種差別を肯定する面があったため、いろいろと非難するひとも多いのですが、こういった根本の考え方の部分では実に合理的というかすっきりしています。一方バラモン教の絶対支配に対して、社会的、宗教的に反対する立場から起こった諸宗教を沙門宗教といい、仏教もそのひとつでした。では仏教はどう考えたかというと、この世界を構成する要素(漢訳で五蘊などといいますが)は確かに存在する。しかし、ここにいる「自分」という存在はある巡り合わせ(因果)・ある種のエネルギーの局所的な集合(縁起)によってたまたまできあがった仮の存在で、アートマンなどというその背後にある核は存在しないと主張したのです。思考は思考そのものであって、この体がなくなれば思考も消滅すると考えました。しかし、こうなるとひとつ大きな問題が出てくる訳です。では輪廻転生する主体はなにか、自業自得の当体は何かという問題なのです。著者は死後もエネルギーは残るといっていますが、ある個の固有のエネルギーではなく、この世に満ちているエネルギーの一部がたまたまある因縁によって集まったものだとすると、転生してゆく主体は一体何なのか。また仏教の最終目的は悟りを開くことにより、輪廻転生から開放されることにあるといいますが、個の存在を完全否定してしまったところに業や悟りといったものはあるのか。これはわたしのような浅学者の愚かな疑問なのかも知れませんが、この疑問に正面から答えてくれた書物に出会ったことがありません。残念ながら、本書も様々に仏教の教えについて議論していますが、この一点を明らかにはしてくれません。わたしなどは、大乗仏教が空という概念を導入して、それまでの仏教の枠組みをある意味ひっくり返してしまった背景には、この疑問があったのではないかと疑っています。もっとも大乗仏教を論じますと、本書の評論から離れてしまいますのでこの議論はこの辺でやめとさせていただきますが...。
とにかく、この歴史的名著、一度手にとってごらんになることをお勧めします。ただし、決して読みやすい本ではなく、特に訳者が敢えてパーリ語・サンスクリット語を残して漢語の使用をできるだけ控えたため、漢訳仏典に馴染んだ人ほどその傾向が強くなることはお断りしておかなければなりません。
2016年2月27日に日本でレビュー済み
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非常にわかりやすく、過不足なくまとまった形で、原初の仏教(に近いと思われる)思想が語られています。
わかりやすいと言っても、簡単すぎて情報が少ないというわけでもなく、丁寧に解説されています。
元々は西洋の方を対象とした本だったのでしょう。しかし、仏教国と言われるわが国に伝わったものは大乗仏教となり、中国を伝わって変容したもののようですので、私達日本人にとっても大変参考になるのではないでしょうか。
最初期の思想のエッセンスが濃縮された形で詰まった本書は、最近の仏教ブームで関心を持った
私のようなにわかな者にとっても、とても良い本でした。
わかりやすいと言っても、簡単すぎて情報が少ないというわけでもなく、丁寧に解説されています。
元々は西洋の方を対象とした本だったのでしょう。しかし、仏教国と言われるわが国に伝わったものは大乗仏教となり、中国を伝わって変容したもののようですので、私達日本人にとっても大変参考になるのではないでしょうか。
最初期の思想のエッセンスが濃縮された形で詰まった本書は、最近の仏教ブームで関心を持った
私のようなにわかな者にとっても、とても良い本でした。
2016年3月10日に日本でレビュー済み
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著者のワールポラ・ラーフラ師は、近年わが国でもアルボムッレ・スマナサーラ師によってはやり始めたテーラワーダ仏教の学僧らしい。
セイロン大学哲学博士号を取得し、インドのカルカッタ大学に留学、漢訳仏典などにもあたり、大乗仏教も研究したという。
その後、パリ大学(ソルボンヌ)に留学することとなった、スーパーエリート。
おそらく、サンガ新書のスマナサーラ長老のシリーズを読んでいたら難なく読めると思う。
更に、著者と同時代を生きた中村元先生の数々の原始仏典に関する翻訳や解説を読んでいれば、難しいことは何一つ書いていない。
ただ、四聖諦、四苦の「苦」を「ドゥッカ」とし、漢訳の「苦」を使わないところに本書の翻訳における意気込みを感じた。
この「苦(ドゥッカ)」という概念は単純に「苦しみ」という意味だけではないからだ。
「ブッダの主要な教えのほとんどに関してはテーラワーダとマハーヤーナで異なるところはない」(p.16)
というラーフラ師の指摘は、わが国の全ての宗派の僧ならびに在家、仏教学を専攻する学生などが今一度、
自分たちの教義を顧みる余地がありそうである。
第一章だけでもこの本を読むと分かる。
「大乗仏教は仏教じゃない」とか、「テーラワーダは独りよがりだ」とか、そんなことはないということが。
どれも仏教であり、一あり多なのだ、と。
学生ならば、ランチを我慢しても読んでおくべき!
社会人ならお酒を少し減らしてでも読むべき!
この700円には、それ以上の価値があります!
セイロン大学哲学博士号を取得し、インドのカルカッタ大学に留学、漢訳仏典などにもあたり、大乗仏教も研究したという。
その後、パリ大学(ソルボンヌ)に留学することとなった、スーパーエリート。
おそらく、サンガ新書のスマナサーラ長老のシリーズを読んでいたら難なく読めると思う。
更に、著者と同時代を生きた中村元先生の数々の原始仏典に関する翻訳や解説を読んでいれば、難しいことは何一つ書いていない。
ただ、四聖諦、四苦の「苦」を「ドゥッカ」とし、漢訳の「苦」を使わないところに本書の翻訳における意気込みを感じた。
この「苦(ドゥッカ)」という概念は単純に「苦しみ」という意味だけではないからだ。
「ブッダの主要な教えのほとんどに関してはテーラワーダとマハーヤーナで異なるところはない」(p.16)
というラーフラ師の指摘は、わが国の全ての宗派の僧ならびに在家、仏教学を専攻する学生などが今一度、
自分たちの教義を顧みる余地がありそうである。
第一章だけでもこの本を読むと分かる。
「大乗仏教は仏教じゃない」とか、「テーラワーダは独りよがりだ」とか、そんなことはないということが。
どれも仏教であり、一あり多なのだ、と。
学生ならば、ランチを我慢しても読んでおくべき!
社会人ならお酒を少し減らしてでも読むべき!
この700円には、それ以上の価値があります!