Amazonの他のレビューがいささか古いものばかりなので、それだけで誤解を受けやすい。
ウィルス進化論は90年代相当に保守層に叩かれた。トンデモとも思われた。だが今時代がようやくこの議論に追いついてきた。
それでも一部にはまだ頑強に抵抗勢力が存在する。「
感染症の世界史
」を読めばウィルスや細菌が生物を操るということが実証レベルになっていることがわかる。
※ちなみに栗本さんは大の猫好きで一時期は10匹程いたらしい。もしかしてこの時期の栗本さん、トキソプラズマ症にかかってませんでしたか?妙にドーパミンが高そうな、獰猛な議論が多いので(笑)。流石に脳梗塞後は、病院内で抗生物質とか打たれたり、不本意ながら消毒殺菌はされているから議論の言い方が、以後は妙にネガティブっぽくなった。
マクニールの「
疫病と世界史 上
」「
疫病と世界史 下
」とか読めば1980年代はまだまだキワモノ扱いだったことが文中でわかる。だがそれも過去の話だ。
武村正春「
生物はウイルスが進化させた 巨大ウイルスが語る新たな生命像
」を最近読む。
巨大ウィルスという光学顕微鏡で見ることが出来るほどの存在が発見されたのがここ数年ということに驚いた。パンドラウィルスは長さ1μmあり、大腸菌が2μmなのでバクテリアの半分の大きさなのだ。今まではそれがバクテリアの一種かとか「私たちは、目で見えているものですら、じつは「見えていなかった」なんていう経験も、山ほどしている」わけであり、それがこのウィルスの存在である。「そう思ってみてなかった」という極めて情けない理由からだ。著者はその巨大ウィルスの一種が東京の普通の川にいること「トーキョーウィルス」を突き止めた発見者であるが、これからこんなウィルスが今後沢山発見されると断言してもいい。
極論を言えばウィルスは毎日の様にコピーをし続け、腹具合を変えている(腸内細菌ですら間接的に脳へ指令を送っていると思われる)。もっと微生物側から人間や生物を見つめなおす必要があるだろう。大腸菌や乳酸菌と一緒にこの巨大ウィルスが腹の中にいないと断言するのは難しいだろう。DNA塩基も長く100から200万以上、しかも遺伝子も多くて1000から2000もあり、それが各細胞をウィルス工場化してDNAを書き換えていると武村氏は述べている。人間を含めた動物は消化器内には大量のウィルスや体内細菌を飼っているわけであり、普段の呼吸、飲食や行動で細菌やウィルスを摂取しているということだ。だから栗本さんが「毎日気分がコロコロ変わる」とこの本で述べているのは、そういう存在への直感から来た言葉だろう。
ウィルスは毎日の様に侵入して、DNAを書き換えているということで、生物はウィルスから見れば、単なる「生産工場」に過ぎないと言え、極論を言えば生物は毎日「突然変異」しているということだ。
ではなぜ、ホモ・サピエンスのDNAの引継ぎで「獲得形質」の遺伝は無いと言えるのか。卵子から胎児へ細胞分裂する際、多くは感染しない様、体内の過去は敵対者であった細菌やウィルスを味方にして、強力に「保護」されているだ。だがそれでウィルス進化論が否定されるわけではない。寧ろ不潔な環境程、進化が促されると言えまいか。インドや中国の環境汚染がひどいが、同時に産業の発展がすさまじい。人口増加が留まることを知らない。つまり食生活や人口密度、定住する動植物の相互の接触等、複雑な要素が集中すればウィルスの活性化は、天文学的なやりとりが発生し、引いては身体ですら書き換えてしまうだろう。貧富の差も大きいが精神構造の書き換えを凄まじい勢いでしている様に見える。私に言わせると、腸内の細菌やウィルスが精神の気分を定義していると言える。藤田紘一郎氏の一連の著作を参照されたい。乳酸菌を摂取すると精神が安定に向かうらしい。「
腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するか
」といった本も参照されたい。
これは私の推測ですが、戦後日本人の平均身長は飛躍的に伸びたが、食生活の変化や医療の発達だけでは恐らくないだろう。栗本さんもある所で述べているが、医療の発達や河川の整備より前にイギリスは人口が突然増えてきており、子供の死亡率が減ってきていることを注目している。速水融氏の著書では戸籍データを調べて江戸時代も河川の整備前から人口が急激に増えて、ある時点でほとんど横ばいになっていると指摘している。さらに明治以後急激に人口が増えてきていている。太平洋戦争で多くの人が死んだにも関わらず寧ろ日本全体では増加しつづけていて、6000万人程の人口が1970年代に1億人を突破した理由が今もって不明だ。確かに衛生面は改善されたかもしれないが、ならば戦前戦後の悪環境での人口増加の説明がつかない。食生活の変化?確かに肉食は増えたかもしれないが、タンパク質の摂取は魚等を中心に結構多く食べていたはず。色々と調べても決定打に欠ける。栗本さんの論理で言えば高度成長期前に欧米に対抗できる身体を作ろうとしていた、と言えるがこれまたウィルスの影響なのだろうか?
追記(2019.5.8):メアリー・キルバーン・マトシアン「
食物中毒と集団幻想
」の本を読むと単純にウィルスだけでは還元出来ない証拠もある。例えば麦角菌による堕胎や子宮収縮による流産などがある。小麦の普及、衛生の改善によっての人口増加も併せて検討する必要もありそうだ。また、丁宗鐵「
丁先生、漢方って、おもしろいです。
」にも江戸時代では、梅毒のキャリアが、日本の全人口の約50%を占めていたというショッキングな事実も上げられている。これが江戸時代中期に日本の人口が停滞した要因に梅毒を挙げている。バクテリアや細菌や食料の毒など、広く「微生物圏」から検討しなくてはいけなかったのだ。この辺の議論はまだ現代でも未知の領域が多すぎるので、この本も30年も前のものなので仕方がないのかもしれない。
この本の感想を言えば、正直、栗本さんも現在では認めているが、単純明確化に成功しているとはいいがたい。はっきり言ってこの本は早すぎた。だが栗本さんは単純に「面白い」と考えたから出版しようと思ったし、編集者もその話に乗って勢いで出版した節がある。だから中身が整理されていない。現代こそこの本は再読すべきだと私は思うのだ。いつも先走って、早すぎた説を唱える栗本さんが評価されないのが残念だからだ。いつも20年から30年は早いのだ。
パンツを捨てるサル―「快感」は、ヒトをどこへ連れていくのか (カッパ・サイエンス) (日本語) 新書 – 1988/4/1
栗本 慎一郎
(著)
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本の長さ226ページ
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言語日本語
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出版社光文社
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発売日1988/4/1
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ISBN-10433406034X
-
ISBN-13978-4334060343
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商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
ヒトは、パンツをはいたサルである。パンツは、ヒトを人間たらしめているものだ。このパンツは、それを脱ぐときの快感のためにある。これが、栗本理論、すなわち過剰=蕩尽理論の核心である。そしていま、ついにパンツを脱ぐときがやってきた。脱ぐだけでなく、捨ててしまわなければならないのだ。その結果、ヒトはヒト以外の生物に「進化」するだろう。それは同時に近代社会の崩壊を意味している。
登録情報
- 出版社 : 光文社 (1988/4/1)
- 発売日 : 1988/4/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 226ページ
- ISBN-10 : 433406034X
- ISBN-13 : 978-4334060343
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ベスト500レビュアー
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2013年6月14日に日本でレビュー済み
星は三つ。提起された仮説「快感ウィルス進化論」は良いのだが、書き方が悪いと思う。だから二点減点。
前半はレトロウィルスやRNAや逆転写などの話、後半は脳内快楽物質やA10神経や脳細胞レセプターなどの話、という構成が採られる。つまり前半で遺伝子レベル、後半で脳神経系が語られるわけだが、この本は冒頭を読む限り「社会の変化と身体の変化の相関」を主題にしているわけだし、この本以前の栗本の著作群からの流れを考えても、逆順の構成(つまり脳神経系論を先に、遺伝子論を後に、という構成)の方が分かりやすくて、かつ面白い本になったと思う。私が不足部分を補いながら再構成するなら次のようになる。
1、「社会の変化」とは、栗本的には、「(カール・ポランニーのいう)トランザクション」の変化のことである。
2、トランザクションが変化することと、「(中村雄二郎がいう)共通感覚」が変化することの関係は同値的である。つまり前者が変化すれば後者も変化するし、逆もまた真なり。(これについては、私による『鉄の処女』および『共通感覚論』のamazonレビューを参照のこと)
3、共通感覚が変わるのは、脳神経系が変わったからだ。(これが本書の後半で書かれたような脳の話である)
4、脳神経系が変わるのは脳細胞や神経細胞が変わったからで、それらの細胞が変わったのは遺伝子が変わったからである。そして遺伝子が変わったのは、レトロウィルスが遺伝情報を書き換えたからだ。(本書前半の遺伝子の話)
このような順序で書くべきであった。栗本自身が『意味と生命』という暗黙知論のなかで、マイケル・ポランニーの『知と存在』という本が、精神に近い層の道徳論から物理化学的な生命論へという順序(即ち、上から下へ)で構成されているのは、「層の理論」を意識した良い編集方法であるとして、編者M・グリーンを高く評価していた。それなのに、なぜ「パン捨て」をそれとは逆の、精神レベルとは遠い遺伝子レベルの話から精神レベルに近い脳神経系の話へという順番(即ち、下から上へ)で書こうと思ったのだろうか?意図は分からない(広瀬隆への不要な対抗意識じゃないだろう?)。ともかく、それは非・暗黙知的な書き方で、あんな書き方をしたせいで『パン捨て』は胡散臭い本になったと思う。『加速する変容』という対談本の(吉本との対談の)後書きで栗本は「私は、しばしば誤解されるように、遺伝子から全てを理解できるなどとは思っていない」と書いているが、『パン捨て』における「人間はウィルスに支配されている」だの「ウィルスは神かもしれない」などの記述は、そのように誤解されても文句を言えない代物だと思う。
一体、この本は誰に向かって書かれたのだろうか?
「社会変化(=トランザクションの大転換)と身体変化(=生物進化)の相関」が主題なら、仮にそれが疫病の流行による淘汰を伴うようなものであっても、この本に頻出するような、病気の怖さそのものを強調する記述はエピソードに過ぎないはずなのに、中世欧州ではペストで何万人死んだとか、リケッチアに感染した軍が負けたとかというような話が多すぎる。馬鹿な大衆はそういう即物的な恐怖を話の枕にしないと話題に食いついてこないとでも思ったのだろうか?しかし一方で「身体という言葉を狭く捉えるな、身体感覚も含めて考えよ」というような文言が出てくる。このような警告を理解できる者は、それなりに思想書などを読んでいる知的な層だろう。
公立小学校の教室で教師が喋ってるのなら、ひと連なりの話題の中で、馬鹿な子に向けて喋った後で顔の向きを変えて利口な子にレベルを上げて喋るというようなことはありえる。しかし、書物にはそのような不安定な語りを回避する利点があるはずだ。
今からでもいいから、病気の即物的恐怖を煽る記述部分を縮小し、「狭義でない身体」論を加筆すべきだろう。
栗本は若い頃「仮面ライダー」という人気番組の製作に関与したという。主人公はライダー(および、変身前の本郷タケシ)で、当然彼の出番が一番多い。そして、毎回敵役で客演する各怪人たちが、一回分の出演時間としては、それに次ぐ出番の多さだろう。いっぽうで、悪の親玉である「死神博士」は通常の回では、せいぜい冒頭と終盤に出てきて存在感を誇示するといった役回りで、出演分数は、一回放送分が25分としても、そのなかの5〜6分(比率的には二割強)くらいだろう。「パン捨て」は本来なら、「人間の意識や理性(およびそれに基づく行動や社会)」が主役ライダーのポジションで、「ヒトに快感を否応なく感じさせてしまうドーパミンやA10神経」が怪人のポジションで、「レトロウィルス」が死神博士のポジション、という配置で書かれるべきであった。それを実際には「死神博士」が主役のスピンオフをやっちまったのだ。だから、この書物には本末転倒な感じがつきまとう。
(追記)STAP細胞騒動で、栗本と大和雅之の師弟関係が東浩紀の周辺で取り沙汰されたが、この細胞論の着想と栗本理論には関係があるだろうか。
栗本はかつて橋本治の小説「暗野」やP・K・ディックの小説群を高く評価していて、それらはパトス(受苦)にまみれた若年精神病者が醜い「世間」を(夢うつつの状態で)蹴散らして殺戮した果てに、新世界による救済が待ち受けている、というような筋立てだった(デッィクなら『火星のタイムスリップ』)。「刺激による初期化(=リプログラミング)」というアイディアは大和とバカンティの各々のオリジナルらしいが、栗本の影響下にある大和がこれらの小説群から着想を得た可能性はある。
(さらに追記)柄谷行人の『「世界史の構造」を読む』の230ページ(奥泉、島田との鼎談)で、コリン・レンフルーの「20年前に出現し5万年前にアフリカを出た人類はその時点で農業革命のポテンシャルを持っていたにもかかわらず、1万年前までそれを実現しなかったのが不思議だ」という問題提起を紹介し、柄谷は「数万年間そのポテンシャルを抑制していたのだ」と結論していた。これをもっと抽象的に言うと「技術大革命を実現するポテンシャルを持つべく進化しても、それを直ちに実現するとは限らない」ということになる。だとすると江戸前期の市場社会化(一種の産業革命)は、はるか前に獲得されていたポテンシャルの「急激な解放」なのかもしれない。「はるか前」とはATLウィルスが猛威をふるった縄文末期かもしれないし、こちらもやはり出アフリカ期なのかもしれない。いずれにせよ、ウィルス進化説は短期間の急変(例:中途半端に長い首のキリンの化石が無い事)を説明するために導入されたはずだが、以上のことを考慮すると、江戸前期の激変に遺伝子異変説を持ち出す必要は希薄になるのではないか。脳内麻薬過剰分泌(変性意識状態)だけで「ポテンシャルの解放」は説明できてしまう。「そのポテンシャル自体は何時、如何に形成されたか?」という問いのほうは遺伝子に着目しなければ解けない問題かもしれぬが、それは後回しでよいと思う。柄谷の前掲書を読んで、冒頭に述べた「変性意識論をウィルス進化説より先に書くべきだという考え」にますます確信を抱いた。いまやウィルス進化説自体が怪しいらしいけどね(笑)。でも当時の観点から言っても、その順序が良いだろう。
前半はレトロウィルスやRNAや逆転写などの話、後半は脳内快楽物質やA10神経や脳細胞レセプターなどの話、という構成が採られる。つまり前半で遺伝子レベル、後半で脳神経系が語られるわけだが、この本は冒頭を読む限り「社会の変化と身体の変化の相関」を主題にしているわけだし、この本以前の栗本の著作群からの流れを考えても、逆順の構成(つまり脳神経系論を先に、遺伝子論を後に、という構成)の方が分かりやすくて、かつ面白い本になったと思う。私が不足部分を補いながら再構成するなら次のようになる。
1、「社会の変化」とは、栗本的には、「(カール・ポランニーのいう)トランザクション」の変化のことである。
2、トランザクションが変化することと、「(中村雄二郎がいう)共通感覚」が変化することの関係は同値的である。つまり前者が変化すれば後者も変化するし、逆もまた真なり。(これについては、私による『鉄の処女』および『共通感覚論』のamazonレビューを参照のこと)
3、共通感覚が変わるのは、脳神経系が変わったからだ。(これが本書の後半で書かれたような脳の話である)
4、脳神経系が変わるのは脳細胞や神経細胞が変わったからで、それらの細胞が変わったのは遺伝子が変わったからである。そして遺伝子が変わったのは、レトロウィルスが遺伝情報を書き換えたからだ。(本書前半の遺伝子の話)
このような順序で書くべきであった。栗本自身が『意味と生命』という暗黙知論のなかで、マイケル・ポランニーの『知と存在』という本が、精神に近い層の道徳論から物理化学的な生命論へという順序(即ち、上から下へ)で構成されているのは、「層の理論」を意識した良い編集方法であるとして、編者M・グリーンを高く評価していた。それなのに、なぜ「パン捨て」をそれとは逆の、精神レベルとは遠い遺伝子レベルの話から精神レベルに近い脳神経系の話へという順番(即ち、下から上へ)で書こうと思ったのだろうか?意図は分からない(広瀬隆への不要な対抗意識じゃないだろう?)。ともかく、それは非・暗黙知的な書き方で、あんな書き方をしたせいで『パン捨て』は胡散臭い本になったと思う。『加速する変容』という対談本の(吉本との対談の)後書きで栗本は「私は、しばしば誤解されるように、遺伝子から全てを理解できるなどとは思っていない」と書いているが、『パン捨て』における「人間はウィルスに支配されている」だの「ウィルスは神かもしれない」などの記述は、そのように誤解されても文句を言えない代物だと思う。
一体、この本は誰に向かって書かれたのだろうか?
「社会変化(=トランザクションの大転換)と身体変化(=生物進化)の相関」が主題なら、仮にそれが疫病の流行による淘汰を伴うようなものであっても、この本に頻出するような、病気の怖さそのものを強調する記述はエピソードに過ぎないはずなのに、中世欧州ではペストで何万人死んだとか、リケッチアに感染した軍が負けたとかというような話が多すぎる。馬鹿な大衆はそういう即物的な恐怖を話の枕にしないと話題に食いついてこないとでも思ったのだろうか?しかし一方で「身体という言葉を狭く捉えるな、身体感覚も含めて考えよ」というような文言が出てくる。このような警告を理解できる者は、それなりに思想書などを読んでいる知的な層だろう。
公立小学校の教室で教師が喋ってるのなら、ひと連なりの話題の中で、馬鹿な子に向けて喋った後で顔の向きを変えて利口な子にレベルを上げて喋るというようなことはありえる。しかし、書物にはそのような不安定な語りを回避する利点があるはずだ。
今からでもいいから、病気の即物的恐怖を煽る記述部分を縮小し、「狭義でない身体」論を加筆すべきだろう。
栗本は若い頃「仮面ライダー」という人気番組の製作に関与したという。主人公はライダー(および、変身前の本郷タケシ)で、当然彼の出番が一番多い。そして、毎回敵役で客演する各怪人たちが、一回分の出演時間としては、それに次ぐ出番の多さだろう。いっぽうで、悪の親玉である「死神博士」は通常の回では、せいぜい冒頭と終盤に出てきて存在感を誇示するといった役回りで、出演分数は、一回放送分が25分としても、そのなかの5〜6分(比率的には二割強)くらいだろう。「パン捨て」は本来なら、「人間の意識や理性(およびそれに基づく行動や社会)」が主役ライダーのポジションで、「ヒトに快感を否応なく感じさせてしまうドーパミンやA10神経」が怪人のポジションで、「レトロウィルス」が死神博士のポジション、という配置で書かれるべきであった。それを実際には「死神博士」が主役のスピンオフをやっちまったのだ。だから、この書物には本末転倒な感じがつきまとう。
(追記)STAP細胞騒動で、栗本と大和雅之の師弟関係が東浩紀の周辺で取り沙汰されたが、この細胞論の着想と栗本理論には関係があるだろうか。
栗本はかつて橋本治の小説「暗野」やP・K・ディックの小説群を高く評価していて、それらはパトス(受苦)にまみれた若年精神病者が醜い「世間」を(夢うつつの状態で)蹴散らして殺戮した果てに、新世界による救済が待ち受けている、というような筋立てだった(デッィクなら『火星のタイムスリップ』)。「刺激による初期化(=リプログラミング)」というアイディアは大和とバカンティの各々のオリジナルらしいが、栗本の影響下にある大和がこれらの小説群から着想を得た可能性はある。
(さらに追記)柄谷行人の『「世界史の構造」を読む』の230ページ(奥泉、島田との鼎談)で、コリン・レンフルーの「20年前に出現し5万年前にアフリカを出た人類はその時点で農業革命のポテンシャルを持っていたにもかかわらず、1万年前までそれを実現しなかったのが不思議だ」という問題提起を紹介し、柄谷は「数万年間そのポテンシャルを抑制していたのだ」と結論していた。これをもっと抽象的に言うと「技術大革命を実現するポテンシャルを持つべく進化しても、それを直ちに実現するとは限らない」ということになる。だとすると江戸前期の市場社会化(一種の産業革命)は、はるか前に獲得されていたポテンシャルの「急激な解放」なのかもしれない。「はるか前」とはATLウィルスが猛威をふるった縄文末期かもしれないし、こちらもやはり出アフリカ期なのかもしれない。いずれにせよ、ウィルス進化説は短期間の急変(例:中途半端に長い首のキリンの化石が無い事)を説明するために導入されたはずだが、以上のことを考慮すると、江戸前期の激変に遺伝子異変説を持ち出す必要は希薄になるのではないか。脳内麻薬過剰分泌(変性意識状態)だけで「ポテンシャルの解放」は説明できてしまう。「そのポテンシャル自体は何時、如何に形成されたか?」という問いのほうは遺伝子に着目しなければ解けない問題かもしれぬが、それは後回しでよいと思う。柄谷の前掲書を読んで、冒頭に述べた「変性意識論をウィルス進化説より先に書くべきだという考え」にますます確信を抱いた。いまやウィルス進化説自体が怪しいらしいけどね(笑)。でも当時の観点から言っても、その順序が良いだろう。
2006年12月2日に日本でレビュー済み
ドラッカーの兄貴分ポランニーの経済人類学の継承者、栗本氏の本です。
互酬・再分配・市場交換の三つのトランザクション(取引形態)のうち、マイナーな交換様式にすぎない市場交換が肥大した社会を「市場社会」と呼びます。
本書で言及されている生物進化は、”「非市場社会」から「市場社会」への転換は、実はサルが樹上生活をやめて地上生活するようになったのと同様に、比喩的な意味じゃなくまさに生物学的な「進化」なのだという大胆な仮説が展開されています。
前著「幻想としての経済」の「病にかかった江戸時代」での人口増などもそれ(=進化)に随伴して起こる現象であることを示唆していたらしい。
進化といっても手足の本数が変わるというようなものではなく、柄谷行人「日本近代文学の起源」などで示唆されてた「認識論的布置(≒パラダイム)の大転換」であり、脳神経系における変化の考察が枢要なのでしょう。ここにも、脳内麻薬過剰分泌などと書かれている。
これが「電波」とか「トンデモ」と言われないためには、その後のフォローとか精緻な分析(飛躍を埋める、という行為)が必要なはずなのですが、果たしてその後それはあったのか?
「鉄の処女」のなかで、「永続されない革命は、犯罪だ」と栗本氏は書いていらしたが、まさにその手の永続されない革命の旗手になってしまったのではないだろうか?
あと、文体の乱れが気になる。「経済人類学」から「意味と生命」にいたる素敵にユーモラスな文体が消え、「童子に、どうじても解けない問題」というような、ユーモアとは程遠いくだらない駄洒落が増えたような気がする。
互酬・再分配・市場交換の三つのトランザクション(取引形態)のうち、マイナーな交換様式にすぎない市場交換が肥大した社会を「市場社会」と呼びます。
本書で言及されている生物進化は、”「非市場社会」から「市場社会」への転換は、実はサルが樹上生活をやめて地上生活するようになったのと同様に、比喩的な意味じゃなくまさに生物学的な「進化」なのだという大胆な仮説が展開されています。
前著「幻想としての経済」の「病にかかった江戸時代」での人口増などもそれ(=進化)に随伴して起こる現象であることを示唆していたらしい。
進化といっても手足の本数が変わるというようなものではなく、柄谷行人「日本近代文学の起源」などで示唆されてた「認識論的布置(≒パラダイム)の大転換」であり、脳神経系における変化の考察が枢要なのでしょう。ここにも、脳内麻薬過剰分泌などと書かれている。
これが「電波」とか「トンデモ」と言われないためには、その後のフォローとか精緻な分析(飛躍を埋める、という行為)が必要なはずなのですが、果たしてその後それはあったのか?
「鉄の処女」のなかで、「永続されない革命は、犯罪だ」と栗本氏は書いていらしたが、まさにその手の永続されない革命の旗手になってしまったのではないだろうか?
あと、文体の乱れが気になる。「経済人類学」から「意味と生命」にいたる素敵にユーモラスな文体が消え、「童子に、どうじても解けない問題」というような、ユーモアとは程遠いくだらない駄洒落が増えたような気がする。
2003年5月27日に日本でレビュー済み
細菌やウイルスなどによって引き起こされる様々な病と、人間の歴史の関わりを問題提起した先駆的な著作。10年前に既に脳内伝達物質にも言及している。獲得形質の遺伝が「ない」以上、進化ないし形態変化は遺伝子情報のアプリオリな変異の結果「たまたま」生きのびるものと絶滅するものがふりわけられたにすぎない。よって、実際に見られる様々な生物形態の多様性、複雑性は、「遺伝子の改変」によるしかない。そして、人為説はともかく「自然」に遺伝子を改変するのは、現在の生物学上の知見ではレトロウイルス以外にありえない。