昭和三十年のリアル
最近、昭和という時代が歴史の世界に入りつつあることを、ひしひしと感じる。そうしたノスタルジーもあり、歴史小説家の私も、昭和を舞台にしたミステリー作品を書いたほどだ。
本書は歴史小説界の巨星・司馬遼太郎氏が、産経新聞の文化部記者だった昭和三十年、三十二歳の時、本名の福田定一名義で刊行したエッセイ集だ。刊行時のタイトルは『名言随筆サラリーマン ユーモア新論語』で、タイトルにある通り、サラリーマンの仕事や生活の様々な断片を切り取り、笑い飛ばすという趣向である。
この本を読むと、当時はサラリーマンになることが、重い意味を持っていたと分かる。それは安定的に糧を得られる代わりに、就職した会社に定年まで拘束されることを意味し、相当の覚悟が要ることだったのだ。
また、今はどうでもいいことでも、当時は重大だったことが取り上げられている。
挿話の中に「停年の悲劇」というものがある。文中に出てくる司馬さんの友人の一人は、五十六歳という会社の停年(定年)に思い悩み、五十歳前にもかかわらず、給料が半分の某大学工学部の教授に転職した。その理由が、「そちらの方が、十年も停年が長いから」というのだから笑える。
また別の一人は、二十七歳で会社を辞めたが、三十年ばかり先の定年が心理的な重圧になり、定年のない画家になったという。
これらの話だけでも、当時と今の価値観の違いに唖然とさせられる。だからと言って、挿話の数々が古びていてつまらないわけではない。そこには昭和三十年のリアルがあり、司馬さんや登場する人々の息づかいが聞こえてくるからだ。
人というのは、その置かれた時代や環境の中で様々な価値観に縛られ、日々、苦悶している。高度成長期のとば口に立っている彼らにも、バラ色の未来だけでなく、悩ましい日常があったのだ。
面白いのは、彼らが悩んでいたことが、今ではどうでもいいことになっていることだ。だが翻って考えれば、当時はなかった価値観も生まれ、その蜘蛛の巣の中で、われわれも、もがき苦しんでいる。百年後の人々には、そうした悩みや苦しみでさえ、ほほえましく思えることだろう。
つまり人の悩みなどは、時代や環境が生み出す一過性のものなので、気にしないことが一番なのだ。
本書に収められた四十を超える挿話の数々は、シニア層にとっては懐かしく思えるだろうし、若い人にとっては当時の空気を知るのに最適であろう。
評者:伊東 潤
(週刊文春 2016.12.25掲載)
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内容(「BOOK」データベースより)
昭和30年、サラリーマン時代の司馬遼太郎が本名・福田定一の名で刊行した著書には、ビジネス社会で働く人々への、厳しくも励ましに満ちたエールが綴られている。組織を生きるとは、何が大切でどんな意識が必要なのか。古今東西の名言を引用して語る人生講話には、後年、国民作家と呼ばれる著者の、深い人間洞察が光る。“幻の司馬本”を単独では初の新書として刊行!
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著者について
司馬 遼太郎
大正12(1923)年、大阪市に生れる。大阪外国語学校蒙古語部卒業。昭和35年、『梟の城』で第42回直木賞受賞。41年、『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。47年、『世に棲む日日』を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。51年、日本芸術院恩賜賞受賞。56年、日本芸術院会員。57年、『ひとびとの跫音』で読売文学賞受賞。58年、「歴史小説の革新」についての功績で朝日賞受賞。59年、『街道をゆく“南蛮のみち1"』で日本文学大賞受賞。62年、『ロシアについて』で読売文学賞受賞。63年、『鞭撻疾風録』で大佛次郎賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、文化勲章受章。平成8(1996)年没
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著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
司馬/遼太郎
大正12(1923)年、大阪市に生れる。大阪外国語学校蒙古語部卒業。昭和35年、『梟の城』で第42回直木賞受賞。41年、『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。47年、『世に棲む日日』を中心にした作家活動で吉川英治文学賞受賞。51年、日本芸術院恩賜賞受賞。56年、日本芸術院会員。57年、『ひとびとの跫音』で読売文学賞受賞。58年、「歴史小説の革新」についての功績で朝日賞受賞。59年、『街道をゆく“南蛮のみち1”』で日本文学大賞受賞。62年、『ロシアについて』で読売文学賞受賞。63年、『鞭撻疾風録』で大佛次郎賞受賞。平成3年、文化功労者。平成5年、文化勲章受章。平成8(1996)年没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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