アメリカの作家ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー(1920 - 1994)が1994年に発表した遺作 “PULP” の邦訳。
本作はハードボイルド小説のパロディです。メタ・ハードボイルドといって思い浮かぶのは、同じアメリカ人作家トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』。しかしながら『LAヴァイス』のばあい一応フーダニットやホワイダニットなどミステリー的構造が踏襲されている一方、本作のばあい私立探偵、謎の美女、ギャングなどお約束のモチーフが登場するものの、中身は完全に荒唐無稽。死神やら宇宙人やら喋る動物まで登場するうえ、ひたすらバカバカしい展開が続きます。
たしかに不条理な出来事ばかり起きるので万人向きではりません。けれど、美女が探偵事務所に訪れるハードボイルドの定型をパロディした、最初の数ページのくだらないやりとりを気に入れば、不器量な私立探偵ニック・ビレーンが巻き込まれる喜劇に終始クスクスやニヤニヤがとまらないはず。
また、本作の主人公の名前「ニック・ビレーン」はおそらく、映画『カサブランカ』におけるハンフリー・ボガートの役名「リック・ブレイン」のもじりです。もちろんボガードは、チャンドラーの小説『大いなる眠り』の映画版『三つ数えろ』でフィリップ・マーロウを演じた俳優。ボガートあるいはマーロウとは真逆に、硬派でもなければ、情けなくみじめで、無能な探偵にそうした名前をつける作者のいたずら心がうかがえます。
それでも本作は単なるおフザケ喜劇に終始した作品ではありません。本作の底流にはハメットやチャンドラーが生みだしたハードボイルドの精神が流れています。ニック・ビレーンは歴代のハードボイルド小説の私立探偵のように、自分自身が社会から疎外されたアウトサイダーだからこそ、理不尽な社会を冷静に見つめることができます。たとえば、彼は言います。
「善人だって通りで寝てる奴はいっぱいいる。あいつらは馬鹿なんじゃない、時代のメカニズムに噛みあわないだけだ。時代の要請なんてコロコロ変わるし。酷な話だ。夜、自分のベッドで眠れるだけでも、世の力に対する貴重な勝利だ」(pp.225-226)
ブコウスキーはビレーンのことばを借りて、本作の世界なんかよりもずっと現実世界のほうが不条理じゃないのかと問いかけているようです。アイロニックな眼差しによる社会風刺に満ちながら、けっしてシニシズムに陥らないあたたかさ。そこに、死の病の宣告を受けながらも本作を執筆し続けた、ブコウスキーの人間としての強さを感じとることができると思います。
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